今や大きな社会問題にまで発展した、長野市の「青木島遊園地廃止問題」ですが、これまでもレポートさせていただいているとおり さまざまな変遷を辿る中、ひとつのエポックメイキングになるか?という〝新たな流れ〟がみられました。
長野市トップの荻原健司市長が1日の定例記者会見で、この問題について「周辺住民を対象とした説明会を今月11日に開き、そして 私(市長)も出席して 地域住民の皆さんの意見をお聞きしたい。」と述べたことが報じられたのです。
この日の会見で荻原市長は、去る1/25に周辺区長10人と懇談し 意見交換を行なったとしたうえで「(区長たちは)反響が大きいことに困惑している様子だった。」とし、廃止の決定については「基本的には維持されている」としながらも「区長さんからの話をお聞きし 11日にも(地域住民の)話を聞いた上で判断したい。まずは地域の皆さんの声を受け止めたい。」と述べたとのことです。
これまで荻原市長は「18年間の経緯」を理由に いわば表(おもて)に立つことに消極的であるように見られていました。
去る12/12の定例会見では「青木島遊園地については、地元の皆さまが18年間という長期間に及び いろいろ意見を調整された結果として、地元区長会から廃止要望がなされた。そういった経緯を踏まえて、私としては 手続きを踏ませていただくということである。」と述べたうえで「地域の皆さまの声をしっかり受け止めて、私自身も大変苦しい判断ではあるが 手続きを進めさせていただく。」としていました。
さらに「今回 地元の皆さまから寄せられたご要望というのは、長い期間をかけて地域の皆さまが意見を聞いて それが集約された結果だと思っている。地域の皆さまの声を聞く、受け止めるという経緯は十分あったと私は考えている。」と述べています。
一方で「過去に戻ることはできないが、しっかりと地域の皆さまの意見を集約し、合意形成がきちんとなされているのか否かということを確認する必要がある。今後、一つの教訓として胸に刻んでおきたいと思う。」とし、さらに「地域の合意形成ということは非常に大切なことだということを、今回のケースのみならず、常々感じている。地域コミュニティの中で、どうコミュニケーションを重ねていくのか、顔の見える直接的な対話のつくり方の重要性を感じている。」と述べていました。
これまでもレポートしているように、今回の「青木島遊園地廃止問題」については、住民要望によって設置された遊園地が 一部の世帯からの苦情に端を発し、その利用について著しい制限が加えられるなどする中、苦情対応についても(市が)右往左往することになり、あげく長い期間を経たうえで 結局区長会からの〝廃止要望〟によって「遊園地廃止」が決定されることになっています。
ところが、廃止が表(おもて)に出ることになって以降、これまで「民意」とされてきた地元住民の合意形成が 決して一枚岩ではなかったことや、市が掲げる「廃止の根拠となる6つの理由」についても相当な無理があることが指摘されたり、何より 多くの地元住民が遊園地の存続を願っていることが改めてクローズアップされたことから、市(市長)の言う「長い期間をかけて地域の皆さまが意見を聞いて それが集約された結果だ」という(廃止の)論拠そのものが揺らいできていることは ご案内のとおりです。
これまで荻原市長は、口調こそ丁寧であったものの あくまで〝既定路線〟を守る方針を貫いてきました。
おそらく その根拠には「担当職員からの説明(報告)」があると思います。
と いうのも、荻原市長は 昨年11月に当選したばかりの〝新人市長〟であり、今回の「青木島遊園地問題」についても その経緯…ましてや18年前に何があったかなど知る由もなかったことでしょう。
そうなると、彼にとっての情報ツールは「担当職員からの説明(報告)」に他ならないところであり、で その説明自体が「斯く斯く云々(かくかくしかじか)で問題ありません。」というものであれば「分かった。」というのが前提となるのは やむを得ないと申せます。
しかし そのうえで、社会通念上または市長ご自身の感性の中で「おかしい」と感じることがあれば そこは指摘して掘り下げるべきでありましょうし、ましてや今回の場合は「遊園地存続を!」と願う市民の声が日増しに高まっていることから、これまでの市(職員の)報告を鵜呑みにすることはできないだろう と、私の立場でも思うところです。
