さきの30日、長野労働基準局が「2021年6月1日時点で職員に占める障がい者の割合が法定雇用率を下回り、翌22年末までに一定の改善が見られなかったとして、県内市町村など計12機関に適正な採用を実施するよう勧告した」との報道がされました。
そこで悪しけく注目されたのが、長野市教育委員会への勧告は4年連続となっていることです。
障害者雇用促進法に基づき、各自治体の教育委員会には「法定雇用率」として 職員数の2,5%の障がい者雇用が求められています。しかし、長野市教育委員会における22年末時点の障害者雇用率は1,43%に止(とど)まり、実数で8,0人不足しているとのこと。
長野市教委総務課は「組織内で受け入れ先の確保ができていないのが大きな課題」としたうえで「(障害者が従事できる)仕事づくりや業務の切り出しに随時取り組んでいきたい」としているとのことでした。
この勧告は、法定雇用率を満たさなかった機関に作成が義務付けられる「障害者採用計画」の実施率が50%未満などの場合に対象となるとのこと。12機関は他に、長野市・小諸市・岡谷市の病院事業、上水内郡飯綱町教委・木曽郡南木曽町教委・同郡大桑村・上高井郡高山村・下伊那郡阿智村・同郡天龍村だそうです。
なお、国や地方公共団体などに求められる法定雇用率は2,6%となっています。
自治体の教育委員会は まさに当該市町村の「学び」を司(つかさど)る機関であり、また「道徳」の科目では 人として在(あ)るべき道・為(な)すべき所作を如何(いか)に説(と)くかを考察する機関でもあります。
特に昨今は、ノーマライゼーション社会の構築に向けた教育・「誰ひとり取り残さない」とされるSDGsに向けた教育などが推進される中、その膝元にある教育委員会の障がい者雇用が基準にすら達していないことには、何ともいえない残念感が漂うところです。
で…さらに残念なことに、そこ(法定雇用率未達成)に 教育界の保守性というか〝保身〟的な意識が見え隠れするところです。
もし まずは身体障がい者を雇用するとなれば そこには在勤職員のフォローや施設の改修が要されることとなり、いわゆる教育現場の負担増が憂慮されることになる。
ましてや それが知的障がい者ともなれば、果たしてどの場面で雇用すればイイかなど 考えも及ばない…教育現場の臨界点のようなものも見え隠れするところであります。
「現場はタイヘンなんです。」弁解の声が聞こえてくるようです。
このこと(保身)は、昨年末から関わってきている「青木島遊園地廃止問題」にも重なる思いがします。
肝心の 子どものことを置き去りにして〝大人の事情〟を優先して強行しようとしている遊園地廃止事業。
しかし 手続きには瑕疵(かし)はなく「現場」の職員の身分は固く守られている。
これらのことからも、真に障がい者を思い 真に子どものことを思えば、為(な)すべきことは自ずと見えてくるハズであります。
しかし、現実は…。
今回の報道に触れ「職責」というものを考えたとき、何をもって「責任」と捉えるべきかを考えてしまいます。
とりわけ教育委員会においては、総論での「教育」の視点で その職責をもって障害者の雇用率を上げなければならないと強く思うところです。
未だ社会問題となっている「青木島遊園地存廃問題」ですが、この日(28日)の報道で 長野市が遊園地の廃止を決めたのは不当だなどとして、市民らから出されていた 遊園地廃止にあたっての工事費用の支出差し止めなどを求めた「住民監査請求」について、市の監査委員が「請求を棄却」したことが報じられました。
この報道に接し、論点の違いというか 何とも〝かみ合わない感〟を抱かされたところです。
報道によると、長野市が 借地である「青木島遊園地」の廃止を決めたことを巡り、市民らが 一部の住民の意見を重視した廃止の決定は違憲・違法または不当だとして、廃止にあたっての工事費の支出や借地契約の解除を差し止めるよう求める住民監査請求を行なっていたところ、これについて市の監査委員は28日に「請求を棄却する監査結果」を荻原市長に提出したとのことです。
監査結果では、違憲性や違法性をいずれも否定したうえで「公園の廃止は市長の裁量に基づくものであり、また 地元区長会から出されていた公園の廃止要望を区民の総意と考えるのは相当で、裁量権を逸脱するものとは認められない。」などとして、不当性も認めませんでした。
この監査結果は、いわば〝織り込み済み〟のものであったのかもしれません。
監査を請求した側は、今回の青木島遊園地の廃止を巡る経過が いわば総じて妥当では無いとの判断の下、その経過を辿った中での技術的な視点で(遊園地廃止の)違憲性・違法性・さらに不当性を追求したものであったと思われます。
しかし残念ながら、今回の住民監査請求の論点(狙い)と 監査委員の判断(監査結果)は、ややかみ合わないものであったようです。
青木島遊園地を廃止に追い込んだ経緯には 明らかに不透明な点が多々あり、その決定をそのまま了(りょう)とできないことは公然のことであります。
これまでも伝えられているとおり、廃止決定の論拠となってきた「公文書」については その内容に事実と異なる記述が遍在していたり、住民の「声」を置き去りにしたまま事(こと)が進められてきたりと、市の描いたシナリオのままに廃止のストーリーが作り上げられてきた感、このことは 多くの市民は とても承服できるものではないと捉えています。
しかし、そんな不遜な展開であっても〝手続き上〟では何ら瑕疵(かし)が無いことから、監査委員としては、その経過をもって違憲・違法・不当とは言えないとの判断を示したものであったようです。
そして これ(監査結果)は、同職の職責においては 然るべき判断であったということであり、それは同時に〝かみ合わない結果〟として市民に伝えられることとなりました。
一方で この監査結果は、行政の姿勢という点で「それでイイのか」との疑問符を強調することにもなったと思います。
監査委員は、廃止判断の妥当性としての筆頭に「市長の裁量に基づくもの」としています。
このことについての疑問点が。
監査の中では「最終的には首長の判断が重視される」との大義があると思われるところですが、その〝市長判断〟を促すための報告(公文書)の内容が事実と異なっていたとすれば。
市長は、いわば間違った報告を聞かされ それを基に(間違った)判断をした(させられた)ということになり、その妥当性には疑問を抱かざるを得ません。
また 同じく監査委員は「地元区長会から出されていた公園の廃止要望を区民の総意と考えるのは相当」としていますが、このことについても大きな「?」が。
地元区長会が出した遊園地の廃止要望は、手続き上では〝住民を代表しての要望〟ですが、それが実際に〝区民の総意〟であったかについては「そうではなかった」ということが強く証明されたことは周知のことであります。
すなわち、2/11に行なわれた住民説明会では、参加者のほぼ総数に上(のぼ)る人たちが「遊園地廃止に反対」との意思を強く示しており、住民の真の意向を置き去りにしたまま(区長会による)廃止要望が出されたことは火を見るより明らかなものでありました。
