長野市議会議員会派

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コロナ禍 =死者急増に強い懸念=

新型コロナウイルス感染症の蔓延、いわゆる「コロナ禍」が起きてから 丸3年が経過し、それは時間(月日)の経過と共に収まるどころか 形を変えながら未だに社会に跋扈(ばっこ)し続けています。

コロナ発生後は、ウィルスとのあくなき戦いが展開する中 やがて薬事業界の手による「ワクチン」が開発され、わが国においても 高齢者や既往症者を皮切りに複数回のワクチン接種が奨励されています。

ところが、新型コロナウィルスも 自らの生き残りを賭けて〝変異〟を重ね、既存のワクチンでは感染を防ぎ切れない状況を作り出し いわば イタチごっこの状態が続いています。

そんな中ではありますが、現在は「オミクロン対応ワクチン」によって重症化を防ぐとして 今も感染拡大に向け努力が重ねられているのは ご案内のとおりであります。

 

オミクロン株については、感染力は強いものの 重症化しにくいとの特徴があることから、コロナ禍は続いているものの 社会経済活動は再開の方向で推移し、今となっては ほぼ「コロナ前」の状態で、買い物やレジャー・イベント等がフツーに行なわれているのも やはりご案内のとおしです。

 

 

しかしながら、です。ここへきて 新たな懸念材料が沸き起こるようになっており、私も その状況を懸念(憂慮)する者の一人です。

コロナウィルス感染症のせいで お亡くなりになる人が急増しているこです。

 

 

 

コロナ禍となって以降、国内で初めて死者が確認されたのは2020年2月で その1年余りで1万人に達しました。その後は1万人を越すにに 10カ月・3カ月・4カ月と ある程度の期間を経て増加していたものが、先月に5万人を超えると その後わずか1カ月余りで6万人に近づくハイペースとなっています。

 

 

お亡くなりになる人のほとんどは70才代以上の高年齢者で、全体の9割を占めています。

 

 

 

では ナゼこのような状況になってしまったか。

専門家によると、それはやはり「感染者数そのものの急増」があるようです。いわば 分数の分母の部分が増えていること…オミクロン変異株や規制がほぼ無くなった社会経済によって感染率そのものが高まり 幅広い年代で感染、それ(感染)が高齢者に及ぶことで死者数も増えるという 悪しき数の積み上げがなされているのです。

そのうえでの高齢者の感染。「ワクチンを打っているのにナゼ?」と思われるところですが、いわゆるオミクロン株対応ワクチンの(高齢者での)接種率は6割ほどに止(とど)まっており、新たなフェーズに入ったコロナの「進化」に追いつけていない状況があるようです。

この状況は 長野市において同じで、長野市内においても累計の死者数が126人を数えることになってしまっており、由々しき事態を共有することになっています。

 

 

 

 

このことについては、県内主要地方紙も「社説」において警鐘を鳴らしています。

 

 

 

それによると、新型コロナウィルスに感染し亡くなる人の数が急増していること、県内の死者はこのひと月余りで250人を超え 全国では1万人も増え、1日当たりの報告数が500人を超えた日もあることを伝えたうえで、主な要因として やはり感染力の強いオミクロン株の登場による感染者数の爆発的な増加を挙げています。以前の流行に比べて桁違いに増え 今月初めに累計で3千万人を超えたこと、そのうえで 現在は政府方針により感染者の全数把握を簡略化しているため、実際の人数はもっと多い可能性があることを指摘しています。

同紙はやはり、死者が累計2万人を超えたのは昨年2月で それが今月初めには累計6万人を超えたことに注目し、それが 重症化率が低いとされるオミクロン株の流行後に死者が集中している点を、重く受け止める必要があるとしています。

そのうえで 国と自治体に対し、個々の死因を詳しく分析し 具体的なデータを踏まえて感染防止対策を立て直さなくてはならないとしています。

同紙が指摘するのは、政府が経済活動を優先し むしろ対策を緩める方向に流れている点です。

年明けには年末年始に中断していた全国旅行支援を再開したことを挙げ「今は感染拡大の防止に全力を傾ける時ではないか」としています。

軽症者が多いのは オミクロン株の特徴の一つに過ぎないこと、「大したことのない病気」といったイメージが独り歩きしていないか とし、高齢者や基礎疾患のある人にとって 罹(かか)ったら命にかかわる感染症であることに変わりはない、としています。