で そのことにダメを押したのが、さきに行なわれた区長会との会談であったようです。
これまでの 市(職員)の説明によれば、区長会は一致して 市に遊園地廃止を〝要望〟したとされていましたが、市長が実際に区長会に足を運んでみると 区長の中にも遊園地存続…そこまでゆかないまでも「改めて住民の声を聞いて 場合によっては再考すべき」との声も上げられたとのこと、このこと一つ取ってみても 今までの報告で「了」とはできないことに(市長自身)気づいたのかもしれません。
(このことは 1日会見での「(区長たちは)反響が大きいことに困惑している様子だった。」との市長発言にも表れています)
これまでは、市(職員)の敷いたレールの上を走っていたが、周囲の様子や乗客の反応が 言われていた中身と違う…であるとするならば、今回は自分の意思でポイント(分岐器)を切り替えて乗客の望む路線に変更しよう。
そう英断されるとすれば、これは多くの世論に叶った判断といえるでありましょう。
そのうえで 来る2・11の住民説明会は、どのような目的で行なわれるのか・集会で何を得ようとしているのか が注目されるところです。
これまでの既定路線を頑(かたく)なに守り「住民の声を聞く」としながらも、それはいわば〝ガス抜き〟に終始し、結局は遊園地廃止の方向に進むのか。
それとも、集会で出された〝住民の声〟を真摯に受け止め、市長たる自身の考えに基づき然るべき判断を下すのか。
1日の会見で荻原市長は「住民の声を直接聞き、なるべく多くの判断材料を集めたい。」とした一方、方針を覆す可能性については「何か心の中に持っているわけではない」「答えるのは難しい」などとするにとどめたうえで「最終的には 市長たる私が決める。」旨を述べていたとのことです。
おそらくは、遊園地の存続を願う市民(住民)のみなさんは 荻原市長の来訪を歓迎したうえで、自分たちの「思い」を率直に訴えることでありましょう。
それら「心からの声」に 荻原市長がどう応えるか。
一連の経過によって、内外の評価が失墜した(しつつある)長野市です。
それらを踏まえ、来る集会での市長対応は、この遊園地問題に止(とど)まらず 長野市全体の今後の評価にも関わってくる 一大関心事となってくるのは必定です。
そして何より、行政体のリーダーとして 多くの市民の願いを敏感に感じ取り、それを政策反映するスキルがあるかどうか…問われることは多いと申せます。
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長野市における「青木島遊園地廃止問題」は、今や全国的な社会問題にも発展することになっています。
今回の騒動の発端ともなったのが、遊園地の近隣に暮らす住民(Aさん世帯)が 遊園地を取り巻く環境下で発せられる〝音〟について「うるさい」と苦情を述べた(発信した)ことであることは周知のところです。
遡ること18年前に この「青木島遊園地」が住民要望によって設置され、爾来 隣接する児童センターの利用者(児童)や、保育園の園児の居場所(遊び場)として活用されることとなっていました。
しかし そんな中、遊園地設置後ほどなくして 近隣に住むAさん世帯から「うるさい」との苦情が寄せられるようになりました。
で、この苦情に対し 市は(これまでもレポートしているとおり)いわば対処療法的な〝その場しのぎ的対応〟に終始、結果 問題を引きずったまま時間ばかりを経過させてしまったうえ、あげく此度(こたび)の「唐突な施設廃止判断」に至ってしまったものであります。
今回の案件は、遊園地に絡む〝音による被害問題〟と位置づけられています。
そんな中で、いったい どの「音」が問題とされたのか?そして どの程度の「音量」が問題とされたのか?が話題(問題)となり、そのうえで「〝うるさい〟との苦情への対処の仕方」が やはり話題(問題視)される(された)ことになっています。
苦情の発端となった〝音の種類〟については、遊園地で遊ぶ児童や園児が上げる声・敷地内を走り回ったりする際に生じる様々な音・子どもを指導する大人の声、さらには 児童を迎えに来た保護者が乗ってきたクルマのエンジン音やドアの開閉音・大人同士や親子間の会話等々 多岐に亘るものであることが伝えられています。
そして 次に問題となっているのが、今回 被害を受けたとされる様々な「音」について、その大きさの程度(音量)です。
