母校の周年記念事業
65歳
諸課題へ向け、始動
寒い。
娑婆(しゃば)の陽気は、これまでのうららかな状況から急転直下、一気に初冬を思わせるように寒い毎日となっています。
もう これには身体(からだ)がついてゆけまへん。
今まで来ていた半袖シャツを長袖に変え、出かけるときにはコートやジャンパーを引っかけて空を見上げ「オ天道さん、いったいどうなっちゃったの…」と独り言(ご)ちているところです。
この ひと足もふた足も早い寒さの到来の原因には、シベリア上空を流れる「寒帯全線ジェット気流」が蛇行(南下)する「ラニーニャ現象」のより寒気が列島を覆ったことで生じるらしく、今後も不定期のうちに寒気が訪れ 肌寒い…というより「寒い!」陽気を招くことになるようです。
一方で、このジェット気流が列島に被(かぶ)らないときは、今後は逆に気温が上昇するとのこと…しばらくの間 私たちは、夏服と秋冬物を両手に抱え〝二刀流〟の装いで過ごさなければならないようです。
いずれにしても、この極端な寒暖差は 体調不全の原因になりやすいことから、私たちは 蔓延するコロナ対策に並行して、不測の風邪など引かないよう体調管理に万全を期することが求められていると申せます。
この時期に風邪を引いても、誰も褒(ほ)めてはくれませんから。
◇諸課題に向け、始動
[始動1/長野市の外郭団体における 過去の事業にメス]
市民の「福祉」の在り方を考えつつ活動を重ねる有志の団体『Gota』が、長野市の外郭団体となっている福祉関係の協会での過去の事業について問題点を指摘し、そのことについて検証(調査)を行なうことになりました。
私も『Gota』の一員として この調査活動に参画しています。私は 自分の役分(やくぶん)として、議員の立場で議会での質問や委員会での質疑を通じて問題提起しており、それらに基づき 然るべき後に具体的な調査に入ることとしております。
この日(7日)は、Gotaのメンバーが集まり 調査の下打合せを行ないました。
単独活動と異なり、複数の しかも違った立場(社会環境)の者が様々な意見を出し合うことで、やがて議論は修練され 調査に向け大いに参考になったところです。
事(こと)の詳細については後日に譲ることとしますが、Gotaにおいては、今回の調査を契機に 最終的には長野市の福祉行政・事業が 真に市民や関係者のためになるものになるよう、イイ意味で諸課題を〝追い込んでゆく〟ことを確認したところです。
「いったい誰のための福祉?」このことをキーセンテンスとし、調査に臨んでまいります。
[始動2/市内の公園での「犬の散歩」解禁へ向け、関係団体に協力を打診]
長野市内の公園での「犬の散歩」の解放に向け、家庭犬の育成(しつけ)の普及向上に取り組む団体に協力を要請し ご快諾いただきました。
と いうのも、長野市は 他市に比して、市内の殆(ほとん)どの公園で「犬の連れ込み」が禁止されており、私の下(もと)にも 多くの愛犬家の方々から「公園で犬を散歩させてほしい」との声が寄せられています。
しかしながら、長野市では 数多(あまた)ある公園のうち 3つの公園だけが犬の散歩(連れ込み)や容認されているだけで、他は一切〝ワンちゃん進入禁止〟となっているのです。
で その陰には「飼い主マナー(の悪さ)」が挙げられているのです。
いわんや「糞害(ふんがい)」です。
これまでは 心無い飼い主が、散歩中の犬の糞を放置したまま立ち去るケースが多く 愛犬家以外の市民から苦情が寄せられるほどでした。
しかし 最近では飼い主マナーも向上してきたこともあり、市民アンケートでも7割以上の人が「公園での犬の散歩を容認したい」としていることから、この機を得て 公園を解放するよう市に求めているものです。
しかし いくら市民の声が届けられているといっても、いち議員が騒いだだけでは 市も対応しずらいであろうと考え、この際として 市内で犬のしつけを積極的に行ない「飼い主マナー」の向上に向け不断の活動を重ねている「愛犬育成団体」に声をかけ、かかる団体が前面に出たうえで 市に働きかけてもらうこととしました。
