2023年が幕を明け、それと同時に 正月の風物詩ともいえる様々なスポーツ大会が行なわれ、その熱い戦いを通じて 私たち観る者に興奮と感動を与えてくれています。
元日には「第67回全日本実業団対抗駅伝競走大会(ニューイヤー駅伝)」が行なわれ、寒風の上野(こうづけ)のロードで社会人ランナーが凌(しの)ぎを削りました。
長野県佐久長聖高校出身の大迫選手が11人抜きの激走をみせ、強く印象に残るレースでした。
2日~3日にかけては、第99回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)が開催され、学生ランナーの激走に大きな感動をもらいました。
私としては、1区のスタート時からいきなり飛び出した 関東学生連合の無名とも言える選手の力走が、何というか痛快な感…思わず「そのまま行け行け!」と声援を送ったところです。
残念ながら「記録」には残らないところですが、確実に 私たちの「記憶」に残る好走でありました。
さて、駅伝の次は 高校サッカーの頂点をめざす「第101回全国高校サッカー選手権大会」の準決勝以上の対戦が、国立競技場で行なわれます。
12/29から1回戦が始まり、激戦を戦った末に4チームが勝ち残り それぞれに頂点をめざすことになります。
この戦いの中でも きっと幾多のドラマが生まれることでしょう。
ところで、取りわけ この全国高校サッカー大会の場で ここのところ多用されているのが「ロングスロー」であり、その功罪が 現下のジュニアサッカー界を揺るがしていることが伝えられているとのことなのです。
そのうえで、真に選手の将来を思うサッカー識者は「ロングスロー」の多用について警鐘を鳴らしており、私も その意見に共感する者の一人です。
この通底には「全国高校サッカー」のようなトーナメント戦=勝てば次の試合に出れる⇔負ければ終わり との〝ノックアウト方式の大会〟の功罪があると言われています。
ここには、ノックアウト方式の大会が複数開催される日本と リーグ戦文化が浸透している欧州などにおける、サッカーに対する価値観の違いが見られるとのことです。
例えば日本では 試合があった日に「どうだった?」と聞かれると、勝った負けたや何点差だったとかの「結果」を答えます。ところが欧州では、どんなプレーをしたか・どういうゲーム内容だったか などと「中味=プロセス」を話し合うそうなのです。
サッカー識者によると、サッカーとは 刻々と変化する状況に応じた判断力を求められ、いかに「創造性」を発揮できるかを争う競技とのこと。
そんな中での「スローイング」の位置づけです。
かくいう私は 中学~高校とサッカー部(弱小でしたが)に所属し、ゴールをめざして仲間とボールを追っていました。当然、試合中は幾度となくスローイングを投じてきたものですが、それが 現代サッカーにおいては「ロングスロー」によって あわやセンタリングというほどの長いボールを投じることにより、ロングスロー(センタリング)→ダイレクトでヘディング→一発で得点 との、いわば短絡的な中で試合を決着してしまうようになっていることは〝次代の流れ〟であると同時に、それが「勝利至上主義」のノックアウト方式の中で〝勝つためには手段を選ばず〟の勝つための手段に いわばなり下がっていることが問題視されているのです。
サッカー識者は続けて「同じスローインでも しっかりと味方に繋ぐには相当な工夫が要ります。タッチラインから5メートル程度の位置にいる味方を使って いかに次の展開に繋げていくか、それだけでも多様な戦術が求められるのに 育成段階からロングスローに頼ってしまって良いものでしょうか。それは勝つためには議論の余地さえないもので、まさに勝利至上主義の環境が 短絡な手段を生み出してしまったと言わざるを得ないところです。」
「では、なぜ欧州諸国などでは 育成年代の全国大会を行なわないのか、それはまさに過度な勝利至上主義が選手の害になることを知悉(ちしつ)しているからです。そのうえで、欧州各国がロングスローを推奨しないのは、もし選手がトップリーグに入ったときには、高身長の選手が多い中 いくらロングスローを放り込んでも跳ね返されるばかりで、戦略としては愚の骨頂になってしまいます。もし指導者が、将来 世界に通用する選手を育てようという高い志を持つなら、ロングスローに頼ることは無益なこと自明の理です。」としています。
さらに「勝つために手段を選ばないなら、確かに大きな選手をペナルティエリア内に置いて ロングボールを入れてこぼれ球を狙う。それは一番簡単な方法です。しかしそれでは、サッカーを真に突き詰めた中での結果としては 決して望ましいものではないと言わざるを得ない。」と結んでいました。
サッカーにおける「ロングスロー」の功罪。