そのうえで、死者数を押し上げている一因として「高齢者施設などで相次ぐ集団感染」を挙げています。これは「スタッフが細心の注意を払っても防ぐことは難しい」とし、高齢者施設内における感染の恐ろしさを述べています。

株が変異するたびに感染力は強まる傾向にあること。免疫をすり抜ける性質も強まっている恐れがあることから、政府は通り一遍の呼びかけに終わらせず 最新の知見を採り入れて対策を広く周知すべきとしています。

そのうえで、私たち一人一人の行動が鍵を握ることも指摘しています。手指の消毒やマスクの着用・部屋の換気など基本的な対策をいま一度徹底したいとしたうえで(無症状で感染している可能性も考慮すれば)会食は少人数が望ましいとしています。

感染して発症した場合の自宅療養期間についても。現在は原則7日間とされているが、発症から10日後くらいまでは人に移すことがあることから 治ったとしても暫くの間は高齢者等との接触は控えることを徹底すべきと述べています。

社説は最後に「コロナの流行が始まって3年。感染者と死者の「数」が日々報道される中 どこか慣れっこになってしまいそうだけれど、ここが踏んばりどころだ。死者数を抑えるには 社会全体で感染者数を抑制する努力が欠かせない。誰もが当事者であることを確認したい。」と結んでいました。

 

「ウィズ・コロナ」が進め(勧め)られて相当の期間が経過していますが、その一方で かけがえのない生命が多数に亘り奪われている実態に、私自身 強い憂慮を抱く者の一人です。

自分自身も 高齢の身内をもつ者として、もし自分がキャリアとなって身内に(コロナを)移し それが取り返しのつかない結果を招く要因になってしまったとすれば、それは 後悔先に立たずを地でゆくことになってしまう…そんなことにならないためにも、先ずは「自分が感染しないこと」を大前提に社会生活を送ることを改めて自覚(自戒)したいと改めて思うところです。

 

社説にあるとおり、現下のコロナウィルス感染症(オミクロン変異株)を「軽症で済む大したことのない病気」とナメてかからず、自分が罹(かか)ることで他の多くの人たちに影響を与えることになることを肝に銘じて 日々を過ごしたいものです。

 

 

 

CAP(子どもへの暴力防止)講習会プログラムに参加 ~声を上げる・周囲が助けることで守られる人権~

この日(12日)、議員有志による「CAP(Child Assault Prevention)/子どもへの暴力防止」講習会プログラムを聴講(参加)させていただきました。

 

 

 

CAPは、過去にアメリカはオハイオ州コロンバス市の小学生が登校途中に犯罪に巻き込まれた際 保護者の送迎や外遊びの禁止などの対応策を講じましたが、子どもたちの漠然とした不安は収まることなく むしろ不安感が増幅することとなってしまいました。

そこで関係者は 逆に子どもたちに対し、自らの身を守ることや周囲に積極的に助けを乞うこと・さらに 周囲の者が適切に助けてあげることを教えることで、子どもたちの不安を低減させることができたことから それらを体系的に教え伝えることで、子どもたちに対する いじめ・痴漢・誘拐・虐待・性暴力といったさまざまな暴力から守るとしています。

 

 

 

CAPプログラムには、エンパワメント・人権意識・コミュニティの3つの柱があり、それらをベースに 子どもへのあらゆる暴力を許さないこと・そのことで 子どもが自分の大切さを実感できる社会生活を送れるよう、子どもたちに「勇気」を広げるとしています。

 

 

1、エンパワメント

 CAPプログラムの基本理念である「エンパワメント」とは〝内なる力の活性化〟だそうです。

子どもの内側(心理)にある「力」に働きかけ、その働きかけによって 子ども自身が自らの力を活性化させることができるそうです。

CAPプログラムは「子どもは 大人が守るべき弱い存在」と見るのではなく、不安で困難な状況にも 子ども自身で問題を解決できる力を信じ、その力を活性化するために支援することが重要としているそうです。

子どもは「無力で何もできない」のではなく「力が発揮できない状況にある」だけなので、自分の大切さを知り 大切な自分を守るための行動の選択肢とそれを使って自分を守ろうとする意志が働くことで 子どもの心と身体を傷つけること=暴力から自分を守ることができる。そのため、鍵を握っていると言えるのは 子どもの力になりたいと思う大人の子どもへの関わり方ばそうです。