Aさん世帯が「うるさい」とされる「音の〝大きさ〟」については、どの程度の音量をもって「うるさい」と認定できるのか(またはできないか)が 重要かつ難しい作業となっています。
いわゆる〝騒音〟については、国・県・市ごとに一定のルールが定められています。
国(環境省)においては「騒音規制法」があります。
この法律は「工場及び事業場から発生する騒音・振動を規制し、騒音・振動の防止対策を推進する法律」で「法で定める特定施設を設置する工場及び事業場から届出を義務づけ、規制基準を設け、著しい騒音振動を発生させる建設作業等を特定建設作業として届出を義務づけ、規制基
準や作業時間制限を設ける」となっています。
長野県では「良好な生活環境の保全に関する条例」に基づくの騒音規制があります。
これは主に「深夜営業騒音に関する規制基準及び音響機器の使用」についての時間制限を設けているものです。
一方、長野市においては「長野市公害防止条例」に基づく騒音規制があります
これは、国による「騒音規制法」を補完するため、同法で定める特定施設及び特定建設作業の対象を拡大しています。拡声機を使用する商業宣伝行為について 規制基準と禁止区域を設けています。
ご一読のとおり、現行の法律や条例は 例えば工場の作業音だったり建設現場の掘削音だったり、また深夜営業に対する規制だったりとの、いわば特有の分野に限られていることがお判りと存じます。
つまり 現行のルールでは、現下の青木島遊園地の「音」に関する問題に 法規を根拠に介入することはできないのです。
今回の案件を巡って「うるさい」を認定するかどうかの議論の中で「各種の騒音の音量(デシベル)を測定して判断すべき」との意見が出されていることを側聞していますが、現下のルールでは如何(いかん)ともし難いのは前掲のとおりです。
で あるとするならば逆に、Aさん世帯が「うるさい」と主張していたのは あくまでAさん世帯の主観であり、デシベルなど客観的事実(数値など)に基づかないものであることから、市とすれば その主張を丸呑みにせず、何らか別の対応ができたのではないかと思い そういう点では残念に思うところです。
ではナゼ、Aさん世帯は「うるさい」と強弁し、市はそれに盲従することになったのでしょうか。
騒音問題に詳しい専門家は、このような場合を「騒音」ではなく「煩音(はんおん)」と分類しています。
「煩音」とは 読んで字の如く「わずらわしい音」ということだそうです。
いわば「騒音」とは「音量が大きく、耳で聞いてうるさく感じる音」であり、それに対して「煩音」とは「音量がさほど大きくなくても、自分の心理状態や相手との人間関係によってうるさく感じてしまう音」のことだそうです。
言い方を変えれば、騒音とは「聴覚的にうるさく感じる音」で、煩音とは「心理的にうるさく感じる音」とも言えるとのこと。
もっと言えば、騒音とは「感覚的にうるさく感じる音」で、煩音とは「感情的にうるさく感じる音」だそうです。
さらに識者は、現代の「音」を巡る問題は、その多くが騒音問題というより「煩音問題」だとしています。
その見極めとすれば、航空機の音や道路の自動車音 あるいは工場や建設作業の音などは「騒音」ですが、隣近所から聞こえてくる生活音や 公園や学校などから聞こえる子どもの声などは「煩音」と分類されるのではないか。
なぜなら 生活音や子どもの声は昔も今も同じ音量であり、昔はだれもうるさいとは言わなかったから。〝音が変わった〟のではなく、それを聞く〝人間の側が変わった〟と指摘しています。
「騒音」と「煩音」には大きな違いがあります。これまで多くの公害騒音問題がありましたが、これが拗(こじ)れて人と人との争いに発展したと事例はほぼなかったそうです。
過去に 航空基地騒音や低周波数騒音などでは激しい闘争や訴訟が行われ、被害も深刻で甚大なものとなりましたが、過去においてそれが人と人との争いにつながった事例は無いのです。ところが、煩音の代表格である近隣騒音では 些細な音でご近所トラブルに発展しています。
すなわち「騒音」では事件は起きないが「煩音」では事件が起きる とのことのです。
で…ここからが むしろ重要なのですが、これら「騒音⇔煩音」の事象に対応する方法は、それぞれ異なるものになるとのこと。
まず「騒音」の対策は 言うまでもなく音量の低減、すなわち防音対策です。
一方、煩音対策で必要なことは防音対策では無く「相手との話し合い」であり それを通じた「関係の改善」です。これを混同すると、トラブルの解決どころか、さらに状況を悪化させることにもなりかねません。
