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青木島遊園地廃止問題の影響か…「心に響かない」との声が寄せられた、新年度予算編成

社会問題にもなった「青木島遊園地廃止問題」は、私たち関係者の意識を大きく上回る形で 長野市政に対する市民関心を高めることにもなっています。

私の下(もと)にも さまざまな方々から多様な声(意見)をいただいていますが、とりわけ これまであまり接点の無かった 子育て世代の親御さんから意見を拝聴する機会が多くなっています。

そして、それら「声」の全ては「青木島遊園地は存続してほしい」との〝意思表示〟となっているのが実際のところです。

 

そんな中 この14日、荻原市長は臨時会見を開き、一般会計総額約1611億円の新年度予算案を明らかにしたことが報じられました。

会見にあたり 市長は先ず「子育てや若い世代の支援、新しい産業創造、地域経済や農業振興、スポーツの活用に特に力を入れたい」と述べておられました。

 

 

 

新事業のうち 特に「子育て」等の分野の主なものとしては、妊婦さんの実質的支援に向けた「出産・子育て応援交付金」の実施・新生児の聴覚障害を早期に発見/支援を行なうための「新生児聴覚検査」の実施・放課後子どもプランの一層の推進を期して「一般財団法人ながのこども財団」の設置・家族のケアを子どもが担う「ヤングケアラー」への支援・旧少年科学館をリニューアルした「ながのこども館」整備・不登校の児童・生徒が自然の中で 地域の人たちとさまざまな活動を行なうことができる「教育支援センター」設置などを実施(計画)するとしていました。

 

 

 

すると この日の夜、私の下(もと)にご意見をくださるようになった 子育て世代の親御さん(Aさん)から、一通のLINE(ライン)が届きました。

曰く「今日の荻原市長の(予算編成を述べた)会見をニュースで見ました。」とのことです。

そのうえで「あの会見、私の心に響かなかったんだけど…」と一言。

「どうしてですか?」と返すと「だって(荻原市長は)言ってることとやってることが違うんだもの。」とおっしゃるのです。

さらに訊(き)くと、Aさんの見解は下記のとおりです。

「市長は、新年度予算編成の説明の冒頭から「子育て等の支援に力を入れる」旨の発言をされました。

そして、そのサブタイトルとして「子どもを大切にするまち 長野」を標榜しています(このことは、議会で配布の資料にもシッカリ謳(うた)われています)。

 

 

 

にも関わらず市長は その同じ口(くち)で、たとえ一旦でも「青木島遊園地は廃止します。」と公言し、そのことは未だに撤回されていませんよね。

子育て支援に力を入れ「子どもを大切にするまち 長野」を標榜している市長が、その一方で 子どもの大切な居場所である青木島遊園地を廃止しようとしている。

そんな、敢えて言うならば「二枚舌」を使っているように見える市長の言葉を俄(にわか)に信用することはできないし、いくら荻原市長が「子育てを!」と声高にしてみても、私たち子育て世代は 逆に引いてしまうんです。

市長は一体、子どものことを大切に思っているの?思っていないの?って…。」とのことでありました。

そのうえで「であるとするならば、こんな(予算説明での)大風呂敷を広げる前に「青木島遊園地は存続します!」を明言してほしかった。それが無いままに子育てを語られても、私たちは、ね…」と残念さをにじませておられたのでした。

 

Aさんのおっしゃることは、至極ごもっともだと思います。

(前掲のとおり)子育て支援に力を入れ「子どもを大切にするまち 長野」を標榜している市長が、その一方で 子どもの大切な居場所である青木島遊園地を廃止しようとしていることは、市民にとって「どっちなんだ?」と聞きたくなるような〝矛盾した発言(行動)〟と捉えられても仕方のないところでありましょう。

Aさん(=子育て世代)があまねく思う「子どもの居場所を確保して」との願いの延長線上にある「青木島遊園地存続の要望」は、もし荻原市長が同じ感性でおられるとすれば「存続します!」を直ちに宣言して然るべきと(Aさんらは)思うところでありますが、しかし 残念ながら、今のところ 市長は遊園地の存廃についての明言を避けているところです。

この、市長の 言わば煮え切らない態度には、多くの市民が業を煮やしつつあります。とりわけ 子育て真っ最中の親御さんにしてみれば、長野市のリーダーは いったいどちらの方を見て執務しているの?と聞きたくなるところなのでありましょう。

 

政治には「イメージ」が付いて回るところです。

これまで、実に爽(さわ)やかに 子どもも含めて市民を思って活動してこられた荻原市長(市政)が、青木島遊園地廃止問題を巡って その評価を下げつつあることは憂慮すべき事態であります。

それを挽回・払拭し、再び長野市の真のリーダーとして認知されるためにも「子育て環境重視」の新年度予算編成をPRするに併せ「青木島遊園地」の存続を早期に表明することが求められているのは、誰の目に見ても明らかであると申せます。

 

 

青木島遊園地廃止問題 ~さまざまな視点から「考える機会」に~

今や大きな社会問題となっている「青木島遊園地廃止問題」ですが、一連の経過を経て 実にさまざまな方面から、さまざまな意見や見解などが提起されることになっています。

表面的なマスコミ報道や、この事案を深く掘り下げた新聞記事、また(この面は私 ヨク分かりませんが)側聞すれば Twitterなどの〝裏〟の部分でも議論?が盛り上がっているようです。

 

社会の片隅にある遊園地で起こった争議。

その内容は、一見すると「一部の住民からの苦情⇔そこで遊ぶ子どもへの著しい制限」との〝対立の構図〟であり、このことがマスコミの食指を動かし ついには全国的な話題へと発展しました。

そして 多くの人たちが、表面的な部分から深層に至るまで さまざまな見解(意見)を交わすことになっています。

 

私は、このことは 非常に歓迎すべき事象だと思います。

今回の案件は「これが正解」という明快な結論を導き出すには 非常に複雑な経過を辿っていることから、向き合う人の「思い」や「立場」などによって見解は分かれるところであり、現に 遊園地の存廃に向けて いわば賛否が渦巻くことになっています。

 

そして この議論は、ついに大手地方紙の「社説」にも掲載されることになりました。

2月14日(火)付の信濃毎日新聞[社説]公園の存廃~判断の過程から見直して~ です。

 

 

 

社説では先ず、荻原市長の「再検討の表明」を評価しています。

「(市長が)再検討に変わったのは、地元説明会で 多くの住民の困惑や不信感に直接触れたためだろう」とし、そのうえで「白紙」に戻して「苦情を寄せた住民も含めて対話の場を設けるところからやり直してほしい」としています。