2、人権意識

子どもワークショップでは、最初に「権利(基本的人権)」について学ぶ とのこと。権利とは「生きるために絶対に必要なもの」と定義し、さらにその中でも特に大切な「子どもにとって特別に大切な3つの権利=Safe(安心)・Strong(自信)・Free(自由)」“について学ぶそうです。

そのうえで「暴力」とは、この 子どもの3つの権利を侵害する行為とし、CAPは子どもたちに「自分は大切な存在だ」と思う感覚=人権意識を積極的に伝えてゆくそうです。

 

 

 

このCAPプログラムに参加した子どもたちは、自分自身が大切な存在であることを知り 自信と勇気を取り戻してゆくそうで、その核となるのが「人権意識」だそうです。

その人権意識によって 危険な状況になりそうなときに「いやだ!」という感覚を持つことができ、その感覚があって初めて 大切な自分を守るための行動を起こすことができる。

その「いや」という感覚に基づく 危険な状況から自分を守るための行動の選択肢には「No(イヤと言う)」「Go(その場を離れる)」「Tell(誰かに話す)」です。

自分は大切な存在と思う感覚=人権意識 があってこそ「いや!」と感じることができ、自分を守るための行動を選ぶことができるそうです。

3、コミュニティ
 CAPでは、子どもたちの安心・安全のためには コミュニティ(地域)の大人が子どもをサポートすることが不可欠だと考え、そのための積極的な働きかけをしているそうです。それを学ぶのが2つの「おとなワークショップ」だそうです。

おとなワークショップでは、親や教職員・地域の大人それぞれへ 各々の立場や役割に応じたプログラムを提供するとのこと。

エンパワメント・人権意識などの考え方や 子どもへの暴力に対する知識・情報・サポートのためのスキルなどを大人が共有し、互いに助け合う地域をつくって 地域全体で子どもたちをサポートできるように支援することが重要としています。

 

これらを踏まえ、CAPの方々は 子どもたちの前で実際に行なう寸劇を交え、いじめや虐待などから自らを守る術(安心・自信・自由)について分かり易く表現されていました。

 

 

 

そのうえでCAPは、子どもの心と身体を傷つけること=暴力を予防するには「孤立」を防ぐことと「つながる」ことが有効とされていました。

自分を無力だと感じている子ども同士が助け合うことは難しいもので、また おとなが「大したことでは無い」と過小評価することで子どもは「孤立」を深めてゆく。

そのため、CAPは ワークショップを通じて子ども同士の助け合いを勧めると同時に、学校や地域の大人がその輪に加わることによって 子どもたちは自分たちの安全のために真剣に取り組んでいる大人たちがいること・子どもの話に耳を傾ける大人が居ることを改めて知ることになり それは日常生活の中で、大人の力を借りようとすること=コミュニティ全体に働きかける安全のための活動につながるとしています。

 

そのために、子どもを怖がらせることなく暴力防止の具体的対処法を教えること…従来型の「~してはいけません」式の危険防止教育とは根本的に異なり「~することができるよ」と身を守るための行動選択を練習させ、安心・自信・自由の人権を子どもたちに繰り返し伝えることで 全ての子どもたちが本来持っている「生きる力」を引き出す としていました。

 

 

このCAP活動について、私自身 新たな学びとなったところであり、子どもたちの人権を守るためにも 子どもたち自身に「力」を持ってもらうこと・そのために周囲の大人が適切に関わってゆくことの大切さを学ばせていただきました。

そのうえで…私の取り組む活動の性質上「それでも声を上げられない人たちはどうしたらイイのだろう?」と思わずにおれませんでした。

そう、それは 子どもと同様〝社会的弱者〟である (主に知的の)障がい者の方々です。

このCAPの教えによって 無垢な子どもらは やがて勇気を自ら培養し「いやだ!」を言えるようになるでしょう。

しかし、さまざまな状況に置かれる障がい者さんらは どんな辛い状況に置かれても〝その一言〟が言えないまま終始してしまう=人権を認められないまま終始してしまうのではないか…。

 