にも関わらず 監査委員が「区民の総意と考えるのは相当」と言ってのけたのは、何というか 後ろを見ずに手続きのハンドルだけを握りしめてアクセル全開といった無理矢理感がにじみ出ているものでありました。
今回の監査報告は、改めて市民と行政との意識の乖離(かいり)を再認識させられるものでありました。
さまざまな行政手続きを経れば経るほど、心の中に 疑問の雲が湧き上がってくるのは、私だけではないでしょう。
未だ社会問題となっている「青木島遊園地廃止問題」ですが、これまでと異なる視点での〝疑問点〟がクローズアップされることになっており、これには法曹関係者も関心を寄せることになっています。
その〝疑問点〟とは、青木島遊園地が 隣接地の宅地開発行為における「緑地」と見なされていることに起因するもの(疑問点)です。
ことの経緯は、私が知る限り 下記のとおりです。
数年前、ここ青木島遊園地に隣接する区画で 一般住宅を対象にした「開発行為」が行なわれたそうです。
下記グーグルマップの 遊園地の南に隣接するエリアです。(矢印周辺)
宅地を開発(造成)する際 それが一定以上の規模になる場合には、そこ(開発する区画)には 公園などの「緑地」を 半径250m以内に設けなければならないことが「都市公園法」なる法律で定められています。
ここで指摘される 青木島遊園地南側の宅地も、一定以上の規模であり「緑地」を設けなければなりませんでした。
ところが 同法では「かかる造成地に 公園などの緑地が予め存在するときは、その既存の公園を緑地として認める」との付則があることから、この宅地造成業者は 青木島遊園地を「緑地」として申請、開発許可を得たのでした。
と いうことは、この 緑地が不可欠の造成地(宅地)がある以上は、付随する緑地である青木島遊園地も存在し続けならなければならないことになります。
ところが 今回、青木島遊園地は廃止されようとしている。
で このことについて市は見解を示しているのですが、それが どうにも咬(か)み合っていないことになっているのです。
宅地等の開発の許認可を下(お)ろす建築指導課によると、この 開発に必須の「緑地」については 近接する小学校の校庭についても「緑地」とみなすことができるとのことなのです。
いわば拡大解釈と申せます。
確かに、青木島小学校の校庭は 当該の宅地の250m圏内にあり、立地上 また同法の解釈のうえでは成立することになります。
そのうえで 長野市は「この宅地の「緑地」については、青木島遊園地の代替として 青木島小学校の校庭を緑地として認める」との解釈を行なっているとのことでした。
で…この〝拡大解釈〟なのですが、そこには 解釈の成否を決める「所管課の判断」があることが知らされています。
長野市には、前述の「都市公園法」を補完するために「長野市開発許可審査基準」なるものが定められています。
そして その中で、前掲の拡大解釈(小学校々庭を公園(緑地)としてみなしたり 公園等を設置しないこと)の許可(同意)は、長野市公園管理者の同意が得られた場合とする とされているのです。
つまり 今回の問題についても、公園の所管である「公園緑地課」が 当該の宅地(開発)における〝緑地の拡大解釈〟について同意している。だから長野市として 青木島遊園地が廃止されても問題はない、という論理のようなのです。
ただ、この論理には 相当の無理があることが判ります。
側聞するに、市(公園緑地課)の判断は 青木島遊園地を宅地開発の緑地とみなす→その遊園地(=子どもの居場所)廃止→それを青木島小学校の校庭に代替→だから青木島小学校の校庭は青木島遊園地のなり替わり→だから(同義だから)青木島小学校の校庭は宅地開発の緑地とみなす、と取れるものですが、これって こじ付け以外の何ものでもないですよね。
またぞろ 子どもをダシに、行政ルール(の解釈)を野放図に広げてしまっている。
また「小学校の校庭は開発行為における緑地となり得る」の前例づくりは、市内の他の開発行為における〝抜け道〟ともなることが懸念されます。
小学校周辺の開発行為においては 軒並み〝緑地不要(校庭が代替する)〟との悪知恵を関係者に与えてしまうことになりはしないか。
また、聞けば 議会(委員会)で「判断から相当の年月が期間が経っているので 緑地の廃止は同意できる」との答弁がされたようですが、そんな〝ほとぼり冷めたら(緑地の)廃止もオッケイ〟などの判断がまかり通るとすれば、開発時点では緑地としておいて 数年経ったらそこに物件建設との〝時間差攻撃〟を認めることにもなりかねず、ここにも大きな矛盾が見えるところです。
さらに 国交省の別資料を見ると、確かに学校関係の土地を公園として適用することができるとありますが、それはあくまで「廃止した学校跡地」となっており、今回のように 現役の学校々庭を公園とみなすこと自体、無理があるといわざるを得ないでしょう。
・・・・・・。
大きな社会問題となっている「青木島遊園地廃止問題」は、これまでと別の視点においても 何とも言えない曖昧な中で疑問の対象となっているようです。
このことについては、関係者が相談した法曹界の人も関心を寄せており、判断によっては新たに大きな問題となるかもしれません。
いずれにしても 市に対しては、何らかの見解を求めてゆかなければならないでしょう。
「市長が謝ったからイイ」とか「もはや時間切れ」では済まされない〝膿(うみ)〟のような懸案をを孕(はら)んでいると申せます。
今や大きな社会問題となっている「青木島遊園地廃止問題」ですが、この件について 行政側が「これにて一件落着」を決め込もうとしている一方、本来の主役であるハズの市民側は これまでの経過における疑問点や不信感を未だ拭い去ることができずに、検証や改善を求める立場を守っています。
さきに荻原市長が いわば急転直下に「地主都合で廃止」を表明し「市長が廃止と言っているのだから仕方が無い」との悪しき機運を醸成しようしている中、遊園地…いわんや そこで遊ぶ子どもたちにこよなく思いを寄せる心ある市民の方々は「青木島遊園地の存続を願う地元住民有志の会」を設立したうえで、市の強引ともいえる(廃止に向けた)手法に疑問の声を上(あ)げ続けておられるのです。
現に、これまでの経過の中においては「公文書」とされる記録報告の内容が事実と異なっていたり、また この頃は、土地取引の経過という重要な場面を記(しる)した公文書が存在しないなどと 行政の職責にも悖(もと)るような対応を行なっていたことが露見するなど、不信が不信を呼ぶような状況に陥っており、慚愧(ざんき)に堪(た)えないところとなっています。
それらの実態を踏まえ「願う会」においては、去る16日に 改めて市(市長)に対し、青木島遊園地を廃止とした市(市長)の判断を撤回する要望書を提出、そこ(要望書の中)で これまでの市の取り組みにおける疑問点について質しています。