さらに、市の対応について「苦情への対応を重ねる一方で、地域への十分な合意形成をおろそかにしてきた」と指摘しています。

その後は さまざまな経過を経たうえで「市は地元区長会を窓口に協議を進め、廃止を決めている」としたうえで「多くの住民は 秋になって廃止を突然知った。説明会では 廃止理由に反論が相次ぎ、協議の進め方に反発の声も上がった」としています。

 

そのうえで この社説においても、市と住民 とりわけ遊園地を利用する子どもや保護者の声を「直接聞く」努力が足りなかったことを指摘したうえで 判断の過程を見直すことを促しています。

そして、もしかしたら これが一番大切なのかもしれませんが「地域で子どもを育ててゆくうえで、公園(や遊園地)がいかに重要であるかを気づかせることとなった」としています。

そして 社説は最後に「公園(や遊園地)は、住みよい地域にするための共有地だ。騒音などで不快の源になってもいけない。そのためにどうあるべきか。どこでも起こりうる問題として考えたい。」と結んでいました。

 

この論説には、私自身 共感するところであり、私としても 今回の遊園地問題は、地域社会における多様な課題を供出したものであり 今回の件を契機に、さまざまな立場の者が「考え直す」機会となればと強く考える一人であります。

地域における事業などの決定プロセス・事業の起案の時点からの周知 説明の必要性と重要性・苦情などの問題が発生したときの対応の仕方・一部の者(所管)だけで対応せず 全体に諮(はか)ることの重要性・住民代表たる区長会や住民自治協議会の役割とあるべき姿(運営の仕方)等々、もしかしたら 今後の住民自治そのものに対する総合的な課題を提起してくれたとも言えると思います。

 

前日も触れましたが、今回の 一見ゴタゴタに思える案件は、今後の長野市政を助けるキッカケになり得ることになると思います。

そのためには、この 一見ピンチに思える事象をチャンスに転換するためには、関係する(私を含む)全ての者が発想を転換し 事態をイイ意味で吸収する度量をもって臨むことが欠かせません。

 

長野市が、一旦は その評価を失墜させかけた長野市が 逆に成長するチャンスが到来しました。

そのことに心を置いて、課題に向き合うべきであります。

 

青木島遊園地廃止問題 ~広がり続ける反響~

今や大きな社会問題となっている「青木島遊園地廃止問題」ですが、この週末に 地元住民を対象にした「説明会」の開催された際、それらを通じて、私の下(もと)にも多くの そしてさまざまな反響が寄せられています。

「あんなに大勢の人が集まるとは思わなかった。」

集会に参加したお一人は、会場を埋め尽くした住民の数に驚きを隠せませんでした。

件(くだん)の御仁(ごじん)曰く「この件は マスコミでは話題になって、オレ自身は高い関心を寄せていたけれど、地元のモンたちはそれほどでもなく (集会は)せいぜい50人も来ればな、と思っていた。それが…オレも早めに会場に着いたんだが もう受付は長蛇の列じゃん。ビックリさ。」と。

さらに「今までの市(市長)の説明なんかは「遊園地は廃止」一辺倒だった。だからオレは 地元もモンたちは「どうせ廃止だろ…」と諦(あきら)めていたと思ってたんだ。」

「ところが、集会をやってみれば この多人数(おおおにんずう)じゃん。これだけの人が ズク出してわざわざ(会場に)来たということは、地元住民の中での関心の高さを表(あらわ)していたと思うね。」とのことでした。

今回の遊園地問題ての関心度は、集会の参加者数によって断定すべきものではありません。

中には(前掲のとおり)「どうせ廃止だから」と言って(会場に)来なかった人がいることも事実でしょうから、市(市長)は「集会に来た人が多かったから」を理由に 今後の判断を決めるのではなく、参加者の発言内容や傾向のようなものを客観的に分析し 然るべき判断に活かすべきと思うところです。

 

また 集会の後、私の下(もと)に 先日のブログで紹介したお子さんの親御さんから「ウチの子の〝勇気〟を紹介してくれてありがとう」旨のメッセージが届きました。

「ウチの子は「市長さんが来る」と聞いて「じゃあ私、おてがみを書く!」と言ったと思ったら、自分から紙と鉛筆を持ってきて(手紙を)書いていました。普段は 自分から宿題をやることなど無いのに(笑)」

「私は その自発的行動を見て「あぁ、子どもなりに遊園地で遊べないストレスを抱えながら過ごしていたんだなぁと実感させられました。」と、ご自身の子ながら感心した面持(おもも)ちでした。

で、「今回のことは、子どもにとってもイイ経験になりました。子どもだから我慢しなければならないんじゃなくて、子どもでも「言う権利」があること。集会でも「子どもの権利条約」の話しが出されていましたけど、私たち大人も そこに心を配って子どもに接してゆかなければならないと改めて思いました。」

で 最後に「ウチの子、後に報道されたテレビや新聞で「おてがみ」のことが流された(載せられた)こと、その後 クラノさんのブログで紹介されたのを見て、とても喜んでいました。」

「これからも、さまざまな場面での子どもたちの行動を 積極的に紹介してあげてください。」とエールを送っていただきました。

先日も触れましたが、今回の集会での 子どもさんからの「しちょうさんへのおてがみ」は非常に大きなインパクトをもたらすと同時に、それは市(市長)だけでなく 会場にいた私たち大人に対しても、イイ意味での問題提起をしてくれる〝勇気ある行動〟でした。

私自身、あの「おてがみ」が 親に言われたのではなく、自分で一念発起して書いたということに驚かされましたが、さらにその内容…「あそびたくてもあそべないので あそばせてください」とか「市長さんは どうして大人の話ししか聞かないの?」そして「別の場所へ遊びに行くのはあぶない」などと、大人の視点では〝二の次〟にされるような、でも最も大切な課題をズバリと指摘してくれたことに、感心するばかりでありました。

まさにこれが「当事者の生(なま)の声」でありましょう。

原稿まで用意して集会に臨んだ「勇気ある行動」です。「ものすごく褒(ほ)めてあげてください。」と返答したところです。

今回の問題の舞台となった遊園地での 主役はあくまで子ども。私たちは「子どもたちのために何が最善か」の視点、そのうえで公序良俗に基づき議論を交わすべきでありました。

それが 実際には、大人の事情(手続き・メンツ・プライド・保身・つじつま合わせ)を基準に事態が推移していた…私たちは そのことに内省しながら今後に臨むべき、との思いを新たにさせてもらったところです。

 

他方、一連の経過の中で 行政職員に対する同情の声も寄せられていました。

「担当した(担当していた)職員は 住民の苦情やさまざまな事案が発生する中、現行制度や責任の範囲で精一杯に対応してきた。特に 今回の遊園地については、地元の要望で造って 地元の要望で廃止するとの、然るべき行政手続きに則(のっと)って対応したのに、それが「行政が悪い」と言われるのは非常に辛(つら)いと思う。」とのことです。