そこで私が強く思ったのが、このCAPの考え方について 当事者(障がい者)に伝えること以上に、彼ら・彼女らを支援する関係者にこそ「社会的弱者の人権を守る」ことを伝播させることが重要ではないか。

(CAPプロブラムによると「3,コミュニティ」の項に該当するでしょう)

 

「人権」は、自ら守るだけではなく 周囲の者が認める(尊重する)ことで、実際に社会の中で効力を発揮する。

みんなが等しく暮らす社会での人権擁護は、当然のことであり 同時に難しいことでもあります…そのうえで 私たち一人ひとりが互いを尊重し合いながら存在し合わなければならないのです。

真の障がい者支援に向け「ホップ」

この日(11日)、障がい者 特に知的障がい者支援に心を寄せる関係者による打合せを行ないました。

 

ここのところ、期せずして 新聞紙面等を障がい者支援に関する記事や特集が賑わすようになっています。

これまでも触れていますが、1月5日の県内主要地方紙がスッパ抜いた 飯田市の放課後デイにおける利用者児童への〝心理的虐待〟に端を発した特集記事が連載されることとなっているほか、10日の同紙では 障がい者雇用における「法定率ビジネス」を取り上げた記事が掲載されました。

 

 

 

さらに11日の同紙の社説では、この件(法定率ビジネス)における問題点が指摘されており、世論も ようやく「障がい者支援」に遍在する課題や問題点について着目するようになってきたと、その点では評価されるところです。

 

 

 

が…実際には 障がい者支援における諸課題は、いわゆる表面的な事象に止(とど)まらず 非常に根深く複雑なものになっていることが〝先人〟の取り組みによって指摘され続けています。

と いうのも、私が指南を乞う障がい者支援グループ「Gotaホップ」のリーダーMくんは、もう十数年に亘って知的障がい者支援における諸問題について〝現場(授産施設)〟で実際に見聞したり 当事者や関係者からの聞き取りによって多くのエビデンス(証拠)を累積しており、その故(ゆえ)をもって問題を明らかにすべく活動展開しているのです。

しかして その活動の真の目的は、単なるオンブズマン的な〝指摘・摘発〟ではなく、イヤそれどころか、いわば障がい支援業界の襟(えり)を正したうえで 最終的に障がい者さんらの社会環境向上をめざして不断の動きを続けているのです。

 

従前に、私が 12月長野市議会福祉環境委員会で指摘した、長野市内の知的障がい者支援施設(B型就労支援施設)の「空風」における いわゆるレトルト食品製造機械が10年(実質7年)に亘って休眠状態に留め置かれていた実態についても かかる「Gotaホップ」の積年に亘る調査の成果でありました。

 

 

 

それら多面的な方向から指摘が重ねられている現在は いわば「膿を出している状況」ではないかと思います。

社会の中で、いわば埋没している障がい者支援。また これまでの悪しき慣習や刷り込みによって間違った解釈や価値感に置かれている障がい者支援。

これらを「おかしいじゃん!」と指摘し その悪しき(間違った)現状を衆目に晒(さら)すことで、一見 無関係である市民に訴え(問いかけ)、その後は さまざまなアプローチにより、本来の在るべき姿に(障がい者支援を)導いてゆく。

ただ このことは、言うは易しでありますが 行なうは難しといえるでしょう。

 

例えば 前掲の「法定率ビジネス」についても、それはどう考えても(法定率ビジネスは)本来の企業法定雇用率向上の真の目的にはそぐわず 即改善が求められるところですが、一方で 障がい者さんらの親御さんは、記事の中で肯定的な見解を述べています。

 

 

 

また、同紙が特集することとなった 利用者(障がい者)への心理的虐待についても、いわゆる被害者の親御さんは「(叱りつけ等は)自分にも身に覚えが。そのうえで施設が無くなるのは困る」とも話しておられました。

 

 

 

このように、障がい者 特に知的・精神障がい者支援については、当事者のみならず 家族や周囲の状況も絡みながら 実に複雑な状況を呈しています。

 

しかし、であるからといって いわゆ結果オーライ的な発想…「当事者や家族がイイと言っているのだからイイじゃん」とか「家族の負担軽減のために事業を行なっているのだから正しい」などの〝事業目的のすり代え〟や、障がい者をダシにした法人運営などの〝本末転倒事業〟さらに言えば、実質的に悪しき実態がありながらも「制度の範囲」を盾にそれを容認する行政等々、現下の障がい者福祉(事業・行政)には、看過できないことが余りに多いと言わざるを得ないところです。