苦情の原因が「煩音」からきているにも関わらず、受けた側が それを「騒音」と解釈し (苦情を言われて)ただ防音対策をすれば、「うるさい」と言った側の被害者意識はさらに強化され 相手への要求はどんどんエスカレートし、際限のないものになってしまう。
したがって〝近隣騒音〟に関して必要なのは「煩音対策」であり、騒音対策ではないのではないか。
「煩音対策」によって相手との関係が改善され 相互に信頼関係が構築できれば、今までうるさいと思っていた音もさほど気にならなくなることもある とのことです。
そんな近隣での音トラブル解決のためには 当事者同士の話し合いが必須ですが、当事者だけの話し合いでは 主張を要求するだけに終わる可能性が高く、トラブルは悪化しかねません。
そのため、そのには第三者の存在が不可欠です。
第三者の適切な介入により 双方が持っている相手を責める意識を取り除くことになり、それはすなわち「煩音問題」の解決のための要点でもあります。
無益な「近隣の音トラブル」を無くしてゆくためには、まず それが「煩音」であることを認知し(話し合いを前提に)適切に対応すること。
識者は最後に「近隣の音トラブルの原因はあくまで騒音に起因されるものであり、その対策は防音である」と考えている限り、解決の道は遠ざかるばかりです。」と結んでいました。
これらのことから 私は、今回の「青木島遊園地問題」における「音」問題は〝騒音問題〟ではなく〝煩音問題〟ではなかったか と考えさせられるところです。
と いうことは、その対処方法も「煩音」に則(そく)したもの…すなわち、防音のための造作(ぞうさく)ではなく、煩音を前提にした「話し合い」とすべきだったのではないか。
問題が起きてから約18年。今さら時計の針を戻すことはできませんが、せめて当時の背景を振り返るとすれば、当時の関係者は「煩音(はんおん)」を先んじて理解し それに見合った解決策=話し合い に臨んでいれば、こんな事態に至らなかったのではないか と忸怩たる思いを新たにするところです。
今や社会問題となっている「青木島遊園地廃止問題」について、市民の方々から 実にさまざまなご意見(声)をいただいています。
そして、その殆(ほとん)どが「(遊園地は)存続すべきだ」との〝声〟であることを実感しています。
「子どもの遊び場を大人の事情で奪うべきではない」と、遊園地を利用できなくなった子どもらを親身となって思う方々の声は日増しに大きくなっており、どの人に水を向けても同じ答えが返ってくるのです。
私自身、会う人ごとに「遊園地は存続を!」との〝民意〟を聞かせていただき「これ(民意)は 何とか行政に届けなければ」との 責任感のようなものを強く感じているところです。
でも、その一方で「区(区長)が廃止を決めたのだから(廃止も)仕方ないじゃん。」という風に言う人もおられます。
「だって、地元の区が設置を要望して設置されたものが、今度は地元の区が廃止を要望しての廃止。このことについては手続き上の瑕疵(かし)は無く、(遊園地の)廃止はやむを得ないよね。」というものです。
この〝手続き上の瑕疵(かし)は無い〟ことについては、至極ごもっともであり、長野市行政サイドも それ(区長の要望で廃止)を盾(たて)にして、これまで変わらず廃止を進めようとしています。
ところが、民意はそうでは無い。
地元住民をはじめ実に多くの方々が「遊園地存続」を願っておられる。
この いわば〝ねじれ現象〟の原因はどこにあるのでしょうか。
これは詰まるところ「区(区長会)の決定が 必ずしも民意を反映していない」のではないか と。
で、この矛盾ともいえる結論づけが 今回の問題の根っこにあり、そしてそれは、今の長野市都市内分権そのものの問題点でもあると言えるのです。
これまでも述べているとおり 今回の「青木島遊園地廃止問題」において 市は、設置するときには住民説明会を行なうも、イザ廃止となったら それ(説明会)も無く、区を相手に行政手続きだけを進めて(進めようとして)います。
しかし ここで問題となるのが、区(区長)や関係者は 市からの打診を一部の役員さんだけで受け止めて解決(回答)してしまっていること…例えれば、市から投げられたボールを 住民の間でパス回し(=みんなで検討)することなく直接投げ返してしまい、それを受けた市は「はい、キャッチボール成立」とジャッジし、それを根拠に「手続きに瑕疵はない」として話しを進めようとしているのです。