このことについては、私も 行政職員には同情を禁じ得ないところです。

彼らは〝所管〟という 自分に与えられた守備範囲の中で市民対応に努(務)め、そして 遊園地の廃止についても、ルールの中で手続きを履行しただけなのです。それが、なぜ〝間違っていた〟というように言われなければならないのか…。

行政職員の愚痴(グチ)の声が聞こえてくるようです。

 

私は、彼らは 決して間違っていたとは思いません。

おそらくは「足りなかった」のではないか、と。

苦情などの問題が発生したとき、即座に対応した。そこまでは良かったのです。

しかし その時点で、区(地元住民)や 他の所管との情報共有を行ない、所管だけの問題では無く〝全体の課題〟として取り組んでいれば。

区長さんなど 区の代表者と手続きを進める際、全体への周知など「周辺への配慮」を行なっていれば。

事態は もっと違ったものになっていたかもしれません。

自分の守備範囲の〝その先〟を見る努力がちょっとだけ足りなかったが故に、こんなことになってしまったとすれば、さらに多様化を増す地域社会においては「今ままでどおりでヨシ」としない〝もう一歩〟を踏み出す感性(もしかしたら勇気)が、行政職員にも求められているのではないかと実感させられました。

 

また、こんな見解も。

「荻原市長は揺れている。そこに、彼の人間性を見た。大いに結構、揺れてほしい。」というもの(好評価)です。

就任してから僅か1年余、まだまだ手探りの部分もある〝新人市長〟は、さまざまな行政事務(事業)を行なうための情報には「これまでの経過」が欠かせないものです。

それ(経過)を参考に行政を進める中、今回の青木島遊園地廃止問題に関しては 今までとは違った顛末になりつつあります。

(前掲のとおり)行政ルールに則って「廃止」の方向で進んでいた施設が、実際には「存続」を願う住民が少なからずいる事実があったことを知らされた。

で、これが〝従来型の市長〟であれば、いかなる反対意見が出されようとも「既に決まったこと」で押し切るのが常道でありました。出された意見も〝ガス抜き〟で片つけてしまう。

ところが 荻原市長は 集会で出された意見を真摯に受け止めたうえで、(廃止との)既定路線を自ら修正し「最後は自分で決める」と公言するに至っています。

私はそこに、彼の〝人間性〟を見た思いがしました。

前掲の人が言うとおり、大いに揺れ、考え、最後は「ご自身で」決めればいいと思います。

今回の件での 荻原市長の「心の揺れ」に、逆に 彼の可能性のようなものを感じ取ったところでありました。

 

 

立派な遊具があるわけじゃない。

見ようによっては「ただの原っぱ」でしかない青木島遊園地ですが、そこには 地元住民の愛着があります。

今回の集会で 奇しくも明らかになったサイレントマジョリティや、遊園地に寄せる地元喰う民の「思い」などを踏まえ、これから荻原市長が「私の責任で判断する」とした後の英断に、多くの人たちが注目を寄せています。

 

 

 

青木島遊園地廃止問題/地元住民を対象にした市長説明会が開かれ「存続を」の大合唱

今や大きな社会問題となっている「青木島遊園地廃止問題」ですが、そんな中 この日(11日)に、地元(青木島)の住民を対象にした「説明会」が 荻原市長も出席して行なわれ、約300名もの人たちが会場に足を運んでおられました。

 

 

この件については、一部住民の苦情をきっかけに子どもの居場所であるハズの遊園地が廃止の方向に進んでいることから 市民のみならずマスコミの関心が一気に高まり、いわば〝全国区〟のニュースになっているところですが、その真相(深層)について知る人(市民)は多いとはいえません。

その背景には 一連の行政手続き等が、市の担当課と区の役員との いわば限定的な中で交わされてきたことがあり、多くの地元住民にとっては「寝耳に水」の顛末であったようです。

そのうえで、これまでの経過の中で 市(市長)は「廃止」の方向を打ち出すものの、多くの地元住民は「遊園地の存続」を願っていることが伝えられ、その考え方に〝ねじれ〟が生じていることから、おそらくは市長判断に基づき説明会を行ない、改めて住民の方々のお考えを広く聞く機会を設けたということであります。

 

14時の開会を前に 会場には続々と住民が訪れます。中には「当事者=主役」であるハズの子どもの手を引いて来場する親御さんの姿も。

 

 

 

会場の外では、この日 市長が来られるということを聞き「しちょうさんへのおてがみ」を書いた子どもが、手紙をマスコミに披露してくれていました。

 

 

 

訊けば この子らは、大人の事情で自分たち居場所である遊園地が廃止されることを悲しんでいたところ「市長さんが来る」ことを知り、だったら 自分たちの率直な思いを直接に伝えたいと自ら思い、一念発起して「おてがみ」を書き 会場に持ってきたそうです。

そして…この「しちょうさんへのおてがみ」が 会場で大きな力を発揮することになるのですが、この時点では それを誰も知る由はありませんでした。

この子らを初め、多くの住民がそれぞれの「思い」を胸に、会場に入ってゆきました。

 

 

 

やがて定刻が近づき 荻原長野市長も到着、やや緊張した面持ちで会場入りされてゆきました。

 

 

 

入場は地元住民限定でしたが、受付には それは多くの住民が並ばれ、それだけで この問題の関心の高さが窺(うかが)えました。

会場内は満員御礼状態。会場内は 何ともいえない熱気を帯びた状態となっていました。

私たち市議は、事前に所管課の了承を得て傍聴させてもらいました。

無論、発言等は不可。共々に住民みなさまの「声」を聞かせていただきました。

 

 

 

残念ながら、説明会のホール内は撮影禁止。マスコミもシャットアウトされるなど〝厳戒態勢〟での説明会となりましたが、会の中では非常に活発な意見が出されることになったのでした。

 

14時ちょうどに開会、市長の挨拶の後に ひと亘りの経過説明が行なわれ、その後は いわゆるフリートーキングの形で(司会役の指名に基づき)発言(質問・意見)が出されました。

その内訳は、2名ほどを除き 約30名ほどが指名される中、その全てが「遊園地存続を!」の声・声・声でありました。

「子育て環境日本一」をめざす市長が その子どもの居場所である遊園地を廃止するのは公約に逆行しているのではないか。

市が掲げる「廃止に向けた6つの理由」の論拠には無理があり 納得することはできない。

苦情者の〝苦情先〟は、あくまで児童センターに来る保護者の「クルマの音」に向けられたものであり「子どもが発する音」は対象外なので、苦情→子どもの音→だから遊園地廃止 は事実と符合しないのではないか。

市は 遊園地を廃止して、放課後児童(低学年)を校庭で遊ばせるつもりのようだが、今でさえ(上級生で)混雑している校庭に低学年児童を混在させれば 不測の事故のリスクが一気に高まる。児童の安全のためにも遊園地を利用するべき。