それでも、そんな難しい状況でありながらも 障がい者さんらの社会状況を改善してゆきたいところであり、これからも あらゆる界層(かいそう)の者が知見を寄せ合い、より良い方向に進むよう計らってゆくべきことで一致したところです。

 

 

そんな中「Gotaホップ」においては、障がい者支援の究極の目的である「工賃アップとやり甲斐づくり」のために「新事業」を緒に就けています。

市内のステーキハウスの店頭に「ガチャ」を設置し、そのネタづくり~販売・回収を通じて 知的障がい者さんの工賃アップに大きく貢献しているのです。

 

 

 

その詳細については 改めて詳細レポートさせていただきますが、いずれにしても大切なのは 障がい者支援に取り組む者は、現状維持に甘んじず 新たな発想で具体的に「工賃アップ・やり甲斐づくり」に臨むべきであるということです。

「障がい者だから できなくても(工賃が上がらなくても)仕方がない」との後ろ向きな発想では無く、共々に前を向いて歩んでゆくために知見(=心/こころ)を集める…いわば 立場は違えど同じベクトルを指し示す気概のようなものが求められていると申せます。

 

「異次元の少子化対策」に 期待よりも抱かされる〝不安〟

岸田総理が 今年の年頭記者会見で「異次元の少子化対策に取り組む」とブチ上げたのは みなさん既にご案内のとおりであります。

これまでも 政府関係者は、政策の印象を高める〝キャッチフレーズ〟として さまざまな表現を駆使しているところですが、今度は 少子化対策について「異次元の 」という表現を持ち出しました。

何ともいえない〝デッカイ感〟が創出されているところです。

 

 

 

 

総理は発言の中で「私は、本年を昨年の様々な出来事に思いをはせながらも、新たな挑戦をする1年にしたいと思います。…異次元の少子化対策に挑戦し、若い世代から「ようやく政府が本気になった」と思っていただける構造を実現すべく、大胆に検討を進めてもらいます。」としました。

そのため(少子化対策のため)の3つの「基本的な方向性」として、

1,児童手当など経済的支援の強化

2、学童保育や病児保育など「子育てサービスの強化」

3,育児休業制度をはじめとする「働き方改革の推進など」を掲げています。

 

 

 

この施策の実施について総理は「本年4月に発足する『こども家庭庁』の下で、今の社会において必要とされる子ども政策を体系的に取りまとめたうえで 6月の骨太方針までに 将来的な子ども予算倍増に向けた大枠を提示していきます。」としました。

が、この〝予算倍増〟に向けた具体的な内容や 必要となる数千億円以上の財源については触れませんでした。

国においては 今年4月に政府の子供政策を一元的に担う『こども家庭庁』が発足し「子供」・「子育て」を一元的に所管することになります。

総理自身は「異次元の少子化対策」という強い表現を使い、急激に進む人口減少を自らの手で食い止める覚悟を示したようです。

ただ、それを聞いた (私を含めた)国民の多くは、諸手を挙げて「ヨシ、がんばれ!」というような機運にならなかったのが実際のところではないか。

 

昨年末に発表された「人口動態統計速報」によると、昨年1~10月の出生数は66万9,871人(前年同期比4・8%減)に止(とど)まり、この傾向が続けば 昨年1年間の出生数は過去最少だった令和3年の81万人1,622人(確定数)どころか、77万人にまで急減するとの見方もあるところです。

 

 

 

この わが国にとって暗雲となる状況(見込み)に鑑み、岸田総理は 先ずはこども政策担当相に対し、さきの3点について新たな検討会を設置し 具体策を検討するよう指示したそうです。

この3つの検討事項については 今年3月末を目処に方針の大枠を取りまとめる予定とのことですが、一方で厚生労働大臣が「少子化の背景には 若者の経済的不安定や長時間労働など結婚・出産・子育ての希望の実現を阻む要因がさまざまに絡み合っている」と述べるなど、一筋縄ではいきそうにないことが指摘されています。