この日は「初めまして…」のお電話でしたが、私の言う趣旨にご賛同いただき、今後 当該団体と連携しながら、公園における犬の散歩の解放に向け協調してまいります。
ただ その(解放の)裏付けには、公園に犬と一緒に立ち入る100%の飼い主が 糞尿の始末をキチンと行なう(糞は持ち帰り・尿は水で流したり中和剤の噴霧)ことが必須条件であることから、飼い主マナー向上も併せて実行(啓発)してゆきたいところです。
いずれにしても、諸課題は待った無し。
この日を契機に、前へと進んでまいります。
「校門前でタバコを吸う先生」の記事に思う
過日(5日付)信濃毎日新聞の29面(第三社会面)の特集コラム「声のチカラ」に「他に場所はないの?学校の「校門前」でたばこ吸う先生が気になる…」との記事が掲載され、何とも複雑な思いにさせられました。
記事によると、県立高校の校門の目の前に自宅がある主婦から「校門の前でタバコを吸う先生が気になります。台所で料理をしていると(タバコの)臭いが漂ってくることがあるほど。校内に喫煙所はないのでしょうか?」との 苦情に近い投稿が(声のチカラに)寄せられたとのことで、よりによって「聖職」たる任に就く教職員が 自らが勤める学校の門前でタバコをくわえる姿と、それに伴う〝煙害〟について 疑問の声が寄せられたことが載せられていました。。
記事には、ここに至る経過と現状について述べられていました。
教師らが校門前などで喫煙するのは、受動喫煙対策を強化する「改正健康増進法」の施行を前に 県教育委員会が2019年4月から県立学校の敷地内を全面禁煙としたためだそうです。これに市町村教委も追随し 市町村立の小中学校での全面禁煙も進みました。
そんな措置により 愛煙家の教職員は「学校敷地外」での喫煙を余儀なくされているようです。
今回の投稿以外の高校でも「愛煙家の先生方は 授業の空き時間に校門前で喫煙している。」との述懐があり、さらに「校門から一歩でも出れば『敷地外』だから(喫煙しても)イイ、という感じになっている」とのことでした。
県教委保健厚生課によると、知事宛ての「県民ホットライン」にも 年に1~2件、県内各地の高校で教師らによる路上喫煙が「気になる」「目につく」などといった苦情のメールが届くということです。
長野県では、田中康夫知事時代の04年に 県有施設敷地内を全面禁煙としたことがありますが、職員の路上喫煙が増え かえって周辺住民から苦情が寄せられたことから、06年に「敷地内分煙」に緩和した経過があるとのこと。
この状況に 愛煙家の教職員は「愛煙家も住民に迷惑をかけないよう気を使っています。例えば 昼食を買いに出かけた際に、コンビニの喫煙スペースで(一服を)済ませるようにしていますが、そのような機会が無ければ、校門前ぐらいしか吸う場所はありません。」と胸の内を述べていました。
しかし、教職員の門前での喫煙を迷惑に感じている住民がいるのは事実。投稿した主婦は「やっぱり臭いが嫌だし印象も悪い。ただ、高校に直接言うのも気兼ねしてしまうので(高校側が)自主的に対応してほしい。」と話していました。
渦中の県教委は、愛煙家の教職員に禁煙を強制することもできず かといって校内に喫煙スペースを確保することも不可能で 打つ手が無い状況のようです。コラムの最後に(県教委保健厚生課)は「学校近辺での路上喫煙による校内への煙の流入や 通行人・住民の受動喫煙が生じないよう指導したい。」としている、と結んでいました。
実は、私の亡父は 自他共に認めるヘビースモーカーでした。
朝 起きてから床(とこ)につくまで、片時もタバコを手放すことはありませんでした(さすがに風呂に入るときは別でしたが)。
食事のときも 傍らには必ず灰皿があり、飯が終わった瞬間にライターに火を付けるほど。