廃止の理由に「愛護会」が廃止されたとあるが、事実誤認。地元住民(有志)は既に愛護会を再結成しているので、その廃止理由では(廃止に)当たらない。

私たちは高齢者なので、とにかく将来を担う子どものことを優先してもらいたい。

今回の件は、一部の者(区長)が手続きを進めたことに問題がある。もう一度地元に差し戻し、一から議論させてもらいたい。

子どもには「子どもの権利」があり、これは国連で定められている。子どもの「遊ぶ権利」と、そのための「遊び場を確保する大人の責務」を正しく履行すべき。

等々…実(じつ)に多様な視点からの意見、しかして その全ては「遊園地存続を!」との同趣旨の内容でした。

 

そして 中でも参加者の胸を打ったのが、前掲のお子ちゃまたちの「しちょうさんへのおてがみ」でした。

司会の指名を受けた児童は、ややたどたどしく、でもとってもハッキリした声で 市長に「思い」を伝えてくれました。

最初の児童(妹?)は「私は この遊園地で遊んだことがないので遊びたいです」旨の内容。

そうです。この幼子は 生まれてこの方(かた)、この遊園地で遊んだことがないようなのです。

目の前に遊園地がありながら 未だ遊んだことがない現実…その寂しい思いを訥々(とつとつ)と話す姿には、会場から大きな励ましの拍手が送られていました。

次にマイクを取ったのは 年上(姉?)の子です。

そして この子の発言内容が 実(じつ)に当を得ており、感動というか その視点には感心させられるばかりでした。

「市長さんは、どうして大人の話しばかり聞いて、子どもの話しを聞いてくれないのですか?」

「遊園地が使えなくて、離れた場所に遊びにゆくけれど (交通事故などの危険があり)危ないので、遊園地で遊ばせてください。」

これまでの市の いわば偏(かたよ)った対応、さらに 対処療法的に遊び場を変えることで生じる危険をズバリと指摘しており、これに対しても 場内から大きな共感の拍手が送られていたのでした。

 

これら さまざまな「青木島遊園地の存続を願う声」を、市(市長)は どのように受け止めたのでしょうか。

集会後 市長はぶら下がり取材に応じたとのことで、その結果が 夕方のニュース等で一斉に報じられていました。

で その報道内容を総じれば、市(市長)は これまで廃止一辺倒だった表現をイイ意味で後退させ「(遊園地の)存廃を再検討へ」と舵を切り直したことが伝えられていました。

 

 

 

取材を受けて荻原市長は「市は(遊園地)廃止の判断をさせてもらったが、出席した皆さんの話しを受け止めた中で、廃止のままでいくのはどうかな と。」

そのうえで「廃止なのか、存続なのか含めて判断していきたい。」とし、これまで(市長は)廃止の方針は変えないとしてきましたが 存続も視野に入れる考えを示し、事実上 方針転換したことが速報で伝えられていました。

 

で おそらくは、市(市長)の心を動かした大きな要因には、幼子(おさなご)がしたためた「しちょうさんへのおてがみ」の力(ちから)があったことは間違いないでしょう。

 

 

 

 

・・・・・・。

私は、今回の「青木島遊園地問題」は、今後の荻原市政の行く末にも関わものであると憂慮し、そのうえで、現時点では「存続」を表明されるべきだと強く考えています。

この案件の経過については、私たちの立場(議会)に対し かねてより都市整備部(公園緑地課)から「一部の住民(世帯)からの苦情によって遊園地廃止を余儀なくされた」との報告を受けていましたが、その後 関係者をはじめ様々な方々からお話しを伺ううち、その経過は〝一軒の苦情→遊園地廃止〟というような単純な構図で済まされないことが分かってきました。

その詳細については これまでも触れていますが、例えば 遊園地廃止に向け事実と異なる根拠に基づき手続き(作業)を進めてきたこともあることが指摘されたり、そのうえ、市が掲げる「廃止に向けての6つの理由」の論拠も説得力に乏しく 矛盾すら感じられる内容になっていることなどから、現在の手法や手続きをもって廃止と結論づけることは 客観的にみても難しいと言わざるを得ません。

無論、これまで長年に亘りクレームに悩まされ、様々なクレームに対し精一杯の対応に務(努)めてきた職員の労苦には同情を禁じ得ないところです。

市職員にしてみれば、クレームに対応し、そのうえで遊園地の利用者(団体)と調整を図ったうえでの廃止の結論を導き出しており、手続き上は何ら瑕疵(かし)の無いところですが、今回に関しては、その背後にいる多くの市民(住民)や世論の「声」ての対応が抜け落ちており、そのことを置き去りにして事(こと)を進める(廃止する)ことは、後の荻原市政に大きな禍根を残すと言わざるを得ず、私は それを一番に憂慮しているのです。

荻原市政(市長自身)は、子育てを重点施策に位置づけ「あのえっと」の設置や、子ども・子育てに関する施策を推進するなど その特徴ある市政運営は高評価を得ています。

ところが、今回の青木島遊園地問題において「廃止」を最終決定することは、荻原市政における「子育て支援の好イメージ」を失墜させることにつながり、今後 いくら市長が子育て支援を声高にしてみても、市民や世間(社会)は「子どもを犠牲にして遊園地を潰した市長」のレッテルを貼り、施策が(市民の)心に響かないことになってしまうことは必定です。

それら様々な情勢を俯瞰(ふかん)で見たうえで、現時点で青木島遊園地は存続させるべきであります。

現在、当該地区では「青木島遊園地の存続を願う地元有志の会」が、署名活動や存続に向けた啓発活動を展開しており、私も乞われて活動のお手伝いをしていますが、この団体は 一部の過激な反対論者とは一線を画し、あくまで対話姿勢に立って遊園地の存続を願っています。

さきには、休眠中であった「愛護会」を再結成させ、地元住民が一体となって遊園地を管理する意欲に燃えておられます。

今回は、様々な問題の中で ぎくしゃくした面もあったと思いますが、そのうえで まさに「雨降って地固まる」これを契機に青木島住民の方々が、あの遊園地を起点に良好な地域づくりに取り組んでくれることが大いに期待されます。

もし、これで遊園地廃止を決めれば、地区のコミュニティをも壊すことにつながることを併せて憂慮するところです。

なお、当該の苦情者については、実際には遊園地で遊ぶ子どもに対する苦情は数えるほどであることも明らかになっていることから、遊園地利用と苦情内容を明確に切り分けた上で 今後も創意工夫を重ねて遊園地の利用を行えば、あらぬクレーム騒ぎには発展しないと思うところです(このことについては、今後も研究する必要はあるでしょう)。