報道によると、経済支援では「児童手当の支給額の拡大」が検討課題になっているとのこと。

現行は中学生まで1人当たり原則1万~1万5千円ですが、与党内では 自民党が第2子に3万円・第3子には6万円に増やす案を、公明党が支給対象を18歳まで広げる案を示していますが、共に かなりの財源の積み増しが必要で、そのための安定財源の確保がハードルとなっています。

子育て家庭向けサービスの拡充では、産後ケア事業の利用料(自己負担額)の減免や 子供の急な発熱に対応できる病児保育を行う施設の整備、さらに 育児関連の行政手続きの利便性の向上(簡便化)や 例えば学童保育を利用する際の申込書をオンライン化する見直しなどが挙げられています。

働き方改革では、取得率が15%にも満たない男性の育児休業の取得率向上が課題となっており、国は 令和7年度までに30%の取得をめざすとしています。

さらに 育休中に雇用保険から支給される「育児休業給付金」の給付率を、休業開始前の賃金の67%からの引き上げや、正規雇用の女性が出産や育児を機に離職し 子育てが一段落してから再就職する際に非正規雇用に変わってしまうことを防ぐことも課題に挙げられています。

 

これら少子化対策について検討すること自体については了とするところですが、かかる 総理の〝大胆発言〟に対し われわれ国民が疑心暗鬼の域を出られないのは、そうです「財源をどうする?」の 基本のキとなる論拠が明らかにされていないことでありましょう。

 

総理の〝思い〟のようなものは理解するところですが、その内容と規模が「名実共に大きい」ものだけに、その政策(事業)の公久性を担保する財源の議論を抜きに その政策責任者がイメージだけを先行させることには疑問を禁じ得ないところです。

 

何というか、大煙火大会(花火大会)で尺玉がバンバン上げられるものの、そこに肝心のスポンサーが付いていない状況 とでも申しましょうか…実際の煙火大会で上がる花火はスポンサー無しでは上がることはありませんが、この〝異次元の少子化対策花火〟は「取りあえず上げておけ」との〝裏付けなき尺玉花火〟の感が否めません。

やや穿(うが)った見方をすれば、この〝花火〟も 総理の意を汲んだ官僚の知恵と思われるところですが「異次元の…」という割には 相変わらずのバラ撒き感が強いところ、この内閣の特徴を再認識させられたところでした。

 

 

そんな、多くの国民が「政策はイイが、財源はどうすんの?」との シンプルかつ基本的な疑問を抱く中、自民党の甘利前幹事長が 少子化対策の財源について「将来的には消費税率引き上げも検討材料になる。」と発言、物議を醸すことになっています。

 

どうして 国会議員というのは、こうも「取れるところから取れ」という発想になるのでしょう。

国の財源(税金)を あたかも自分たちが稼ぎ出してきたもののように勝手に解釈し、足りなくなったら また国民から徴収(搾取)すればイイとの短絡的な発想。

だから国民は、総理の上げる花火を手放しで喜んで見ることができないのです。

 

 

 

これらの政治家発言などを踏まえ、識者が苦言を呈していることが伝えられ、多くの国民が「そうだそうだ!」と賛同していました。

この識者は「まず隗より始めよ」との見解、国民から搾取する前に自分たち(国会議員)のムダを改めるべきとしているものです。

曰く「国民負担の前に、国会議員の特権の旧文通費約70億円・立法事務費約50億円・各党政党交付金剰余(内部留保)金数十億円・政治資金領収書不明金(組織活動費)数十億円を取り上げるところから始めなければ(消費税アップの)国民理解はムリ。」

さらに「開催されていない特別委員会の日当・公用車費用・JR乗り放題パスも廃止せよ。」

そして最後に「経費削減に最も効くのが〝人員削減〟だ。「異次元」とする少子化対策を行なうなら、次世代の国民のために この際は国会議員が自らを粛正することで国民負担の軽減に貢献することも大切じゃないか。そのくらいの「身を切る姿勢」を示さないことには 国民はついてこない。」と述べていました。

 

このことは、囁(ささや)かれ初めている「防衛費増額の財源探し」の議論にも当てはまる話しです。

財源が必要な政策を講じるときには、そのための裏付けを示したうえで議論に臨まなければならないこと、で、それを論ずる前に 当事者(国会議員)が規範を示すことが大前提であると思うところです。