例えば 市が廃止を決めた6つの理由についても、その後の時間経過に伴い 廃止理由は事実上破綻しているにも関わらず、市は未だに〝片付け忘れた洗濯物のように〟市のHPに晒(さら)したままにしており、その理由はナゼ?、また、遊園地の代わりに小学校の校庭を利用させると言っておきながら 未だに実現していないのはナゼ?など、さまざまな疑問点がありながら 市はそれらに明確に答えないまま看過を許していることから、これら疑問点について検証と具体的対応を求めるとしております。
今後、何らかの手段をもって市の対応を求めるとのことでありますが、いずれにしても 何だかこのまま、3月議会終了→年度末 のドサクサ紛れに〝時間切れタイムアップ〟を狙っているかの済(な)し崩し姿勢だけは許してはならないとして、今後も関係者(市民側)は 子どもを思う心の火だけは消すこと無く、気強い姿勢で市と対峙してゆく決意を新たにしておられるのでした。
◇「長野市子ども議会」が行なわれる ~子どもの視点の鋭さに感服~
この日(24日)、毎年恒例となっている「長野市子ども議会」が行なわれ、参加した子どもたちから多様かつ〝鋭い〟質問や提案が出され、何というか目を覚(さ)ませられる思いがいたしました。
私は、第二部(長野市議会経済文教委員会(委員)との意見交換会)を傍聴させていただきました。
普段は〝大人議会〟の中で委員会審査を行なう委員会室に子どもも入室〝大人委員(議員)〟の横に座って 順番に意見を述べてゆきます。
それぞれの〝子ども委員〟は、事前に入念に意見をまとめ 緊張感とない交ぜになりながら、市政に向けた思いを述べてくれました。
で その発言内容は実に立派で、非常に当を得たものばかりでした。
・学校給食の試食イベントを行ない、給食への理解を深め ひいては食品ロスにつなげてはどうか
・市域内のゴミ削減に向け 新たな啓発活動を行なっては
・ゴミ集積所のカラス対策の推進(工夫)を
・天候に関係なく子どもが運動したり交流できる場所の確保を
・公民館を児童生徒に開放して学びや交流の場としてはどうか
・通学路の外灯のさらなる増設について
等々、単なる子どもの視点を超えた「市民の視点」で市行政を捉え建設的な意見を述べている姿には 感動すら覚えたところです。
これから成長し、いずれ長野市の将来を担ってくれる子どもたち。
先ずは その存在に感謝し、その無限の可能性が限りなく広がるよう支援してゆくことこそが、私たち大人の役目であると強く実感しました。
そのために何ができるか。
そのことを心に留(と)めつつ、日々に臨んでゆこうと思いを新たにいたしたところでありました。
そのうえで思うこと。
この日のように、将来を担う子どもらに活躍(発表)の場を供するのも長野市。
無垢(むく)な子どもの居場所(遊園地)を奪うのも長野市。
これは大きな行政矛盾ではないか、と。
長野市が 半ば強引に廃止を決めた青木島遊園地問題について、その経過の中で 実に残念なことに、さまざまな不透明な所作が見られることとなっています。
その(不透明な)数々については これまでも散々に亘り伝えられているところですが、こと ここに至って、行政の責務ともいえる事務手続きに大きな瑕疵(かし)があることが分かり、改めて問題視されることになってしまいました。
17日の報道で「長野市が廃止を決めた「青木島遊園地」を巡っては 地元の住民から存続を求める声が上がったため、1月下旬から先月下旬まで 市が地権者と借地契約の延長交渉を行なった際の、地権者とのやり取りが分かる「公文書」について、長野市は「該当する公文書は存在しない」と回答したのです。
その一方で市(所管課)は「職員の個人的なメモは残している」と答えています。
さらに その際「情報公開の対象となる公文書を作成しなかった理由は特に無いが 今のところ作成の予定も無い」とも話していることが明らかにされました。
このことについては、関係者はじめ 私自身も大きな疑問を抱きました。
(さきのブログでも触れていますが)この市(所管課)の行為は、実に〝あざとい手口〟を物語っていることを強く実感させられました。
取材に対し 市(所管課長)は「市職員が組織的に用いるため職務として作成 取得した文書で情報公開請求の対象となる「行政情報」としては保存していないが、経過を記録した職員の個人的なメモは存在する」と答えています。
ということは、経過を記録した「紙」は存在しているのです。
しかし、それはあくまで 職員の個人的なメモ であり、市職員が組織的に用いるため職務として作成 取得した文書で情報公開請求の対象となる「行政情報」ではない。
つまり 経過を記録した「紙」は、たとえ市民が ルールに基づいて情報公開請求しても(個人的なメモだから)公開する義務は生じない、という論法なのです。
だから、上司に対し 実際には「紙」で報告していたとしても、行政ルール上においては公文書は存在しないので「市長には口頭で報告している」で片付けられるのです。
まさに これは、行政事務(業務)において「公文書」を整備しなければならないルールを逆手に取ったあざとい手口、もっと言えば「禁じ手」と言わざるを得ません。
だから、マスコミが所管課に情報公開を求めても おそらく担当職員は「個人的なメモはあっても それはあくまで個人のもの。公文書は作成してないので、公開したくてもできないのです。」と 涼しいカオで答えたのでしょう。
こんなことがまかり通るとすれば、市行政の公正性は破綻してしまいます。
市にとって都合の悪いことは、公文書でなく「個人的なメモ」で残せ。そうすれば 記録は残るが、万一 情報公開請求という合法的手段で公開を求められても、その手から堂々と逃げることができるゾ。と。
この手があるゾ、と。
そうです。長野市は、昨年来の遊園地問題の中で 情報公開請求に直面したことを「学習」したのです。
それは、市民からの求めに 更に真摯に応えなければならないと学習したのではなく、どのように〝合法的に逃げるか〟を学習したのです。
いわば〝悪知恵〟をつけた、と言わざるを得ないところです。
このことについては、さきの3月市議会最終日の「討論」で、私の方からも厳しく意見しました。
[3/20 3月議会「討論」倉野 読み原稿]
さて、さきに述べたとおり、市は当初、遊園地の廃止の経過の中で、児童センター利用児童が恒常的に苦情者に迷惑をかけていることを公文書に記し、その間違いを指摘された際も「事実誤認でした」として、指摘にいわばフタをする格好でやり過ごしており、そのことからも「公文書とは一体なんぞや?」との疑問の声が上がったところですが、しかし、相変わらず公文書は 行政事業の中で大きなウェイトを占めています。現に、今でも遊園地問題の中で児童センター児童が受けたクレームの回数などは訂正されないまま公文書は未だに独り歩きしており、あたかもそれが正しいものであるかのように周知されることとなってしまっています。
そんな中、先日の報道で、児童センター児童が遊ぶ遊園地を巡り、地権者との交渉を記(しる)した記録を公文書として残していないことが明らかになり、驚きを隠せませんでした。そして、その一方で、一連の経過を記した 職員のメモは有るとのこと回答がされ、そこに本市の作為が垣間みられたところです。