荻原市政が誕生して1年。ようやく荻原カラーの新年度予算編成に臨む中、一方で この遊園地問題は、市政のイメージをも左右する試金石の場となっています。

これらを踏まえ、市(市長)は 市民の〝声なき声〟を聞き、その付託に適切に応える意味においても、青木島遊園地は存続させ、今後は市民と一緒になって良好な環境づくりに取り組んでゆくことを提案するところであります。

 

 

長い経過を経て、その〝歴史〟のうえに立って 当初は廃止を強調していた荻原市長。

それが、この日の説明会で「住民の声」を聞き及び、イイ意味で揺れることとなりました。

 

 

 

前掲のとおり 今回の青木島遊園地廃止問題は、単なる遊園地問題を越えて 荻原市政そのものへを評価する〝通過点〟となってきました。

今後、市長がどのような判断を下すのか…その胸中は本人にしか分からず、社会全体が注目してゆくところであります。

 

 

 

私自身 荻原市政の今後に大いに期待を寄せる立場で、であるからこそ、今回に関しては これまでの経過を乗り越えて「存続」へと舵を切り直すべきであると強く考えます。

それは、一見すると これまでの職員努力を覆(くつがえ)すことになり、抵抗感も強いかもしれませんが、長い目・広い視点からすれば、それ(存続の判断)は 市長のみならず市職員や市全体を救うことにもつながるのです。

市長ならびに市職員は、果たして そのこと(大局)に心をいたすことができるでしょうか。

 

以降、賢明な判断が待たれるところです。

 

 

青木島遊園地廃止問題…関わるほどに見えてくる「事実誤認・錯誤・矛盾」

今や大きな社会問題となっている「青木島遊園地廃止問題」ですが、問題が表面化してから相当な日数が経過し、で 私自身が案件に関わるようになってきた中で、どうやら(当初)私が聞かされてきた説明・内容と〝事実〟が異なることが分かるようになってきており、このことに いわば困惑させられると同時に、然るべく軌道修正しなければならないとの職責を実感するところであります。

で…その深層には、いわゆる「大人の事情」や「大人のメンツ」が見え隠れしており、そこには(これまでも繰り返していますが)肝心の「子どもたちのためにどうすることが最善か」との〝原理原則〟が置き去りにされている感を抱かざるを得ないところです。

 

私たちは当初「一部の住民からの遊園地に対する苦情に起因して 施設(遊園地)を廃止せざるを得ないことになった」との説明を受けていたところですが、後に関係者と関わり 話しを伺ううちに、実際には「それだけじゃない」ことを知ることになったのです。

さらに、それら 事実とされることに基づいて市が挙げている「遊園地廃止の6つの理由」にも「?」と言わざるを得ない点が散見されるようになり、このままの状況で廃止をゴリ押しするには やや…というより、かなりの無理があると言わざるを得ないことになっています。

 

この 遊園地廃止に向けた「?」については、既に信濃毎日新聞の特集『声のチカラ』で その多くが連載されており それも大いに参考になっているところですが、それを裏付けるような「事実」が私の方(ほう)にも伝わってきており…これは捨て置けないというのが実際のところです。

(以下、既に新聞報道等や これまでのブログで重複しているものもありますが ご寛容ください)

その事例をいくつか述べれば…

先ず、遊園地廃止の大きな理由になった 施設(遊園地)の草刈りなどを担う「愛護会」の〝廃止〟ついてですが、関係者によると 確かに担い手の減少やコロナ禍などで愛護会存続は難しい状況に陥ったけれど、当事者から「止(や)めます」とは一言も言っていないとのこと。

さらに言えば、現状の厳しさを伝えた際に 市の方(ほう)から「それなら止(や)めますか…」と水を向けられ、その際に(これは悔やまれるところですが)首を縦に振ってしまった経過があるようなのです。

と いうことは、市の方(ほう)から 愛護会廃止を促したと解釈される面もあり、非常に微妙ながら 禍根を残すことになってしまっています。

これに関しては、さっそくに愛護会復活の動きがあり 今後の遊園地管理に何ら支障は無いとのことです。

 

また 一部の世帯の「音」などに対する苦情についても、児童が遊園地で発する音に対する苦情は ほんの僅かで、その(苦情の)対象は 送迎のクルマなどの〝遊園地以外の要因〟であるとのこと…いつの間にか 苦情の中身がすり替わっているようなのです。

このことは「一部住民の苦情によって遊園地廃止 の方程式」そのものを否定する〝事実〟なのです。

 

また 関係者は、これまでの苦情対応について 市に何度も相談してきましたが、市はその度に対処療法を行なうばかりで 苦情者との対話など〝抜本的な解決〟に向けた努力を重ねた形跡が無いとのこと。

で、この背景には「職員の異動」があるのではないか との指摘が。

すなわち、いかなる問題があっても それは自らが担当でいる間は対処療法でやり過ごし、異動後のことは〝申し送り〟で後はヨロシク✋との 悪しき先送り体質が問題を膠着させてしまったのではないかのではないか、とのことなのです。

 

さらに 遊園地を使わないことでの「子どもに関わるリスク(危険)増加」を指摘する声も。

児童センターや保育園の利用者である子どもたちは、遊園地が使えなくなると それ以外の場所の利用を余儀なくされます。

そのことが 子どもたちにとって〝新たなリスク〟になるとの指摘が寄せられています。

現に 保育園の子どもは、遊園地から遠く離れた場所へのお散歩を余儀なくされていますが、その途上はクルマも走る一般道であり、常に交通事故のリスクを背中に移動する状況にあるそうです。

また、これで万一 遊園地が廃止になれば、放課後児童は(近いとはいえ)一般道を通って校庭への移動を余儀なくされることになり、そこには新たなリスクが生じることになるでしょう。

で…ここで問題視されるのが、関係者からの質問に対する市の回答です。

関係者は「子どもが校庭に移動することになって、万が一ケガでも負うようになったらどうするんですか?」旨の問いに、市の職員は返す刀で「万が一のことがあっても「保険」に入っているから問題ありません。」と答えたそうです。

この「回答」は、あくまで手続き上 もっと言えば〝大人の事情〟で大丈夫と言っているだけのこと。

万が一のことがあって傷つき痛みを覚えるのは 他でもない子ども自身なのに、その職員は 肝心の子どもの「痛み」について 何ら心を寄せていないのです。

こんな事務的な対応は 許されるものではないでしょう。

 

さらに言えば、側聞すれば 今でも青木島小学校の校庭は、放課後児童の遊び場として混雑の様相にあるとのことです。

そこに無理矢理 児童センターの子どもを放り込むようなことをすれば、混雑に拍車がかかり とても安全に見守ることはできないとの現状があるようです。

これまで、市が対応策として大きく掲げている「放課後児童は校庭で」の理屈は 実際には成り立たないことが(現場の声として)示されているようなのです。

 