当時 一家が住んでいた官舎の居間(6畳間)は、親父が居る間は 常に白く煙(けむ)っていたのでした。
ちなみに愛煙の銘柄は「わかば」ヨク知りませんが〝きつい〟種類とのこと、ガキの頃はヨク買いに行かされたものでした。
(この 親父の過剰なタバコ生活が反面教師となり、私自身は喫煙とは無縁の人生を送っています)
そんなヘビースモーカーを父に持った私ですので、愛煙家たる教職員の心情は理解できるところです。
ところが、ここ(投稿を受けた場所)は学校…しかも多感な若者が学ぶ場の それも門前での喫煙行為には、いささか疑問を呈せざるを得ないところです。
しかし彼らは、相変わらず煙を薫(くゆ)らせている。
残念ながら私は そこに、教職員であることの優位の心境を垣間見るところです。
「われわれは生徒を指導するとの崇高な職務に就く教職員である。日頃職務に精励し多忙を極める中、多少の喫煙は許されて当然。しかし敷地内での喫煙は叶わないことから ここ(校門)で喫煙するものである。」との 至極当然の言い分が聞こえてくるようです。
しかし私は それらの状況を踏まえてもなお、釈然としない思いは消えません。
まず、校門の前がいけません。多くの生徒や来訪者が出入りする校門の前での喫煙風景は 景観上でも違和感を否めません。
究極的に言えば、生徒が学ぶ学校施設(周辺)にタバコの煙が上がっていること自体 いかがなものかと思わざるを得ない…おそらくは 生徒指導の中で「未成年の喫煙はダメ」を説く立場でもありましょうが、片や(教職員)は成人しているから合法とは申せ (教職員は)煙の匂いを漂わせながら「ダメだぞ!」と強弁しても、何とも説得力に欠けると思わされるところです。
いずれにしても 指摘のあった様々な状況を踏まえ、せめても 校門の前の喫煙は即刻やめるべきでしょう。せめて 人目につかない一画(一角)に移動し、手早く用事を済ませるべきと思います。
そして、やや飛躍した理屈ではありますが「われわれは教職員である」との優位の意を顧みて 改めて「聖職」たる職務に向き合ってもらいたい、と願うところであります。
国会論戦〝目玉〟の中で ~障害者支援の「改正法案」提出へ~
秋の臨時国会が開会、今年の年末に向けて論戦がスタートしています。
コロナ禍や諸物価高騰など 厳しい社会情勢を踏まえての経済対策、また一方で いわゆる〝旧統一教会問題〟など、課題と問題がない交ぜになった中で 連日に亘り紙面や画面を賑わせることになるのでしょう。
そんな〝目玉ネタ〟が引きも切らない中、私は一本のニュースに注目しました。
「障害者支援、改正法案提出へ、1人暮らしや就労に新事業」というものです。
報道によると、障がい者の地域生活や就労への支援を手厚くしようと、厚生労働省が この臨時国会へ関連法改正案を提出する運びとなっているそうです。
①利用者者負担の見直し ②障害者の範囲の見直し ③相談支援の充実 ④障害児支援の強化 ⑤地域における自立した生活のための支援の充実 などとなっています。
障害者総合支援法や精神保健福祉法といった複数の改正案を束ね、障害者が少人数で共同生活するグループホーム等について、一人暮らしやパートナーとの同居を望む人を支援する新たな種類を設ける他、社会参加(就労)に向けた支援を行なう内容となっているとのことで、2024年度に施行したい考えとのことです。
[参考]障害者総合支援法改正法施行後3年の見直しについて(社会保障審議会障害者部会 報告書)
↓
https://www.mhlw.go.jp/content/12601000/000950635.pdf
わが国の障がい者支援については、さきに国連の『障害者権利委員会』が その現状について〝ダメ出し〟をするなど、世界水準から大きく立ち後れていることが指摘されているところであり、それらを踏まえての〝新たな支援〟の打ち出しとも捉えられるところです。