このことは サッカーのみならず、教育全般・もっといえば 社会における人の行動にも共通する課題なのかもしれません。
結果さえ出るならば、課程(プロセス)は二の次。どんな手を使っても〝勝てば官軍〟じゃないか との考え方、他方、結果のつじつまさえ合えば、途中経過はどうでもイイじゃないか、との考え方は 当事者の真の成長につながらないと 私も危惧する者の一人です。
たとえ遠回りでも、真に身につく努力を惜しまず行なうこと。
その努力こそが長い目で見たうえでの財産になると思いいたすところです。
ただ 最後に申し上げれば、私はロングスローを全否定しているのではありません。これも立派な戦術の一つであることは大いに認めるところです。
ただ、ね。勝ったもん勝ちの〝ノックアウト型人生〟は、余りに世知辛いと思っているからこその見解の一つであります。
新たな年を迎え、ややもすれば慶賀ムードに浸る記事が掲載される 年頭の地方主要紙の一面トップに、現下の社会に内在する問題記事が掲載され 耳目を疑い 注目させられました。
飯田市の放課後等デイサービス(学校に通っている障害のある子どもを放課後や夏休みなどの長期休暇中に預かる施設)で、いわゆる「心理的虐待」が行なわれていたというのです。
記事によると、発達障害などの障害を抱える子どもが放課後に通う 飯田市内の放課後等デイサービス施設で、2021年度に「心理的虐待」に当たる問題が発生していたとのこと。
当時勤務していた元職員によると、発達障害のある子の首に「×」を記したカードを掛けたり 四つんばいになった子の背中を机代わりにして職員が連絡帳をつけていたそうです。
この元職員は 2021年4月にこの運営法人で働き始め、直後から複数の事例を確認したとのこと。施設内での会話の録音や写真・メモなどで一部を記録し 代表に相談したものの改善されないと判断したため同年12月に退職。22年1月に 約20件を飯田市に通報しました。
飯田市福祉課は通報を受け、障害者虐待防止法に基づく実地調査を実施。通報内容と 代表が職員から聞き取った報告を照らし合わせ、暴言や不当な差別的言動などの心理的虐待があったと判断し 長野県に報告したうえで、保護者への説明や改善に向けた取り組みを法人に指示し 今後も継続して指導するとのことです。
その一方で、市と県は問題自体をを公表していないとのこと。飯田市福祉課は取材に対し、心理的虐待と判断したことを認めたものの 通報があったうちどの事例を虐待と認定したのかや被害を受けた子どもの数・発生時期などの詳細を明らかにしていません。
長野県障がい者支援課に至っては、飯田市から報告を受けたこと自体も認めていないとのことでありました。
また 運営法人の代表は取材に「その状況だけを切り取れば、不適切と考えられる関わり方が複数あったのは事実」と話したうえで、改善に向けて職員に研修を受講させ 月1回のミーティングで虐待防止を話し合っているとのこと。
保護者には定期的に発行する通知で、虐待に関する通報があり行政指導があったことを伝えたとのことです。
今回の報道を通じ 同紙は「(事態/実態の)公表が無ければ、教訓を共有できない」と問題提起しています。
そのうえで、この手の問題について あまりに公表されていなさ過ぎる実態を伝えていました。
記事によると、今回の 飯田市の放課後等デイサービス職員による心理的虐待…厚生労働省のガイドラインは「障害の状態に合わせ、子どもが他者との信頼関係を経験できる支援をするよう(放課後等デイサービス施設に)求める」との大前提を示したうえで、今回の飯田市の施設は、そのガイドラインにも背(そむ)き 集団生活や意思疎通が苦手な発達障害の子どもらに心理的負荷を与えた可能性がありますが、県と市は その事実を公表していないこと、虐待の事実は いわばブラックボックスに封印され、例えば この施設利用者や家族は(事実を)知る術が無いことを指摘していました。
そのうえで、発達障害の子の増加を受け 放課後等デイサービス施設は全国的に増加していること、そして それに伴い、施設での虐待事案も増えていることを伝えています。
今回の記事の切り口は、同紙記者による 飯田市に通報した人物への取材でした。
当時、まさに現場に勤め その悪しき実態を目にした人の証言(それも実態を記録した録音・写真・メモあり)は揺るぎない証拠となりました。
ところが、障がい者福祉施設の虐待を担当する飯田市福祉課は、当初の取材に「個別のケースには回答しない」としていたのです。
そこで記者は 当該の障がい者福祉施設の運営法人に取材を進めると 飯田市から指導を受けたことが判明しました。そのうえでの取材に対し 法人の代表は「職員と子どもの関係が馴れ合いとなり、客観的に見たら虐待と思われる関わり方が普通になっていた。」と説明したとのことです。
それを受けて 飯田市福祉課に再度説明を求めると、心理的虐待があったことを認めたものの 相変わらず詳細は答えなかったそうです。