ピッチ(地元)には多くの選手(住民)が居るのに、その人たちはボールに触れること無く たった2人の選手(区と市)のキャッチボールを眺めるだけで「はい、ゲームセット」と宣言されたのでは、ストレス以外 何も残らないというのが実際のところでしょう。
しかし これは、試合巧者の市行政チームの あざといゲームメイクと申せます。何というか〝隠し球を駆使する常勝チームの手法〟とでも申しましょうか。
今回の試合運び(青木島遊園地廃止)は、いわばルール上は問題は無いのです。
しかし であるからといって、チームメイト(住民・市民)を置き去りにして 半ば勝手にゲームセットを宣言してイイものでしょうか?
そこにはチーム内の分裂と禍根しか残らない、いわば空(むな)しい試合結果に終わるのではないでしょうか。
そうならないためにも、ここは一旦「タイム!」を取って もう一度円陣を組み、本当にそれでイイのか選手(住民)全員でミーティングを行なったうえで 相手(市)に投げ返すボールを吟味すべきです。
いわゆる全員野球による取り組みによる試合結果ならまだしも、一部の監督・コーチの勝手な判断による強硬なゲームメイクには、選手(住民)はもとよりスタンドの観衆(多くの市民)もブーイングを送るばかりとなるのは必定です。
このこと(行政手続きにおける住民合意を 住民自治協議会や区長会の一部役員と交わし了とすること)は、今の市政運営における遍在化する課題ともなっています。
「住民合意」とは 何をもって了とすべきか、改めて その課題が浮き彫りにされています。
そして私は、今回の案件の〝もう一つの問題点〟を指摘せざるを得ないところです。
「歴代の担当職員たちが、何の問題意識も無く 課題をそのまま申し送っていたこと」であります。
青木島遊園地が設置されて18年・騒音問題も ほぼ同じ歴史を辿る中。
この間 おそらく複数回に亘る職員の異動が行なわれてきたことでしょう。
にも関わらず、一度(ひとたび)起こった苦情対応の稚拙なやり方は、職員が変わっても 何ら改善や工夫も行なわれることなく、そのままの状態(稚拙な対応策)で申し送られ、ただただ無為に年月を重ねることになってしまいました。
この間、途中で「これ(この対応)って おかしいんじゃないか。」と気づく職員はいなかったのでしょうか?
今回の稚拙な対応…百歩譲ってやむを得なかったとしても、途中 異動で着任した職員が「おかしい・ふさわしくない」と思って 改めて検討を行ない、事態の改善に向け早期に努力を重ねていれば、今のような泥沼決着(してませんが)には至らなかったのではないでしょうか。
で…これは非常に残念な予想ですが、所管となった歴代職員の中に 市の対応を「おかしい」と思った者がいても「前任がそうだったなら…」として 言うべきことも言わず、そのままを看過して勤務を続け 結果として事態を固着化することになってしまったのではないかとも思わされるところです。
このような 行政にありがちな〝悪しき前例踏襲〟が、今回の残念な経過の呼び水になってしまったのではないかと思うとき、残念というほか無いのが正直なところです。
そんな厳しい状況ではありますが、心ある地元住民は ひたすらに「子どもたちのため」を合言葉に、非常に純粋な心地に立って 青木島遊園地の存続を願い、地道な活動を展開されています。
そんな 純白なユニフォームで試合に臨む初出場チームが、試合巧者の常勝チームと どのような試合運びができるかは未知数でしかありませんが、いずれにしても 多くの声援(存続を願う世論)を背に全力を尽くしてもらいたい。
私も応援団の一員として「できること」を模索しながら、共々に歩んでゆきたいと思うところです。
・
今や大きな社会問題にもなっている、長野市の「青木島遊園地」の廃止問題。
去る23日に「青木島遊園地の存続を願う地元住民有志の会」が発足したことを契機としたように、関係するところで さまざまな動きがあり、改めて社会の注目を集めることとなっています。
このブログでも既にお伝えしているとおり、今回の遊園地廃止の決定プロセスにおいては 何ともいえない「釈然としない感」が満ち満ちており、経過を追えば追うほど「何で?」と思わざるを得ない事項が連なることとなっています。
この〝何ともいえない釈然としない感覚〟は、おそらく多くの読者みなさんも同じではないでしょうか?