一方で、いくら制度を改正し〝枠組み〟ばかりを整えたとしても 支援する「人」の意識がシッカリとしたものでなければ、いわば「仏つくって魂入れず」の顛末となってしまうとの意見も聞かれるところです。
その 悪しき典型となるような事例が散見されており、憂慮の念を抱かされると同時に この辺りを抜本的に変える…とういうより、関係者が「原点に戻る」意識を持たなければならないと思わされるところです。
過般 上田市の通所型障がい者福祉施設において、あろうことか 施設職員が通所者(利用者)さんを殴るなどの暴行を加えたとして、20才の職員が傷害容疑で逮捕されたことが報じられたのです。
報道によると、当該の職員は 勤務先の施設で、30代の利用者さんをパイプ椅子で殴るなどし 腹の打撲など2週間のケガを負わせたとのこと。
そして さらに問題なのが、この暴行が単独のものではなく、他の職員ら2人と共謀して犯行に及んでいたとみられていることです(上田警察署調べ)。
これを受けて 警察や関係機関は、施設内で 職員らによる通所者らへの暴行が常態化していなかったかどうかを詳しく調べる方針とのことでした。
・・・・・。
今回の悪しき報道をはじめ、最近 全国の障がい者施設や高齢者施設など、いわゆる社会的弱者を支援する施設で 考えられないような虐待・傷害事件が頻発しており、由々しき思いをさせられています。
百歩譲って言えば、かかる〝虐待職員〟も 就職したての頃は「社会的弱者を支援したい」との熱意(=優しさ)をもって仕事に就いたハズです。
それが…どのような経過を辿って変節してしまったのでしょうか。
そこには 淀(よど)んだともいえる職場環境や、利用者さんを「お客様」として考えない 悪しき主客逆転の考え方の蔓延→それを容認する先輩職員の存在など、さまざまな悪要因が想像されるところです。
と いうのも、今回 上田の施設で摘発された職員は僅か20才代の若者。おそらくは勤務数年の中で悪魔の所業に手を染めた背景には、彼の悪しき素養を助長させる〝悪しき職場環境〟があったことが往々にして想像できるところです。
また、今回は 暴行という形で職員による虐待が大きく報じられましたが、実際には いわゆる言葉の暴力や威圧的なモノの言い方など、目に見えない虐待事例も遍在していることが側聞されており、地域の拠り所(よりどころ)であるハズの福祉施設は 一体どうなっているんだと懐疑的にならざるを得ないところです。
かかる事案を反面教師とし、福祉施設の健全運営には「職員の意識」が基本中の基本であることを再認識し、そこから〝改正〟してゆかないことには 真の障がい者支援は成り立たないのではないか、とも思わされたところでありました。
翻(ひるが)って、問題の背景には 福祉施設における職員待遇も課題であることも挙げられているところではありますが、それとは別次元での「職員意識」の問題、これを通底に据えて「福祉向上」を議論すべきと思う者の一人です。
福祉の原点は「人」也(なり)
この週末「福祉」には「人」の存在が欠かせないことを実感しました。
1日(土)、私の住む地区(川中島町)で「住民福祉大会」が開催されました。
もとより川中島町は「ふれあい・ささえあい・みとめあい」を合い言葉に「福祉のまち・かわなかじま」を基本理念として自治運営を行なっています。
その通底には 住民自らが中心となって行なう様々な活動があり、その活動をハブ(結節点)として住民⇔住民 との「ふれあい・ささえあい・みとめあい活動」が展開されているのです。
住民福祉大会においては、例年 地区内での福祉活動に取り組む方々を表彰しており、この日も3名の方々が表彰されました。
この表彰制度、これは非常に有為な取り組みと申せます。
福祉活動というものは、概して「目」に見えにくいもので、もっと言えば 福祉活動に本気で取り組む人は、一過性のパフォーマンスではない「地道」を旨としており、もとより 目立とうなどどいう邪心なく活動に励んでおられるのです。