他方、長野県障がい者支援課は「県による指定の取り消しなどの行政処分をすれば公表するが、そうでなければ公表しない」としているとのことです。
都道府県は、障害者施設で虐待があった場合「障害者虐待防止法」に基づき 施設の種別・職員の職種のみを公表することになっているそうです。
それによると 2021年度分は未公表で、2020年度は県内の障害者施設で12件の虐待があったものの いずれも詳細は公表されていません。このうち1件は放課後等デイサービスだったとのことです。
[参考]長野県における障がい者虐待の状況 (長野県HP)
↓
https://www.pref.nagano.lg.jp/shogai-shien/gyakutaikensu.html
記事は最後に、福祉や保育の現場での虐待が全国で相次ぎ明らかになっている中、22年12月には 熊本市の乳児院で職員が乳幼児に「顔面偏差値低いよね」などと発言、市が心理的虐待と認定したことを地元紙が報じ 乳児院が記者会見を開いて詳細を発表したことを伝え、最後に 障害者虐待に詳しい弁護士が「放課後等デイサービスは 法律に基づき公費で賄われていることから、そこで子どもを心理的に傷つける行為があったと判断したならば 行政は被害者のプライバシーに最大限配慮した上で公表するべきではないか。」と指摘している、とまとめていました。
・・・・・・。
今回の 地方主要紙の〝一面トップ記事〟は、発達障がい者施設(=福祉施設)で 半ば常態化している虐待について、独自の取材で切り込んだことによる成果であると申せます。
そのうえで 先ず記事の内容について触れれば、この施設での「心理的虐待」が、利用者さんにとっては 暴力などの〝物理的虐待〟よりも 傷(=心の傷)を負う可能性があるにも関わらず、それが表(おもて)に出ない実態があること⇔それは行政においても同じ:傷害など刑事事件にでもならない限り公表に至らない実態にあることが問題視されます。
さらに、施設側においても 被害者の心理を余所(よそ)に「職員と子どもの関係が馴れ合いとなり、客観的に見たら虐待と思われる関わり方が普通になっていた」などと 事態を軽く見ている傾向にあることが ときに腹立たしく思えるほどです。
で…今回の事案において 非常に残念なことは、虐待の実態を把握・問題視したうえで 勇気をもって代表者に告発した職員が、それに対する施設(代表者)の対応に失望し、その施設を辞めるに至ってしまったことです。
いわば正義が悪に屈してしまった経過には 歯がみすら覚えるところです。
そんな中でも一筋の光明は、今回の事案をキッカケにしたのか どうやら同紙が この種の問題に対し、本気で取り組むことになったことが 併せ報じられていることです。
同紙では 4日付の紙面から「ふつうって何ですか? 発達障害と社会」として、発達障がいと社会との関わりについて連載を組むとのことです。
同紙(記者)が どのような形で発達障がい⇔社会について切り込んで(掘り下げて)ゆくのか、私の立場でも注目してゆきたいと思うところです。
今回の記事掲載は、私たち=社会福祉の在り方を訴求するグループ にとっても、大きなキッカケになることと思います。
私が 事(こと)につけてアドバイスを乞う「Gotaホップ」なるチームは、長年に亘り 長野市(内)の知的障がい者支援施設(団体)に内在する諸課題(諸問題)について追跡を続けており、まさに 今回の飯田市の事案と同種の〝見えざる課題〟について検証・掘り下げ活動を継続的に行なっているのです。
今回、飯田市の事案が マスコミ(新聞)手により公表(公開)の〝日の目〟を浴びました。
このことを(イイ意味での)轍(てつ)とし、長野市(内)における知的障がい者支援についても、その在り方について 市民みんなで考えるキッカケを提供できればと考え、関係者と協議を進めてまいりたいと存じます。
ただ…かかる「Gotaホップ」チームは、単に知的障がい者支援の現状を指摘することに止(とど)まりません。
障がい者支援事業における 虐待などの悪しき実態が有るや無しやの事実関係の解明はもとより、その奥底にあるもの…障がい者支援事業が、本当に障がい者支援に結びついているのか との「根本的な問題」に焦点を当て、それは 長野市の障がい者支援のみならず、社会全体の障がい者支援に対する問題提起につながることと確信し、取り組みを強めてまいります。
「新年早々…」というようなタイミングで掲載された、県内自治体における障がい者支援事業における問題提起の記事。
今年いちねんを占うような記事に、身震いすら覚えたところです。
2023年新春の元旦は穏やかな日和となりました。皆様には健やかに新年をお迎えのことと存じます。本年もよろしくお願い申し上げます。 今年の年賀...