事故抑止のための〝事前の策〟の重要性が

年明け間もない1月2日の午後8時頃、福島県郡山市大平町の市道交差点で 共に走行していた車同士が出会い頭に衝突し、重大な結果を招くこととなってしまいました。 このニュースに触れた後に「事故の背景」を知り、その情報から この事故は単なる一方の者(車)の前方不注意で片付けられない〝抜本的な問題〟があることを強く感じさせられました。      

 

 

今回の事故は、市道を走行していた車両(甲車)が、脇道から交差点に 一時停止することなく進入した車両(乙車)に衝突されたもので、述べたとおり 甲車側が優先道路で、乙車側に一時停止の義務があったそうです。

 

 

 

但し、この交差点は信号機や一時停止の標識が無いうえに 一時停止を促す路上の白線も消えかかっていたとのことでありました。

 

 

ニュース映像を見ると、双方の道路は 道幅はほぼ一緒、優先道路側にセンターラインがあり そっちが優先であることは分かります。

ただ、脇道の交差点部分には信号が無く さらに「止まれ」の支柱標示も無し、さらにさらに 路上の止マレ標示もほぼ消えており、例えば初めて通った者(車)などは 状況によってはそのまま通過(交差点進入)してしまうこともあるのかもしれません(実際、乙車の運転手は 現場を初めて通ったようです)

 

 

 

この現場は、以前から住民らが危険性を指摘しており、地元の町内会は昨年、交差点周辺の草木が伸びて見通しが悪かったため 郡山市に改善を求める要望を出していたそうです。

 

 

今回の事故について「コリジョンコース現象」を指摘する見解があります。

「コリジョンコース現象」とは、見通しがよい交差点で 同じ速度・同じ角度(直角)で接近する2台の車があった場合、ドライバーは目の錯覚で 相手の車が止まっているように感じることがあり、そのため 交差点直前まで相手が接近してくると思わずに衝突してしまうものだそうです。

 

 

 

しかし 私は、この「コリジョンコース現象」もありながら もっと抜本的な問題=事故抑止のための標示の未設置と(路上標示などの)経年消滅への管理不十分を指摘せざるを得ないところです。

前掲のとおり、当該の交差点は 双方の道幅がほぼ均一のうえに(草木などで)見通しが悪く、さらに一時停止を促す標示がほぼ無い状況に留め置かれており、もし ここに適切な標示がありさえすれば、乙車の運転手は 故意でもない限り交差点に進入することはなかったのではないでしょうか。

 

 

今回の事故に際し、現場を確認した 郡山市道路維持課長は「白線の改善は必要。交差点と認識できるよう赤い目印をひくことも検討する。カーブミラーの設置も有効な対策の一つだ。」と述べたことが伝えられていましたが、そのフレーズが 何とも他人事に聞こえるのは私だけでしょうか。

今回の事故の要因は 運転者の過失もあると同時に、イヤもしかしたら それ以上の事故要因として、道路標識の未設置・消滅劣化の放置にあるとも言えるのではないか、と。

かねてよりの「ここは危険だ」との指摘に適切に対応し、何らかの措置を講じていれば こんな重大事故が起きることは無かったのではないか…と忸怩たる思いを重ねるところです。

 

行政には悪い癖があります。

事故や齟齬が無いうちは「予算の関係で…」などを言い訳にして現状維持(劣化の放置)を看過し、イザ重大事案が起きた途端に、その翌日にでも措置される。

「遅きに失する」を絵に描いたような事後対応が そこここで為(な)されているのです。

 

今回の事故においても 警察官などが現場検証を行なっていますが、その「検証」においては、運転者の過失だけを証明するのでは無く、この交差点の安全のための管理が不十分であったことを(行政職員自身が)内省すべきでありましょう。

 

 

 

 

このような〝不備の実態〟は、この事故現場だけでは無く 地域の、そこいらじゅうの道路で散見されるところであり、それは長野市においても然りであります。

 

(いずれも資料写真)

 

道路標示・標識については、種別によって 公安委員会(警察)と道路管理者(自治体)とに分掌されているところですが、いずれにしても 今回の交通事故を改めての契機とし、地域に遍在する危険交差点や横断歩道などについて、そこを通行する全ての人の安全が確保されるよう、新設ならびに補修に努めるべきと強く再認識するところです。