私の周辺の識者の推察によると、おそらく土地交渉など際どいやり取りを公文書に残せば 後で情報公開請求された際に開示しなければならなくなるので、公文書としては残さないことにした。しかし、重要な案件だから口頭でのやり取りはできない。だったら あくまで個人のメモとして記録すれば「紙の資料」は残せるけれど、それは情報公開請求が出されても 出す義務は生じない。という論法ではないか。というものです。
公の者が、行政ルールを逆手に取って、その抜け道を使って情報公開の義務を逃れる行為。これは いわば禁じ手と言わざるを得ません。
これをヨシとして職員が合意の上で手を染めているとすれば、本市の将来は非常に危険なものになると言わざるを得ないでしょう。
おそらく、昨年の時点で、情報公開請求によって痛くもないハラを探られることになったことから、このことを学習し、その後の機微に触れる案件については、敢えて公文書として残らない手法を編み出したと思われるところですが、これでは向いている方向が違うと思います。
市民のあらぬ誤解を招いたことを真摯に受け止め、その後は正しい手順を踏んで情報公開に努めるどころか、ルールに則ったうえで 結果隠ぺいを図る行為。こんなことが今後もまかり通れば、市民に開かれた市政はほど遠いものになってしまいます。
この報道が事実とするならば、市民の心には、市に対する新たな疑念の雲が湧き上がったところでありましょう。
この場を借りて、このことについて市に猛省を求めるところです。
このことについて どのように市が受け止めたのかは知るところではありませんでしたが、22日に「長野市が地権者との交渉 一転公文書作成へ」の報道を耳にするに至りました。
報道の内容は下記のとおりです。
近隣住民の騒音への訴えをきっかけに長野市が廃止を決めた遊園地について、市は存続に向けて行なった地権者との交渉経過を公文書として残す予定はないとしていましたが、一転して、今後作成する方針を明らかにしました。
長野市が廃止を決めた青木島遊園地を巡っては、市が先月末まで地権者と借地契約の延長交渉を続けていました。
しかし その経過を記した公文書を作成しておらず、NHKの取材に対し今後も作成の予定がないと答えたことから、交渉経過の検証ができないと 市議会からも批判の声があがっていました。
この問題について、市の担当者は「交渉経過について早急な報告が必要だったため市長には口頭で報告していた」と説明したうえで、今後、公文書を作成する方針を明らかにしました。
そのうえで荻原市長は「当時は文書にまとめる余裕もなかったと思うが、行政が行なっていることを記録としてとどめることは必要だと思う。一連の市の対応を総合的に検証していくなかで、交渉記録の取り扱いについてもしっかり考えていきたい」と述べました。
一方で荻原市長は、公園廃止に向けた工事のスケジュールや、住民への今後の説明のあり方などについては、まだ決まっていないとしています。
長野市(所管課)は、報道ならびに議会側の正義に気圧(けお)される形で 渋々「公文書」を作成することになりました。
それまでは「公文書は無い。でもメモはある。記録はあくまでメモだから(情報)公開の義務は無いよ。」でシラを切り通すつもりでいたようです。
しかし、そうは問屋が卸しません。
22日の会見で、市長ならびに所管課は「交渉経過について早急な報告が必要だったため市長には口頭で報告していた」と答えていますが、その一方で職員の個人的なメモの存在は改めて認めました。
今後、市(所管課)は 一連のやり取りを巡る「公文書」を作成するようですが、その基(もと)となる資料は一体なに?
口頭で行なっていた内容の「記憶」を辿り、さらに職員の個人的なメモからなる「雑記」を重ねて〝公(おおやけ)の文書〟とするつもりなのでしょうか。
そして、そんな 継(つ)ぎ接(は)ぎだらけの書類が「公文書」として また独り歩きを始めるのでしょうか。
こんな展開のうえでの「公文書」が、果たして信頼にあたるものになるのか?
残念ながら 信頼に耐えないというのが私の感想で、それは 多くの市民が同様に思うことと拝察するところです。
その〝信頼に耐えないこと〟の理由は、この件について報じた信濃毎日新聞記事の後段に触れられていました。
公文書の(改めての)作成について触れた後、記者が 過去に地元住民有志が「遊園地(管理)愛護会」の設立に必要な書類交付を所管課に求めたところ「それは出せない」と断っていた事実を確認したところ、所管課長は「断ったわけではない」と主張したというのです。
このことについては 私も当事者(住民有志)に確認しましたが、市民の申し出に対し「現時点では出せない」と断られたことを聞いており、所管課の説明には明らかな食い違いがあります。
これは非常に残念なことでありますが、本件に関する市(所管課)の言い分には 矛盾や事実誤認があまりに多く、信任に耐えうる状況ではなくなっています。
そのうえでの「公文書は無い→作る予定は無い→やっぱり作る→でも その資料は、職員の(口頭での)記憶と 個人的なメモにある雑記」では、そこからできた公文書の信頼度は 限りなく低いと言わざるを得ないでありましょう。
またぞろ 市にとって都合の悪い内容は忘れたことにして記述(記録)せず、そのストーリーが市にとって都合のイイように作るんじゃないか。
もうこなれば、議会の議事録同様に「音声録音」を基に詳細を記するしかないのではないかと思わされるほど、信頼度の低くなった「公文書」の存在。
それもこれも、これまで18年に亘って行なってきた 関係者の所作の積み上げの結果(結末)であります。
一体 どのような公文書ができ上がってくるのかは知る由もありませんが、いずにしても スッキリとした気持ちで案件に向き合うことができないことは、残念に尽きないところであります。
◇感動のWBC ~そこから学んだこと~
今さら言うまでもなく、開催されたWBC(ワールドベースボールクラシック)は、侍ジャパンの優勝という感動のフィナーレで幕を閉じました。
この間、さまざまなドラマが生まれましたが、私は その中でも、準決勝のメキシコ戦が特に印象に残り さらに大きく学んだものでした。
4対5の劣勢で迎えた最終回、先頭打者の大谷翔平選手が右中間に好打を放つと、一塁を回る直前に自らヘルメットを脱ぎ捨て、2塁に激走しました。
その後、二塁ベースに仁王立ちとなった大谷選手は 自軍のベンチに向かって大きく手を挙げ「カモーン!」と鼓舞したのでした。
この大谷選手の姿に 侍ジャパンナインも大きな力を得たのでしょう、それまで不信を極めていた村上選手が左中間にサヨナラ打を放ったのでした。
まさに 起死回生の一発を呼び込んだ、最終回の大谷の全力プレーだったのでした。
試合後に大谷選手は「最後まであきらめない、その気持ちだけ」と シンプルに心境を吐露し、その純粋な心根のままにピッチを躍動したことが伝えられていました。
さまざまな困難な状況に陥っても、最後まであきらめるな。
私たちの社会生活にも通じる「メイク ドラマ」だったのでした。
3月市議会定例会は20日、総額1,611億円のR5(2023)年度一般会計当初予算案など予算関係23議案、条例関係12議案など、市側から提出...