2023年/令和5年が幕を明け、初日の出の来光を仰ぐに至りました。
日の出と共に、今年いちねんが本格胎動となりました。
取り分け今年は 私(たち)にとって、統一地方選挙の〝選挙イヤー〟改選期になることから 旧に倍しての努力を重ねてまいる所存であります。
みなさまにおかれまては、改めてご指導ご鞭撻のほどを 重ねてお願い申し上げます。
今年の元朝は清々たる陽気で 初日も周囲に明るい陽光をもたらしてくれ、その神々(こうごう)しさに 思わず手を合わさずにおれませんでした。
今年いちねんが実り多きものになりますように。
時間経過と共に昇り続ける太陽は、八幡原公園の池に光の筋を投影していました。
何か、私(たち)に行くべき道を指し示してくれているよう…「迷わず真っ直ぐに進め。」陽光に激励されているかと勝手に思い、自らを鼓舞したところです。
池の鴨(カモ)たちは、穏やかに 浅く氷の張った池上(ちじょう)でまどろんでいます。
元旦の朝の、つかの間の平穏なひとときでありました。
ところが その後、実家のオフクロから電話があり「ストーブ(の火)がつかなくなった!」との〝SOS〟が入電?され (長野ことばで)飛んで行く事態に。
ウチのオフクロは、旧来からの「反射ストーブ」派なのですが、どうやら長年使ううちに火芯が減って 火が回らなくなったようで、本体に灯油は入っているものの 火芯はブスブス燻(くすぶ)るばかりで点(とも)ってくれません。
確か 物置に使わないでいる同型ストーブがあったハズ、と、2時間かけて物置をひっくり返し(苦笑)ホコリを払って入れ替えたところです。
オフクロからは「新年早々悪かったわね…」と詫(わ)びられましたが、考えようによっては この逆のケースだったらと思うと、背筋が凍るところ「こんなトラブルで済んでよかったヨ。」としみじみ言ったところです。
今回のオフクロのケースは ストーブの火が「つかなくなった」ですが、これが ストーブの火が「燃え上がった」だったとすれば…木造家屋などはひとたまりも無く全焼する惨事となることは まさに〝火を見るより明らか〟なことでありましょう。
社会の大きな節目である正月。さまざまな事項が〝全休モード〟に入るところですが、社会事案は それ(全休)を待ってくれません。
昨年の大晦日には、山形県鶴岡市の集落の裏山で 幅約100m・高さ20~30mに亘る土砂崩れが起き、住宅を含む約10棟が巻き込まれた突発的な自然災害が発生しました。今も住人の高齢夫婦との連絡が取れていないとのことです。
識者によると、集落が背にする小山の地盤(岩盤)が 風化によって脆(もろ)くなっていたところに、折からの降雪の〝雪解け水〟が大量に浸透したことで地盤そのものが重量を増し、それが臨界点を超えた瞬間に その深層部分からいきなり崩れる「深層崩壊」が発生したようです。
いずれにしても 年末年始のこの時期に容赦なく起きた自然災害には、その無碍(むげ)なることを嘆くばかりでありました。
また 観光名所でもあり、寒いこの時期には人々が癒やしを求めて足を運ぶ伊豆の温泉宿では 元日のこの日に火災が発生、宿泊客や従業員など約100名が避難することとなってしまいました。
幸い 死者は無いとのことで安堵したところですが、よりによって元日の火事とは 残念極まりないところです。
また 自然災害や火災とは類(たぐい)は異なるものの、私は取り分け 主に高齢者の「餅(モチ)が喉(のど)に詰まる事故」を大いに注意喚起するところです。
消費者庁によると、主に高齢者の〝餅による窒息死亡事故〟は、特に正月の三ケ日に多いそうです。
そこには「せっかくの正月だから せめて餅くらいは食べさせてあげたい」との〝家族愛〟があるところですが、そこに思わぬ落とし穴があることを自覚(自戒)したいところです。
高齢者は 加齢とともに▽歯の機能が衰えて 噛む力が弱くなる▽飲み込む力(嚥下/えんげ)が弱くなる▽せきで押し返す力(咳反射)が弱くなり、窒息が起きやすくなる とのことです。
その予防方法としては・餅を小さく切り 食べやすい大きさにする・先にお茶や汁物を飲み 喉を潤(うるお)してから食べる・ゆっくりとよく噛む などがありますが、私は特に「先にお茶や汁物を飲み 喉を潤(うるお)してから食べる」をお勧めするところです。
と いうのも、私の亡父が (餅ではありませんでしたが)やたら食べ物を詰まらす傾向にあり、そのときの主治医の「先にぬるいお茶を飲ませて」とのアドバイスによって改善された経緯があるのです。