また かかる校庭利用に向け、見守り要員として 職員(支援員)の増員を画策しているようですが、これは 市の掲げる廃止理由⑥「年間60万円の地代を払わなければならない」に矛盾することになります。

すなわち、遊園地廃止→校庭利用→支援員の増員→地代を大きく上回る人件費の発生 となり「カネがかかるから遊園地廃止」との図式が崩れることになるのは、誰の目が見ても明らかなところでありましょう。

 

もっと言えば、これまでの経過を記(しる)した「議事録」について、苦情主が「5人以内で遊べば可」旨の条件提示ついて、それが言われた時期より遡(さかのぼ)って その口述があったと(議事録が)されており、これは 事実と異なる内容を議事録に残したことになるのでは、との指摘があり これは別の次元で看過できないと言わざるを得ないところです。

 

 

・・・・・・。

このように、私自身 この青木島遊園地廃止問題に関わるうちに、日を追って「事実誤認・錯誤・矛盾」の〝新事実〟に触れることとなり、これは看過できないと認識せざるを得ない状況に至っております。

で それとは別に、純粋に子どものことを思う中で「遊園地存続を願う地元有志の会」の活動が多くの住民の賛同を得ながら活発化している事実もあり、事(こと)の解決は 行政サイドが描いた絵のようにはゆかなくなっていることが肌で感じられます。

11日には、荻原長野市長が自ら現地(更北公民館)に足を運び「市民の声を聞く」としていますが、果たしてどのような展開になるのか予断を許さないことになっています。

さまざまな「事実」を踏まえ、然るべき判断が為(な)されるのか…注目されるところです。

 

 

 

青木島遊園地廃止問題に感じさせられる〝デジャウ”(既視)感〟

今や 大きな社会問題となっている「青木島遊園地廃止問題」ですが、地元住民の方々の求めに応じて存続要望活動のお手伝いをさせていただく中で、この問題が 実は単なる遊園地存続⇔廃止のことに止(とど)まらず、長野市内での 一見すると別のジャンルと思われる課題と同じ性質を有していることを実感させられています。

いわば〝課題のデジャウ"感(既視感)〟とでも申しましょうか…一見 全く異なるように見える問題の中に、同じ〝影〟が見えるのです。

 

私は今、3件の市民課題に関わっています。

1つは、この 青木島遊園地廃止問題。

2つめは、知的障がい者支援を取り巻く諸課題についての取り組み。

3つめは、公共施設マネジメントにおける施設の存廃や利活用についての取り組み です。

 

1つめの 青木島遊園地廃止問題について は、ご案内のとおり 長期に亘る「音」に関する問題が膠着(こうちゃく)し、遊園地が存続されるか否かの大問題に発展しています。その経過についてはさまざまな評価と分析がされているところですが、この案件の中で、最も重要視されるべきでありながら置き去りにされている点があります。

最も影響を受けているのは、なにいう「子どもたち」なのです。

2つめの 知的障がい者支援を取り巻く諸課題について は、本来 知的障がい者の自立と収入(工賃)アップを図るために存在する障がい者支援施設が、実際には、施設(団体)の維持と そこで働く職員の就業のために存在し、肝心の障がい者への真の支援が置き去りになっている実態がある。

ここでも、最も影響を受けているのが、施設の利用者さん(知的障がい者)なのです。

3つめの 公共施設マネジメントにおける施設の存廃や利活用について は、市(行政)が 総務省の肝いりで進めようとする「公共施設マネジメント」によって公共施設を削減しようとしており、そこには市の業務効率が先立ち、いま施設を使っている利用者の利便性が置き去りになっています。

ここで影響を受けているのが、利用する施設が無くなってしまう 利用者たる市民のみなさんなのです。

 

青木島遊園地廃止問題に関わる中、その通底に横たわる本質的な問題~子どもたちが最も影響を受けることになっている~を再認識したとき、他のジャンルであっても 全く同じ構造的な問題があることに気づかされたのでした。

行政体や団体のなどの組織運営や事業を進めるとき「誰のための組織(事業)か」との基本原理(原則)を見誤ったり、組織にとってプラスになるためだけに腐心することで何が起きるか。

 

肝心の、本来 益(えき)を受けるハズのエンドユーザーが、逆に組織の犠牲にさせられてしまうのです。

この、本来あってはならない悪しき社会状況は 何としても直してゆかなければなりません。

そのために 私たちは何を為(な)すべきか。

事業や組織に関係する全ての者が、現場を知り そこに居(い)る人を知り、どういう思いで活動されているかを知る。

そのうえで、一方の価値観に拠(よ)らず 双方・全体を俯瞰でみたうえで最適な環境を共々に模索し、みんなで結論を導き出す努力を重ねてゆこう。

 

従前にも触れましたが、これから社会状況が複雑かつ厳しさを増す中、であるからこそ 互いを認め、支え合いながら前へと進んでゆかなければならない。

そんな意識を持たず 一方の価値観で物事を進めようとするから、さまざまな問題が発生するのです。

 

 

 

「廃止の公園(正確には遊園地)に代わる学童保育の校庭利用」報道…その真意は 

6日のNHKローカルニュースで「長野市が廃止の公園(正確には「遊園地」以下訂正)に代わる学童保育の校庭利用を春休みに実施することを決める」旨が報じられました。

 

 

 

報道は以下のとおりです。

「長野市の青木島地区にある遊園地が 近隣住民からの騒音への訴えなどをきっかけに廃止されることを受けて、遊園地に代わって近くの小学校の校庭で学童保育施設の子どもたちを遊ばせる方針を示していた市は 安全を管理するスタッフを確保したうえで春休みに実施することを決めました。

長野市の青木島遊園地は、隣接する学童保育施設の子どもたちが一斉に遊び うるさいなどと1軒の住民が訴えたことをきっかけに、利用者や管理する人もいなくなったことから来月末で廃止されます。

市は、長年 公園を利用してきた学童保育施設の子どもたちを近くの小学校の校庭で遊ばせる方針でしたが、子どもたちを引率したり 安全を見守ったりするスタッフを確保できず開始時期が決まりませんでした。
保護者などから早期の利用開始を求める声が高まるなか、市はスタッフの出勤回数を増やしたり配置を変えたりすることで3人程度を確保したうえで、まずは春休みの期間中に実施することを決めました。

一方で、平日の放課後は利用時間や迎えに来る保護者への対応などについて検討が必要なため、開始時期は決まっていないということです。

市は新たな対応について市長も出席する今月11日の住民説明会で明らかにする方針です。」とのことです。

 

この報道については、いくつかの疑問点があります。

まず「遊園地の代わりに校庭を利用する」との件(くだり)は、今(6日時点)で決まったことではなく、既に12月(正確には12月議会)の段階で説明されている内容なのです。