3月市議会定例会は20日、総額1,611億円のR5(2023)年度一般会計当初予算案など予算関係23議案、条例関係12議案など、市側から提出...
3月20日(月)、長野市議会 令和5年3月定例会は最終日を迎え、市提出の令和5年一般会計予算案など48議案が採決に付され可決成立しました。
採決に先立ち、各常任委員会の委員長報告が行なわれ、私は、採決の前に「討論」で登壇しました。
討論の主旨は、社会問題ともなっている「青木島遊園地問題」に鑑(かんが)み、改めて市の姿勢に意見を述べた内容です。
今議会提出の議案第1号・令和5年長野市一般会計予算のうち、福祉環境委員会所管の児童福祉費のうち、放課後子ども総合プラン推進事業に関する報告について討論を行ないました。
委員会においては、新年度における放課後子ども総合プランの予算が計上されましたが、新年度事業の前に、その前提となる 今年度ならびにそれ以前の事業執行の状況を検証すべきであります。
その 検証すべき経年の行政事業(対応)は、言うまでもなく「青木島遊園地」の存廃を巡る一連のプロセスであり、その(プロセス)中で大きな問題があったことが指摘され続けたこと、そして その取り組み経過が、ひいては新年度以降の市政運営全体にも大きな懸念材料となることが明らかになったことから、その点への指摘も含めて討論いたしました。
以下、討論の全文です。
すでにご案内のとおり、青木島児童センターについては、隣接する青木島遊園地を利用する児童が発する「音」などの行為が、周辺に暮らす一部の世帯の苦情の対象になり、それが いつの間にか遊園地そのものを廃止に追い込む要因とされてしまいました。
このことについては、所管課が苦情に対する初期対応を見誤り、あげく それを遊園地の利用自粛という、他でもない児童センターの利用児童へしわ寄せする形となる場当たり対応に終始し、あげく最終的には遊園地の廃止という、最悪かつ市にとって最も安易な方向へ舵を切ることになってしまいました。
しかし実際には、児童センターの児童に向けられた苦情は1回限りでありました。にも関わらず、市の残した公文書には、恒常的に児童が迷惑をかけ問題を大きくしたかのような事実と異なる報告が上げられており、罪も無い児童センターの利用児童が責任を負わされる形になっていることは遺憾の極みであります。
ここには、センター利用の児童不在のまま、当初は住民の側に立ち、市への返還に難色を示していた地権者を説得してまで廃止を推し進め「廃止ありき」で事態の終結を図った市の悪しき姿勢が顕著に表れています。
これまでの市の対応、最終的に、児童センター児童に遊ぶ権利がある遊園地を、廃止ありきで突き進んだプロセスについて大きな問題があったと言わざるを得ません。
ここでさらに問題なのが、苦情者への初期対応が所管課のみで行なわれたことです。
今回の苦情問題は、騒音の問題と言うより いわゆる煩音(はんおん)の問題であり、その対応は、所管の公園緑地課だけが矢面に立つべきではありませんでした。
問題が発生した初期のうちに、所管課はもとよりこども政策課や地元区長会をはじめ地元住民を交えて、先ずは横断的に話し合いの場を持つべきであり、このことを抜きにして公園緑地課だけが対応に臨んだことが、偏った答えを導き出す要因になってしまったことは残念でなりません。
一つの課題が生じた際には、早期に横断的に対応すべきであることを指摘するところです。
さて、さきに述べたとおり、市は当初、遊園地の廃止の経過の中で、児童センター利用児童が恒常的に苦情者に迷惑をかけていることを公文書に記し、その間違いを指摘された際も「事実誤認でした」として、指摘にいわばフタをする格好でやり過ごしており、そのことからも「公文書とは一体なんぞや?」との疑問の声が上がったところですが、しかし、相変わらず公文書は 行政事業の中で大きなウェイトを占めています。現に、今でも遊園地問題の中で児童センター児童が受けたクレームの回数などは訂正されないまま公文書は未だに独り歩きしており、あたかもそれが正しいものであるかのように周知されることとなってしまっています。
そんな中、先日の報道で、児童センター児童が遊ぶ遊園地を巡り、地権者との交渉を記(しる)した記録を公文書として残していないことが明らかになり、驚きを隠せませんでした。そして、その一方で、一連の経過を記した 職員のメモは有るとのこと回答がされ、そこに本市の作為が垣間みられたところです。
私の周辺の識者の推察によると、おそらく土地交渉など際どいやり取りを公文書に残せば 後で情報公開請求された際に開示しなければならなくなるので、公文書としては残さないことにした。しかし、重要な案件だから口頭でのやり取りはできない。だったら あくまで個人のメモとして記録すれば「紙の資料」は残せるけれど、それは情報公開請求が出されても 出す義務は生じない。という論法ではないか。というものです。
公の者が、行政ルールを逆手に取って、その抜け道を使って情報公開の義務を逃れる行為。これは いわば禁じ手と言わざるを得ません。
これをヨシとして職員が合意の上で手を染めているとすれば、本市の将来は非常に危険なものになると言わざるを得ないでしょう。
おそらく、昨年の時点で、情報公開請求によって痛くもないハラを探られることになったことから、このことを学習し、その後の機微に触れる案件については、敢えて公文書として残らない手法を編み出したと思われるところですが、これでは向いている方向が違うと思います。
市民のあらぬ誤解を招いたことを真摯に受け止め、その後は正しい手順を踏んで情報公開に努めるどころか、ルールに則ったうえで 結果隠ぺいを図る行為。こんなことが今後もまかり通れば、市民に開かれた市政はほど遠いものになってしまいます・。
この報道が事実とするならば、市民の心には、市に対する新たな疑念の雲が湧き上がったところでありましょう。
この場を借りて、このことについて市に猛省を求めるところです。
また「熟考の末」として、市長ご自身が、裏で地権者との交渉の事実を知りながら「フラットな気持ちで」として開いた住民説明会で「廃止のままでいくのはどうか」と、実質廃止見直しを匂わせたあげく「遊園地廃止」を明言したことには、地元住民はもとより多くの市民が落胆したところですが、そのことに付随して突然持ち出された「青木島児童センターの校内移転案」は、児童センター利用児童はもとより、保護者やセンター職員、さらに学校関係者にまで驚きをもって伝えられ、その早期の実行性について疑問符が投げかけられることになりました。
さきの本会議や福祉環境委員会においても、多くの住民の反対を押し切ってまで進めることになった遊園地廃止と児童センター移転案は、市長の述べた「オギワラビジョン」のアドバルーンの大きさに比して現場は「全くこれから」の感、今の子どもたちに直ちに快適な環境を提供するにはほど遠いものであることが明らかになっています。