このことは、餅を詰まらせるのが 男性(おじいちゃん)が比較的多いことに表れています。
女性(おばあちゃん)は、日常的にお茶を飲む傾向にあることから いわば 常に喉が潤っている状態にあり、餅を食べたときも スムーズに嚥下することができますが、こと男性(おじいちゃん)は お茶などを嗜(たしな)まず いきなり餅を食べる(飲み込む)傾向があることから、乾いた状態の喉の内側に 餅が貼り付いて詰まる、となってしまうようなのです。
いずれにしても、せっかくのお正月 大過なく笑顔のうちに過ごしたいもの、ちょっとした気遣いで 事故を未然に防ぎたいものです。
ここのところの 自然環境を含めた社会情勢は、本当に予断のならないこととなっています。
私たちは「正月だから何ごとも無し」との〝正常化バイアス〟に依(よ)らずに社会生活を送るを余儀なくされていると申せます。
旧年が暮れ、新たな年/令和5年を迎えました。
皆様には、昨年中のご薫陶に心から御礼申し上げますと共に、本年も倍旧のご支援ご鞭撻のほど 改めてお願い申し上げる次第であります。
顧みれば、令和4年もまた「光陰矢の如し」…アッというまに過ぎた日々でありました。
社会は未だコロナ禍の最中(さなか)にあります。
長野市においても、連日に亘り3桁の感染者数が報告されていますが、片や 社会経済の復興を期して様々な規制が緩和され、私たちは その2つの流れの中で社会生活を送ることになっています。
まさに〝コロナ過度期〟ともいえる時流の中で、新たな年はどのように推移してゆくのでありましょうか。
昨年は 私にとって、地道ながら「地域社会の状況を質(ただ)す」を緒に就けた年であり、今年は それをさらに〝深掘り〟すべく取り組む年といたしたく存じております。
長野市が進める「公共施設マネジメント」の進め方について、総務省の方針に盲従して施設の削減のみを進めようとする長野市の方針に警鐘を鳴らし、市民の方々と連携しながら〝廃止ありき〟の方針に(イイ意味で)待ったをかける端緒の役割を果たしてきました。
そのうえで その手法として、単なる反対運動ではない「意見交換」の場を設けることで、市民と行政が対等に向き合い意見を交わし 事態をより良い方向に導くことに努め、結果として成果に結びつけることができました。
このことは 私だけでなく、行政職員にとっても有為な経験となったことから、本年も引き続き かかる〝対話型手法〟で 内在する諸課題に向き合ってゆきたいと存じております。
一方で、取り分け市内の福祉事業について いわば根深い問題があることを知らされたことから、このことについても 今年は更に掘り下げながら諸課題に対峙してまいりたいと存じております。
但し、その取り組みの通底は「良くすること」…ややもすると課題に臨む場面においては、単なる追求や糾弾に終始しがちですが、私は そんな〝政治的パフォーマンス〟に終わらないよう、あくまで課題は課題として検証するものの そこ(検証・追求)で終わらせることなく、何というか「膿(うみ)を出し切ったうえで傷を治す」ような、事態を最後まで見届ける いわば責任感を心中(しんちゅう)に期したうえで課題に取り組む姿勢をもって 事(こと)に臨んでゆきたいと思っております。
その他、これまでも取り組む「スポーツコミッション」の意義に基づく 市内スポーツの在り方の検討や様々な地域課題など、やるべきことは枚挙に暇がないところでありますが 私の信条とする「一日一生」の意気をもって、全ての課題に全力を尽くしてまいる所存であります。
私の人生の中で、自らの引導により 多くのものを失い、そして 多くのことを学ぶこととなった 出直し人生。
その際に 私自身が出した結論…私の これからの人生に残された道は「地域貢献」ただ一つであること。
そのうえで 私の行動の指針は「みなさんのために 何ができるか。」それを最優先に考えて 生きてゆくことといたしました。
これからも試行錯誤が続くであろう人生行路の中で、迷ったときは「みなさんのために どうすべきか。」このことを指標に、令和5年も歩んでまいります。
〝読者〟のみなさん、私に心を寄せてくださるみなさん。こんな私を、これからも ときに温かく、ときに厳しく見守り続けていただければ幸甚に存じます。
早いもので、今年は改選の年。決意も新たに頑張ってゆきます。
今後とも どうぞ宜しくお願い申し上げます。