そのうえで、地区(住民自治協議会)として その「背中」を見て、その地道かつ不断の活動に光を当てて表彰の栄に浴していただく。
さらに そのうえで、表彰(式)を通じて、かかる受賞者の方々の活動ぶりを地区住民の方々に見知っていただくのです。
(表彰式は)いわば 受賞者への敬意と、福祉活動の(地区住民への)啓発の場でもあるのです。
授賞式では、住民自治協議会々から、個人・団体に対して 感謝の言葉を添えて表彰状が授与されました。
受賞後、謝辞として 認知症の家族や当事者さんを支援する「オレンジカフェ」代表のHさんが謝辞を述べられました。
その(謝辞の)内容は グループの活動内容の紹介にも触れられており、前掲のような表彰の趣旨に則った 活動啓発も包含したものとなっていました。
また併せて、川中島町住民自治協議会の設立時から事務局として いわば内助の功に尽くしていただいたNさんに感謝状が贈られました。
私の立場からも謝意を表したところです。
この日の住民福祉大会 とりわけ表彰を通じて、「福祉」とは やはり「人」が原資であり、そのうえで「時間」が欠かせないものであることを再認識しました。
いわんや、福祉活動を実践するのは「人」であること。いくら有為な活動でも それを実践する人によって、それが真に地域や他者に浸透するか否かが分かれてきます。
もし、それ(福祉)を 単なるパフォーマンスとして囓(かじ)るに過ぎないものであれば、それは長続きしないでしょうし、他者(当事者さんや住民)も 真にそれに依(よ)ることは無いでありましょう。
言うなれば 福祉に携わる方の〝純粋度〟が推し量られるところです。
真に他者を思い、地域福祉向上に真に思いを寄せる活動を重ねておられる「人」がいて、その方々の真摯な活動が やがて多くの人たちの共感を呼ぶのです。
そして、それには「時間」が欠かせません。
一回限りや その場限りの活動では、福祉の灯火(ともしび)は じき潰(つい)えてしまいますが、それ(福祉)を継続的に実践し続けていただくことで、何というか 煮物に味が浸(し)み込むようにジワジワじっくりと活動が地域に浸透してゆく効果があると思うのです。
いわば「福祉は一朝一夕に成らず」を地でゆく活動に、改めて敬意を表したところでありました。
なお行事の後段には、地域で児童福祉や若者の自立支援に勤しむ活動が紹介され、地域には 身を挺するように福祉に取り組む方々が居るられることが披瀝されました。
「福祉のまち」では、さまざまな立場の方々が 今も脈々と活動を継続されています。
翌2日(日)には、松本市において「チャリテーコンサート」が開催され、難病に向き合う「こども病院」への支援活動(アクティビティ)が行なわれました。
私もライオンズクラブ(地区役員)の立場でスタッフ参加させていただきました。
会場には 家族連れをはじめ多くの方々が来場され、コンサート(無料)を楽しまれると同時に、豊科こども病院支援のためのチャリティー(寄付)の趣旨にご賛同いただき それぞれに浄財を投じてくださっていました。
コンサートでは、ライオンズクラブ関係者のコネクションで、アマチュアからプロまで 多様な演者がステージに上られ、それぞれに素晴らしいパフォーマンスを披露してくれ 大きな拍手が送られていました。
主催者(ライオンズクラブ)の善意と 演者の方々のパフォーマンスが重なり、来場者の方々にもチャリティーの意義が伝播され、みなさん胆嚢(たんのう)した表情で会場を後にされ、その笑顔が実に印象的でありました。
ボランティア(福祉・奉仕)には様々な形態があります。
この日のライオンズクラブの活動は、いわば社会人としての奉仕活動として 難病に向き合う子どもたちの心に届いてくれることを願って止まないところでありました。
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長野県知事の「武力攻撃事態」を想定した訓練の実施検討発言に違和感