本来であれば、青木島遊園地を当面の間は存続し、その間に、児童数の変遷に応じて校内移転に向けた長期計画を立てるべきところ、市は、青木島児童センターや小学校の現状を度外視した形でビジョンを強行しようとしています。
繰り返せば、その間、他でもなく不自由を強いられるのは児童センターを利用する子どもたちなのです。この、目の前にある子どもの快適な居場所確保対応については、今のところ何の具体策も示されていません。
さきの福祉環境委員会の審査においても「すぐには児童センターの移転は難しい」との答弁でありました。それなのに、市長はじめ市は拙速に移転計画を進めようとしている。このことについて一日も早い説明責任を果たす責務があると申せます。
また、側聞するところによると、新たな児童センターの計画などについて、先んじて区長会に説明を始めているようですが、またも、そこには関係者や住民が不在のまま。いわば結果ありきの説明プロセスが進められているようです。
さきに述べたとおり、過去における児童センターや遊園地を巡る諸問題において、市は、住民や関係者不在のまま事(こと)を進めて失敗を招いた経験値があったハズです。
なのになぜ、また同じことを繰り返すのでしょう。
新たな児童センター等の事業計画も、区長会のみと話しを進め、いずれ「既に区長会でご理解をいただいています」として、結果のみを住民周知し、否応なしに住民を納得、いや諦めさせるのでしょうか。
昨年来、このような手法は決して好ましいものではないと強烈な体験を経ながら なお同じ轍を踏もうとしている状況は、とても理解できるものではありません。
一連の本市の市民対応は、ひいては今後の荻原市政そのものの評価につながると申せます。
手続きだけはルールに則っている形式は保ちながら、実質的には結果ありき・事後報告のスタイルを続けていれば、やがて荻原市政に対する不信感は風船のように膨らみ、やがて破裂することも無いとは言えません。
市行政を進めるうええでの有るべき姿勢・住民自治協議会と、その先におられる市民との関係・合意形成の取り方・問題が発生したときの初期対応の在り方や庁内連携の在り方等々、実に多くの課題を投げかけることになりました。
今回の件を踏まえ、総論・各論に至るまでつぶさに検証し、内省を進めること、もとより本議案においては放課後児童の快適な居場所づくりについて、これ以上子どもたちに我慢を強いることの無いよう強く意見し、討論といたします。
今回の「青木島遊園地廃止問題」は、このことだけに止(とど)まらず 長野市の体質そのものを炙(あぶ)り出すこととなりました。
ある事業を「仕上げる」ために、市(市長はじめ職員)が どのような価値観で(事業に)臨み、最終的に何を守ろうとして行動するのか(したのか)。
いわんや、この度の長野市(市長はじめ職員)の行動(取り組み)は、先ず保身・その次には 予め設定した結論にむけての辻褄(つじつま)合わせ(=〇〇ありき)・その後は 事(こと)の責任の矢を自らに向けないよう〝責任の所在づくり〟・後に証拠(公文書)の開示を求められても逃げられる〝個人のメモ対応〟等々、市行政の全般に亘る問題や、今後の市政運営への懸念が増幅されることとなったことを実感させられます。
この 悪しき様態を変える(そうさせない)ためには、相当のチェック体制(態勢)が求められてくる→いわんや 議会(議員)の役割が益々大きくなってくことが実感されたところです。
心の拳(こぶし)に力が入ります。
自らの職責を果たすべく頑張ってゆこう。
改めて心にいたしたところであります。
3月20日(月)、長野市議会 令和5年3月定例会は最終日を迎え、市提出の令和5年一般会計予算案など48議案が採決に付され可決成立しました。
採決に先立ち、各常任委員会の委員長報告が行なわれ、私は、採決の前に「討論」で登壇しました。
討論の主旨は、社会問題ともなっている「青木島遊園地問題」に鑑(かんが)み、改めて市の姿勢に意見を述べた内容です。
今議会提出の議案第1号・令和5年長野市一般会計予算のうち、福祉環境委員会所管の児童福祉費のうち、放課後子ども総合プラン推進事業に関する報告について討論を行ないました。
委員会においては、新年度における放課後子ども総合プランの予算が計上されましたが、新年度事業の前に、その前提となる 今年度ならびにそれ以前の事業執行の状況を検証すべきであります。
その 検証すべき経年の行政事業(対応)は、言うまでもなく「青木島遊園地」の存廃を巡る一連のプロセスであり、その(プロセス)中で大きな問題があったことが指摘され続けたこと、そして その取り組み経過が、ひいては新年度以降の市政運営全体にも大きな懸念材料となることが明らかになったことから、その点への指摘も含めて討論いたしました。
以下、討論の全文です。
すでにご案内のとおり、青木島児童センターについては、隣接する青木島遊園地を利用する児童が発する「音」などの行為が、周辺に暮らす一部の世帯の苦情の対象になり、それが いつの間にか遊園地そのものを廃止に追い込む要因とされてしまいました。
このことについては、所管課が苦情に対する初期対応を見誤り、あげく それを遊園地の利用自粛という、他でもない児童センターの利用児童へしわ寄せする形となる場当たり対応に終始し、あげく最終的には遊園地の廃止という、最悪かつ市にとって最も安易な方向へ舵を切ることになってしまいました。
しかし実際には、児童センターの児童に向けられた苦情は1回限りでありました。にも関わらず、市の残した公文書には、恒常的に児童が迷惑をかけ問題を大きくしたかのような事実と異なる報告が上げられており、罪も無い児童センターの利用児童が責任を負わされる形になっていることは遺憾の極みであります。
ここには、センター利用の児童不在のまま、当初は住民の側に立ち、市への返還に難色を示していた地権者を説得してまで廃止を推し進め「廃止ありき」で事態の終結を図った市の悪しき姿勢が顕著に表れています。
これまでの市の対応、最終的に、児童センター児童に遊ぶ権利がある遊園地を、廃止ありきで突き進んだプロセスについて大きな問題があったと言わざるを得ません。
ここでさらに問題なのが、苦情者への初期対応が所管課のみで行なわれたことです。
今回の苦情問題は、騒音の問題と言うより いわゆる煩音(はんおん)の問題であり、その対応は、所管の公園緑地課だけが矢面に立つべきではありませんでした。
問題が発生した初期のうちに、所管課はもとよりこども政策課や地元区長会をはじめ地元住民を交えて、先ずは横断的に話し合いの場を持つべきであり、このことを抜きにして公園緑地課だけが対応に臨んだことが、偏った答えを導き出す要因になってしまったことは残念でなりません。