それは あくまで「万が一 遊園地が使われなくなったとしたら」の前提つきで校庭を利用することを想定した説明であり、この報道のように いかにも校庭を使うことが決まったような表現は事実と異なるものであります。

さらに「利用者や管理する人もいなくなったことから来月末で(遊園地が)廃止されます」の件(くだり)については、まだ廃止は決まったわけでも何でもなく、事実誤認も甚だしいところです。

さらに「市はスタッフの出勤回数を増やしたり配置を変えたりすることで3人程度を確保したうえで、まずは春休みの期間中に実施することを決めました。」との件(くだり)…スタッフ増員は、議会(委員会)の際には 確か「困難」との答弁でしたが、急に増員の目処がついたのでしょうか?議会には何の報告もありませんが。

また、春休みから実施というのなら 既に人員配置が進んでいなければならないハズですが、この人手不足の中 どのようにやり繰りするのでしょう。また 新規採用というなら、それこそ〝廃止ありき〟が塀の向こうで着々と進んでいることになります。

(そもそも、タイトルが「公園」となっていますが、案件は「遊園地」です。ここら辺りかからも「天下のNHKが何と不正確な報道をしたものよ…」と思わざるを得ませんでしたが)

 

 

 

・・・・・・。

長野市は、なぜ このタイミングで、こんな不正確な情報を流した(流させた)のでしょうか。

さきには、11日に市長自らが「現地に足を運び みなさんの声を聞きたい。」と言ったばかりです。

それ(市長の意向)は、限りなくニュートラルであったハズです。

そこに、この偏重報道です。

この顛末に 私は、意図的な事前リーク(漏えい)の作為を禁じ得ません。

事前情報なく昨日の報道を見た人は 第一印象で「もう遊園地は廃止で、学校で児童を遊ばせることに決まったんだ…」と鵜呑みにしてしまうかもしれません。

そんな〝刷り込み〟を狙って 11日前に敢えての形で報道させたとすれば、長野市行政は情報操作をしてまで事業を進めようとしていることになり、それは残念に他ならないところであります。

 

そもそも、あの遊園地に関しては 児童センターの児童の対応をすれば全て解決というワケにはゆかないハズです。

隣接の保育園の園児は、一般道を通って 危険を冒しながら遠くの場所へのお散歩を余儀なくされています。その安全リスクをどう考えるのか。

事ほど左様に 市の対応は「場当たり」に尽きない感、このまま推移すれば 市民の行政不信は増幅するばかり、いずれ収拾がつかなくなることが懸念されてなりません。

 

こんな〝やらせ報道〟というようなやり方は止(や)めて、市民に真摯に向き合うべき。

2月11日がスタート、いわば新雪の上に初めてシュプールを描く日のハズです。

それを、スタート前にゲレンデをいじくり回すようなフライングは、厳に慎むべきでありましょう。

青木島遊園地廃止問題に見る「住民自治協議会」や「区長会」が抱える課題と苦悩

今や大きな社会問題となっている「青木島遊園地廃止問題」ですが、その延伸の上に、今の長野市政と 地域自治の礎(いしずえ)であるハズの住民自治区長会や区長会が抱える課題…もっといえば〝苦悩〟ともいえる根深い面が改めて見えてきました。

 

今回の遊園地の廃止において 重要ともいえる〝役割〟を果たしているのが、他でもない「区長会」であるように思えます。

「青木島遊園地」は 遡(さかのぼ)ること18年前、地元住民の有志と 地元「青木島区」の要望によって設置されました。

その後 一部住民(世帯)からの苦情が出されるなどして時間経過を辿り、昨年になって 今度は区長会の方から廃止の要望が出され、遊園地は廃止の方向に進むことに。

しかし これが、社会の大きな疑問と反発を招き 現在に至っています。

この字面(じづら)だけを追えば「区長会が主導して 遊園地の設置と廃止を決めた」と思われがちですが、実際にはそこに 市⇔区長会との欠かざる関係性が存在し、そして その〝関係性〟こそが、問題を問題として増幅させ 市民の疑問と反発の主要因となってしまいました。

 

第一の問題は、苦情が発せられたとき 区を置き去りにして市の対応が為(な)されたこと。

遊園地から出る「音」がうるさい!との苦情が発生られた際、市(公園緑地課)は対応に走ったのですが、その際 区に相談すること無く話し(対応)を進めていたようなのです。

このことについて当時の区長は「何らか苦情のようなものがあることは側聞していたけれど、市から何の相談もなく推移していたので おそらく(苦情は)収まっていたんだろうと思っていた。」と述懐しており、そこに 現状との大きなギャップがあります。

もし 早いうちに市(担当課)が住民側(区)に相談し、例えば早期の意見交換などを行なうなど 官民挙げて対応を協議していれば、こんな膠着した状況に陥らなかったのではないかと思わされます。

第二の問題は、今度は地元住民を置き去りにして「廃止」に向けた手続きが進められたことです。

問題が膠着してしまうと、市は残念ながら「つじつま合わせ」に動き そこに区(区長会)が利用されることになってしまいました。

苦情に対し 対処療法的な〝場当たり対応〟を重ねた結果、立ちゆかなくなってしまった市は この際とばかりに「遊園地の廃止」に斜傾することになります。

その際 市は、自分たちの対応によって子どもたちが遊べなくなったのに「利用者が減った」と話しをすり変え、また遊園地の愛護会についても 実際には存在し続けていたのに「愛護会活動ができなくなった」との誤情報を正論とするなどして、いわば事実を歪曲(わいきょく)する形で 廃止のための〝状況証拠〟を作りあげ 区(区長会)に提示、それを受けた区長会は「であれば廃止やむなしか…」と判断して、最終的に市に対し廃止を要望する書面を提出するに至ってしまったのです。

今回の顛末の中で 双方に水を向けると、市は「区長会から廃止の要望が出されています。」と言い、区長会は「市が廃止を決めたからそれに応じただけ。」との水掛け論の押収となる始末…双方が保身のために〝決定責任〟を押しつけ合う状況になっているのです。

 

今回の問題の大元は「住民不在で手続きだけを進めたこと」にあると言わざるを得ません。

事(こと)の解決の糸口は「住民側」にこそありました。なのに、そこを抜きにして 頭越しに片づけようとした短兵急な対応が かえって問題を複雑化させ、あげく市そのものが 地元住民はもとより多くの市民…今回の遊園地問題に関しては 全国の多くの人たちから批判されることになってしまいました。

しかし 今回の廃止については、手続き上は何の瑕疵(かし)も無いのです。

で 私は、そのこと(瑕疵が無いこと)自体が大きな瑕疵ではないか、と思わざるを得ないのです。

 