何かあってからノコノコ改善したのでは遅いのだ!と断じる者の一人です。

 

知的障がい者支援、その終着は

ブレーンのMくんと話す機会がありました。

話題は「知的障がい者支援」に端を発する、この頃の行政(政治)の在り方についてです。

その「素材」として、ここのところ連載が続いている 県内主要地方紙の連載記事「ふつうって何ですか? 発達障害と社会」が話題となりました。

この連載記事については、これまでも このブログで触れさせていただいておりますが、飯田市の放課後デイサービス施設(障がいのあるお子さんや発達に特性のあるお子さんが、放課後や夏休みなどに利用できる福祉サービス)で為(な)されていた 利用者児童に対する〝心理的虐待〟について、元職員さんが告発したことを受けて(記者が)取材を重ねているものであり、記事を通じて 虐待の実態・施設(法人)ならびに飯田市や長野県の対応ぶりなどが いわば炙(あぶ)り出しとなり、連載が進むことで 然(しか)るべき(記者の)論調が展開されると期待していたところです。

 

 

 

ところが…連載自体は進んでいるのですが、その内容は、さまざまな人(発達障がいを持つ人)が登場しては さまざまな不条理に直面する「体験談」が列挙されるだけで、何というか 話しのオチが見出せないままに(今のところ)推移しており、読者である我々は 何ともいえないストレスを抱えるようになっています。

 

例えば、連載のキッカケともなった放課後デイでの心理的虐待について 元職員さんの証言に基づき虐待の内容を記(しる)したうえで 飯田市ならびに長野県に照会し、その事実を認めさせると同時に 飯田市においては市(市長)をも動かし、虐待の見直しを検討させるなどの成果を挙げてきたものでした。

 

 

 

が…このような成果が評された次の連載では、今度は保護者の証言を得た末に あたかも施設による虐待(または過度な厳しい指導)について、それを いわば〝必要悪〟として容認するような論調に「記者の筆」が変わってきており、その蛇行ぶりに われわれ読者は戸惑いすら覚えています。

 

 

 

その後は、特集の場は 学校現場に移ったり、取材対象が他の施設の女子に変わったりしながら さまざまな(虐待に関する)出来事や当事者心理が綴(つづ)られています。

この特集はまだまだ続くでありましょうから 私たちは引き続き記事に注目し、願わくは(この記者による)何らか含蓄(がんちく)のある 読者が「なるほど」と唸(うな)るような結論を導き出してくれることを期待したいと、Mくんとも一致したところです。

 

 

そのうえで Mくんは、独自の視点…というか、これこそが結論と思えることを ポツリと口に出していました。

「この取材内容は 決して間違ってはいない。虐待の事実・それに対する行政の対応、全てが「現実」であり、われわれ読者は それを真実として受け止めなければならない。」

「でもね。」そのうえで Mくんは続けます。

「本当の問題は、未成年でいる期間の虐待(=人権軽視)じゃない。彼ら(発達障がい者)の人権が本当に軽視されるのは 彼ら・彼女らが大人になってからなんだ。」

「たとえ発達障がいを持っていても、保護者や周囲に保護(庇護)されているうちはまだイイ。でも、彼ら・彼女らが成人して社会に出て働いてみても、今の給与(工賃)は 時給たったの100円だ。これで食っていけるワケが無いし、こんな薄給で留め置かれていいること自体が 最大の虐待、いわば〝社会的虐待〟じゃないか。」

「もっと言えば「就労支援」の名目で通う施設では、本来の就労支援が行なわれていない実態があるばかりか、施設の職員自体が 真に彼ら・彼女らの将来(自立)を願って支援してるのでは無く (就労支援の形式を取ることで)国からの補助金を得て、利用者さんを 自分たち(施設・施設職員)の存続のための〝食いぶち〟にしている実態もあり、これこそが構造的な障がい者の虐待じゃないか。」

「だから、この特集記事の内容は まあいいんだ。それより、この記者が そこまで踏み込んで筆を執ることができるか…そこに注目だね。」と言っていました。

 

障がい者支援に関する問題・課題は、私たちが思う以上に根深く 複雑なものとなっています。

そんな中、どこに〝終着〟を見出すべきか。

私も含めて、今後 考えるべき大きな課題となっています。