一つの課題が生じた際には、早期に横断的に対応すべきであることを指摘するところです。
さて、さきに述べたとおり、市は当初、遊園地の廃止の経過の中で、児童センター利用児童が恒常的に苦情者に迷惑をかけていることを公文書に記し、その間違いを指摘された際も「事実誤認でした」として、指摘にいわばフタをする格好でやり過ごしており、そのことからも「公文書とは一体なんぞや?」との疑問の声が上がったところですが、しかし、相変わらず公文書は 行政事業の中で大きなウェイトを占めています。現に、今でも遊園地問題の中で児童センター児童が受けたクレームの回数などは訂正されないまま公文書は未だに独り歩きしており、あたかもそれが正しいものであるかのように周知されることとなってしまっています。
そんな中、先日の報道で、児童センター児童が遊ぶ遊園地を巡り、地権者との交渉を記(しる)した記録を公文書として残していないことが明らかになり、驚きを隠せませんでした。そして、その一方で、一連の経過を記した 職員のメモは有るとのこと回答がされ、そこに本市の作為が垣間みられたところです。
私の周辺の識者の推察によると、おそらく土地交渉など際どいやり取りを公文書に残せば 後で情報公開請求された際に開示しなければならなくなるので、公文書としては残さないことにした。しかし、重要な案件だから口頭でのやり取りはできない。だったら あくまで個人のメモとして記録すれば「紙の資料」は残せるけれど、それは情報公開請求が出されても 出す義務は生じない。という論法ではないか。というものです。
公の者が、行政ルールを逆手に取って、その抜け道を使って情報公開の義務を逃れる行為。これは いわば禁じ手と言わざるを得ません。
これをヨシとして職員が合意の上で手を染めているとすれば、本市の将来は非常に危険なものになると言わざるを得ないでしょう。
おそらく、昨年の時点で、情報公開請求によって痛くもないハラを探られることになったことから、このことを学習し、その後の機微に触れる案件については、敢えて公文書として残らない手法を編み出したと思われるところですが、これでは向いている方向が違うと思います。
市民のあらぬ誤解を招いたことを真摯に受け止め、その後は正しい手順を踏んで情報公開に努めるどころか、ルールに則ったうえで 結果隠ぺいを図る行為。こんなことが今後もまかり通れば、市民に開かれた市政はほど遠いものになってしまいます・。
この報道が事実とするならば、市民の心には、市に対する新たな疑念の雲が湧き上がったところでありましょう。
この場を借りて、このことについて市に猛省を求めるところです。
また「熟考の末」として、市長ご自身が、裏で地権者との交渉の事実を知りながら「フラットな気持ちで」として開いた住民説明会で「廃止のままでいくのはどうか」と、実質廃止見直しを匂わせたあげく「遊園地廃止」を明言したことには、地元住民はもとより多くの市民が落胆したところですが、そのことに付随して突然持ち出された「青木島児童センターの校内移転案」は、児童センター利用児童はもとより、保護者やセンター職員、さらに学校関係者にまで驚きをもって伝えられ、その早期の実行性について疑問符が投げかけられることになりました。
さきの本会議や福祉環境委員会においても、多くの住民の反対を押し切ってまで進めることになった遊園地廃止と児童センター移転案は、市長の述べた「オギワラビジョン」のアドバルーンの大きさに比して現場は「全くこれから」の感、今の子どもたちに直ちに快適な環境を提供するにはほど遠いものであることが明らかになっています。
本来であれば、青木島遊園地を当面の間は存続し、その間に、児童数の変遷に応じて校内移転に向けた長期計画を立てるべきところ、市は、青木島児童センターや小学校の現状を度外視した形でビジョンを強行しようとしています。
繰り返せば、その間、他でもなく不自由を強いられるのは児童センターを利用する子どもたちなのです。この、目の前にある子どもの快適な居場所確保対応については、今のところ何の具体策も示されていません。
さきの福祉環境委員会の審査においても「すぐには児童センターの移転は難しい」との答弁でありました。それなのに、市長はじめ市は拙速に移転計画を進めようとしている。このことについて一日も早い説明責任を果たす責務があると申せます。
また、側聞するところによると、新たな児童センターの計画などについて、先んじて区長会に説明を始めているようですが、またも、そこには関係者や住民が不在のまま。いわば結果ありきの説明プロセスが進められているようです。
さきに述べたとおり、過去における児童センターや遊園地を巡る諸問題において、市は、住民や関係者不在のまま事(こと)を進めて失敗を招いた経験値があったハズです。
なのになぜ、また同じことを繰り返すのでしょう。
新たな児童センター等の事業計画も、区長会のみと話しを進め、いずれ「既に区長会でご理解をいただいています」として、結果のみを住民周知し、否応なしに住民を納得、いや諦めさせるのでしょうか。
昨年来、このような手法は決して好ましいものではないと強烈な体験を経ながら なお同じ轍を踏もうとしている状況は、とても理解できるものではありません。
一連の本市の市民対応は、ひいては今後の荻原市政そのものの評価につながると申せます。
手続きだけはルールに則っている形式は保ちながら、実質的には結果ありき・事後報告のスタイルを続けていれば、やがて荻原市政に対する不信感は風船のように膨らみ、やがて破裂することも無いとは言えません。
市行政を進めるうええでの有るべき姿勢・住民自治協議会と、その先におられる市民との関係・合意形成の取り方・問題が発生したときの初期対応の在り方や庁内連携の在り方等々、実に多くの課題を投げかけることになりました。
今回の件を踏まえ、総論・各論に至るまでつぶさに検証し、内省を進めること、もとより本議案においては放課後児童の快適な居場所づくりについて、これ以上子どもたちに我慢を強いることの無いよう強く意見し、討論といたします。
今回の「青木島遊園地廃止問題」は、このことだけに止(とど)まらず 長野市の体質そのものを炙(あぶ)り出すこととなりました。
ある事業を「仕上げる」ために、市(市長はじめ職員)が どのような価値観で(事業に)臨み、最終的に何を守ろうとして行動するのか(したのか)。
いわんや、この度の長野市(市長はじめ職員)の行動(取り組み)は、先ず保身・その次には 予め設定した結論にむけての辻褄(つじつま)合わせ(=〇〇ありき)・その後は 事(こと)の責任の矢を自らに向けないよう〝責任の所在づくり〟・後に証拠(公文書)の開示を求められても逃げられる〝個人のメモ対応〟等々、市行政の全般に亘る問題や、今後の市政運営への懸念が増幅されることとなったことを実感させられます。