長野市はじめ各自治体には、住民の連携と自治運営の円滑化を期して 隣組~自治会~区との自治組織を設け、行政連絡などの窓口を担っていただいています。

また とりわけ長野市においては「住民のことは住民で」との崇高な目的をもって「住民自治協議会(住自協)」を設置し、地域自治の一層の推進をめざしています。

以降、行政手続き等については 住自協や区長会を経ることとし、逆に言えば 住自協や区長会の承諾を得(え)さえすれば、行政事業が進められるとも言えることに。

で、今回の遊園地廃止問題について 市は、(残念ながら)この行政手続きの いわば簡便さに乗っかって手続きを進めたフシがあります。

「あくまで住民代表である区長会の要望の下(もと)に市は遊園地を廃止することになった」この 一見 何の瑕疵も無い行政手続きこそが、実際には廃止を聞いていない多くの市民の反発を招くことになり、その反発の矛先は 市だけでなく「何で廃止を要望したんだ!」と区長会にも向けられ、区長会は いわば板挟みにもなっているようなのです。

 

 

・・・・・・。

今回の「青木島遊園地廃止問題」は、奇(く)しくも「住自協・区長会」の抱える問題点を改めて浮き彫りにすることになったと思います。

本来は、住民自治の礎(いしずえ)となり、住民主体で地域自治を運営するネットワークとなり、いわばボトムアップ(下から上へ)のエンジンとなるハズだった住自協や区が、それとは逆に 市の決定事項(または「そうしたい」との意向)を住民に下ろすための いわばトップダウンの窓口として利用されることになってしまいました。

で、そのプロセスの中には 肝心の「住民の思い」は置き去りにされたままで、そのことが 今回の騒動の火種になっていることは残念に他ならないところであります。

 

人口増・好景気の下での いわば行政バブルの時代は今は昔。今後 各自治体は、非常に厳しい行財政運営を余儀なくされてくるでしょう。

だからといって、行政の一方的な都合で グイグイ事(こと)を進めてイイものか?

取るべき手法は 全く逆であります。

で あるからこそ、あまねく住民の声を聞き もし反対の声があるならば、それらに丁寧に対応し 納得していただいたうえで前に進まなければならない。

そして その際には、広く住民にご参集いただき(または門戸を広げ) 同じ土俵で意見を交わしていただき、もって住民の意思を示していただくことが欠かせないと思います。

 

今回の案件は、住民自治の観点からも 私たちに大きな課題を投げかけることになっています。

 

 

青木島遊園地廃止問題 ~置き去りにされた子どもの存在「子どもの権利条約」~

今や大きな社会問題となってる「青木島遊園地廃止問題」ですが、この案件において〝欠落していること〟として「議論が、主役であるハズの子どもを抜きに行なわれていること」を指摘したところであり、その考えは 何も私だけでなく多くの人が感じていることでありましょう。

本来は、遊園地を利用する子どもにとって 何が一番有益であるかを基本に据えて議論を進めてゆけば、事(こと)の推移は また違った舵を切れたのではないか、と ときに残念に思わされるところです。

「遊園地を存続すべき」という人の中に「子どもの遊ぶ権利」を説(と)かれる人が居(お)られ、その人は 議論の根拠として『子どもの権利条約』を挙げられ、それは実に当を得たものでありました。

 

 

 

『子どもの権利条約』は 1989年に国連で採択された「子どもの基本的人権」に関する条約です。

かつて戦争において 罪もない子どもたちが火戦にさらされ生命までも奪われる事態に陥ったこのへの反省から、(18歳未満の)子どもにも基本的人権があること、それ(子どもの人権)は保障されなければならないことを明文化したものです。

「子どもの権利」とは、すべての子どもが心身ともに健康に育つために必要とされる権利で、それ(子どもの権利)は 大きく分けて「生きる権利」「育つ権利」「守られる権利」「参加する権利」があります。

1. 生きる権利
・住む場所や食べ物があること
・病気やケガをしたら治療を受けられること
・健康に生まれ、防げる病気などから命が守られること

2. 育つ権利
・教育を受け、休んだり遊んだりできること
・もって生まれた能力を十分に伸ばしながら成長できること
・自分の名前や国籍を持ち、親や家族と一緒に生活できること

3. 守られる権利
・紛争や戦争に巻き込まれず、難民になったら保護されること
・あらゆる種類の暴力や搾取、有害な労働などから守られること
・障がいのある子どもや少数民族の子どもなどは特に守られること

4. 参加する権利
・プライバシーや名誉がきちんと守られること
・自由に意見を表したり、団体を作ったり、自由な活動を行えること
・成長に必要となる情報が提供され、子どもにとってよくない情報から守られること

 

 

で、この『子どもの権利条約』で定められていること(守られなければならないこと)が、まさに 今回の「青木島遊園地廃止問題」に符合する と述べられているのです。

それは、この条約の2本目の柱「育つ権利」に表されており、さらに 条例の中の条文「第31条」に明確に示されています。

「育つ権利」においては、前掲2,の説明のうち

・教育を受け、休んだり遊んだりできること が該当すると申せます。

「勉強したり遊んだりして、もって生まれた能力を十分に伸ばしながら成長できること」とされています。

 

 


さらに、同権利条約の「第31条」には「休息・余暇、遊び、文化的・芸術的生活への参加(への権利)」が条文化されています(条文は次のとおり)。

(1)締約国は、子どもが、休息し かつ余暇をもつ権利、その年齢にふさわしい遊びおよびレクリエーション的活動を行う。

(2) 締約国は、子どもが文化的および芸術的生活に十分に参加する権利を尊重しかつ促進し、ならびに、文化的、芸術的、レクリエーション的および余暇的活動のための適当かつ平等な機会の提供を奨励する。

 

 

つまり、遊園地などで子どもが遊ぶことは、国連の定める『子どもの権利条例』で遵守しなければならない内容そのものであり、批准国である日本の自治体である長野市においても 当然にそれを履行しなければならない立場にあるという論理です。

しかも、同条例においては「子どもは大人と同じように人権を持っているが、その一方で 特別な保護が必要とされていることから、大人や国には 子どもの権利を守る責任がある」とされ、さらに「大人や国は、子どもにとって一番いいことは何か ということを考えなければならない」とされています。

そのためにも、子どもたち一人ひとりと丁寧に向き合っていくことが求められている とされているのです。

 

今回の「青木島遊園地廃止問題」において欠落していると指摘した〝子どもの視点〟ですが、それは 国連の定める『子どもの権利条約』の見識からしても、再考しなければならないと考えられるところです。

子どもには 遊ぶことも含めて「権利」があること、そして その子どもの権利は 他でもない大人や国が守ってゆかなければならないこと…認識を新たにさせられる指摘であります。

そのうえで、忸怩(じくじ)たることこのうえないのが、この『子どもの権利条約』について 遊園地に対する苦情が発せられた早期のうちに議論の俎上に載せ、対応の根拠にしていれば こんな膠着した状況に陥らずに済んだのではないか、という点であります。