時候のニュース報道を見聞し、何ともいえない違和感を禁じ得ませんでした。
◇長野県知事が「武力攻撃事態」を想定した訓練の実施検討を表明
長野県の阿部守一知事が、開会中の県議会9月定例会一般質問の答弁で「他国の侵攻やミサイル攻撃など 国民保護法の「武力攻撃事態」を想定した訓練の実施を検討する。」と発言したことが報じられました。
知事は答弁の中で、現在 国際情勢や安全保障環境が厳しさを増しており、武力攻撃の発生や発生の恐れを想定した訓練の「必要性が高まっている」と強調したうえで、(実際に訓練を実施する際には)訓練規模が大きく広域に亘るため 県単独での実施は難しいとし「国と相談して実施に向け検討していきたい。」と述べたとのことです。
これまで長野県は、国民保護法に基づき 武力攻撃事態やテロによる「緊急対処事態」に備え、警報発令や住民の避難誘導などの手順を定める「国民保護計画」を作成し、2008年以降 緊急対処事態を想定した図上訓練や実動訓練を国や長野市・松本市と共同で計3回実施しています。一方、武力攻撃事態を想定した訓練の例はありません。
全国では1月に、内閣官房や消防庁・開催自治体(高知・山口・愛媛県など)33機関が参加して武力攻撃事態を想定した実動・図上訓練を初めて実施した経過があり、某国と日本の関係が悪化し 武力攻撃の可能性がある―などとして、高知県民が他県に避難すると想定し 実施されました。住民ら約240人が参加し、他県への避難に向けた調整・空港や港までの移動などの手順を確認したとのことです。
今回の長野県知事発言(答弁)について、紙面の論調も 憂慮をもって受け止めており、私も その見解に同調するものです。
紙面の解説は、長野県知事が ロシアのウクライナ侵攻・米中対立を背景とした台湾情勢の緊迫化・頻度を増す 北朝鮮による日本海に向けての弾道ミサイル発射行為など、国際情勢の不安定化による県民の不安を意識していることに理解を示しながらも「訓練に一定の「私権制限」も見込まれる武力攻撃に対応する訓練は「有事体制」の日常化につながる懸念もある」としたうえで「本当に必要な訓練か 冷静な議論が必要」としていました。
さらに「県が国や地元市と実施した国民保護法に基づき実施した訓練は、あくまでも「テロによる緊急対処事態」を想定したものでした。
他の識者は「現時点で日本が直接攻撃されることは考えにくく、ずいぶん先走った発言(答弁)で驚いた。」と述べていました。
この報道に触れた私も、長野県が いわば一足飛びに〝防衛訓練〟に臨む(検討する)ことについて、何ともいえない違和感を禁じ得ませんでした。
識者の見解にもありましたが、現時点で 長野県が武力攻撃の対象になることは考えにくく、それよりも われわれ長野県民は、別の意味での「有事」に備えなければならないのでは…と思うのです。
その「有事」の優先事項とは 例えば自然災害への対応であり、また例えば とりわけ長野県をはじめ周辺エリアでは、柏崎刈羽原子力発電所の不測の事態に備えた対応ではないか、と。
無論「有事」には さまざまな種別があるので、災害⇔原発対応⇔防衛(への訓練)を一括(ひとくく)りにするのが筋合いが違うといえばそれまでのところですが、現下の 県をはじめ自治体の有事対応は決して十分ではいえるものではないのです。
各自治体(市町村)の いわば取りまとめ役でもある県が、それら諸課題を置き去りにしたまま〝防衛〟へと向かうのは、足元を疎(おろそ)かにしたまま上ばかりを見る危うさ…それが大きな「違和感」として印象づけられたところです。
ただ 今回の知事発言は、いち議員への答弁に止まっていることから その〝本気度〟は懐疑的ではありますが、いずれにしても 議事録の残る場での答弁であることから「言ってみただけ」では済まされず、今後の推移に注目されるところでありましょう。