この 悪しき様態を変える(そうさせない)ためには、相当のチェック体制(態勢)が求められてくる→いわんや 議会(議員)の役割が益々大きくなってくことが実感されたところです。
心の拳(こぶし)に力が入ります。
自らの職責を果たすべく頑張ってゆこう。
改めて心にいたしたところであります。
昨日(3/20)、長野市議会3月定例会が議了となりました。今定例会に上程された議案については全て可決され、新年度に向けた準備が加速していきます。
まず、私は、担当している常任委員会(総務委員会)及び、本日の本会議においても請願2件を除く議案については賛成をいたしました。
特に、新年度予算に関しては、本会議において賛成討論を行いました。新年度予算案への討論は、令和3年度予算一般会計予算案への賛成討論を行って以来、2度目となります。作成いたしました原稿を掲載いたします。
17番、改革ながの市民ネット 鈴木洋一でございます。
議案第1号、令和5年度長野市一般会計予算について、賛成の立場から、討論を行います。
令和5年度予算案は、「未来の担い手を支える子育て・教育・若者の活躍」、「未来の経済基盤を確かなものにする新産業創造へのチャレンジ」、「商工業や農業などの産業の振興による地域経済の成長」、「未来を切り拓くスポーツの力」の4つの柱に加え、東日本台風災害からの復興や、新型コロナウイルス、物価高騰、公共施設長寿命化対策に重点配分されたもので、大いに期待します。
その上で、何点か、更なる取り組み強化について、申し上げます。
はじめに、市民が主役のまちづくりの推進について、地域市民生活部の企画政策費、地域振興費等は、住民主体で持続可能なまちづくりを進めていく上で、重要な予算です。
他方、総務委員会委員長報告にあったように、住民自治協議会の運営にあたっては、負担感が増してきている状況への対策が求められているとともに、市の政策決定に繋がる重要な案件に係わる情報の提供方法等、庁内はもちろん、住民自治協議会と連携の図り方を再構築し、プロセスへの疑念が生じることが決してないような手法を早急に整えたうえで、各地域が直面している諸課題の解決に向けた積極的な取り組みが必要ではないでしょうか。
次に、治水対策についてです。新年度予算では、排水機場整備事業、令和元年東日本台風災害関連復興道路整備事業、信濃川水系緊急治水対策事業、河川水路改修事業に加え、公共施設や住宅などへの貯水施設等、市民も参加して流域全体で取り組むための予算が措置されています。
これらは重要な措置ですが、これまでの定例会一般質問において、取り上げましたが、流域治水に関しては更なる強化が必要だと考えます。
本市は、昭和62年に「総合治水計画」を策定し、現在、国が積極的に推進している流域治水対策を先取りし、個人住宅、アパート、工場、倉庫、店舗及び民間駐車場に対し、建築、改築を問わず雨水貯留及び浸透施設設置を要請してきましたが、道半ばで終わっています。
今回の流域治水については、本市として出来ることはすべてやりきる、という強い信念のもと、例えば、民間の大型駐車場等を雨水貯留浸透施設として位置づけ、雨水の貯留及び浸透の能力を上げ、雨水をできるだけ河道に流出させない流出抑制対策を講じていくこと等により、流域治水対策の更なる強化への取り組みが求められています。
加えて、信濃川水系緊急治水対策プロジェクトで示されている、ため池等既存施設の有効活用や田んぼダムを活用した雨水貯留機能の確保等を強力に進め、地域住民の生命と財産を守り抜くという行政の基本使命に基づいた能動的に取り組むべきです。
そして、「農業振興」です。私が、本定例会個人質問で予定していた項目であります。諸事情により、本会議場での議論が出来ませんでしたので、この場で述べさせていただきます。
本市の基幹産業である農業は、多面的機能を持つ社会的共通資本であり、集積・集約による効率化だけを目指すのではなく、行政が責任を持ち、農業者全体の所得増に向けて、積極的に取り組むべきです。
新年度の取り組みでは、ワイナリー施設整備事業補助金を新設し、農業機械化補助金、松くい虫被害木処理事業、農業者育成事業等が拡大され、農林業費全体では、5000万円増額の23.4億円となっており、農業委員会は大きな期待を寄せていました。
他方、長野市農業を支える多くの農業従事者に対する視点はどうなっているのか。いささか、物足りなさを感じます。
長期戦略2040は、現状と課題の項で、「果樹は機械化が難しく経営の規模拡大が困難、零細農家が多いことも後継者不足の一因」とまとめているが、その通りであります。これに対する手立てが十分とは言えないのでは、と受け止めています。
昨年12月定例会で指摘しましたが、本市の農業経営体4、214のうち、90%を500万円未満の経営体が占め、更に、100万円未満の経営体は2、340と全体の55.6%を占めています。
新年度予算は、認定農業者や大規模農家への支援が中心となっており、多くの農業者に行き届く支援とはなっていないのではないでしょうか。
国の「食料・農業・農村政策審議会」は、大規模農家を軸とした農政から、家族経営を含む多様な担い手が地域の農業と農地を維持し、地域の活性化に寄与する農政への転換について議論しています。より多くの農業者に支援が行き渡る施策を講じるとの発想を持ちながら、取り組むべきであります。
最後に、多くの市民の皆様から、新型コロナウイルス感染拡大、物価高騰等による生活の厳しさや台風災害からの持続可能な地域づくりの難しさ等、将来への不安の声を耳にします。その背景には、人口減少、少子超高齢社会の進展、更に、社会保障や財政状況の厳しさ、そして、気候変動という深刻な課題が顕在化しているからだと考えます。
新年度予算に求められているのは、市民生活の安定を確保するとともに、長期的な課題に取り組むことにより、不安を解消し、多くの市民が幸福を実感することに直結することだと考えます。
令和5年度が、市長のリーダーシップの下、本市が目指している「幸せ実感都市ながの」へと、更に前進することを切に願い、賛成討論といたします。
以上です。
2023年(令和5年)の幕が開け、早いもので3か月が経過しようとしていますが、本年の干支は卯年です。更に、卯年の中にあって「癸卯(みずのとう)」という年になります。ネットで調べてみますと、「「癸(みずのと)」は十支の最後にあたるため、物事の終わりと始まりを意味すると考えられる。
「卯(う)」はウサギを示し、元気に跳ねることから飛躍や向上を意味する。この二つが掛け合わさった「癸卯(みずのとう)は、「種がエネルギーを貯めて発芽し、芽吹き、グングンと成長して実り始める」いくような年になると考えられている」と言われています。そんな令和5年度とすべく、私も全力を尽くしてまいります。