これまでもレポートしているとおり、長野市は 遊園地廃止に向けて「6つの理由」を掲げ「だから廃止します」として結論づけようとしています。
しかし、その廃止理由には かなりの無理があり…何というか、合わないピースを無理矢理押し込んで完成させようとするジグソーパズルのようです。
ところが、市行政が無理矢理完成させようとしているジグソーパズル(=遊園地廃止)について、その様子を見ている市民は「どう見てもピースが合っていない!」と指摘せざるを得ない状況になっているのです。
前掲の「(廃止に向けた)6つの理由」についても、先日のブログで簡単に触れたとおり その理由は何とも拙(つたな)く説得力に乏しいものであり、それをもって 市民の方々が「ヨシ、分かった!」と、首を縦に振ることにはならないことは ご案内のとおりです。
そのうえで 今回の案件には、物事の根本的な視点が欠落していると言わざるを得ないところであり、もしかしたら それが「釈然としない感」の大元(おおもと)になっているのでは…とも思わされるのです。
今の長野市の論法の中に欠落している点。
第一に それは「子どものためにどうすべきか」との基本的な視点です。
そのそも あの遊園地は、地元住民の方々が「子どもたちのために」という思いで設置したものです。ところが、一連の問題が生じた際には そこのところ(子どもたちのために)の視点を置き去りに話しを進めようとしていることに、(私を含め)多くの市民が「釈然としない」思いを抱かされているのではないか…と考えます。
長野市が掲げる「6つの廃止理由」は、あくまで〝大人のケンカ〟をどう片つけるかに腐心した末の無理矢理の結論であり、そこに「子どものためにどうすることが最善か」の議論は存在しません。
クレームを寄せた住民への〝対処療法〟は、子どもを黙らせる・遊ぶ子どもの数を制限する・ひいては 遊園地から子どもを引き上げ、建物内に押し込める 等々、物事の解決のために 全て〝子どもを犠牲にして〟その場を凌(しの)いできただけなのです。
この 本末転倒の論法に、私たちは大きな違和感を禁じ得ないところです。
第二には、市民(近隣住民)への説明不足…もっといえば〝説明の回避〟という点です。
前掲のとおり、この遊園地は 近隣住民の要望によって設置された施設であり、設置の際には事前の住民説明が行なわれたと聞き及んでいます。
ところが です。
今回の降って沸いた「遊園地を廃止します」の決定の際には、そこ(廃止)に向けた事前の説明会が開かれた形跡は無く、いわば〝後出しジャンケン〟のようなのです。
このことについて市は「区長さんとの話し合いを行なった」と説明(言い訳)をするところですが、代表者(区長さんら)と話したから それで全ての市民への説明に代えるというのは、あまりに乱暴な話し。もっと言えば「遊園地を造るときは全員集めておいて、廃止のときは一部住民の承諾で済ますのはオカシイ」と言えるのではないかと思います。
さらに言えば、市は「説明」の範疇(はんちゅう)に、主たる利用者である「子どもたち」を含めていないこと…もしかしたら これこそが、市の行動が「釈然としない」最大の理由ではないかと思われるところです。
一連の問題が表面化して以降、荻原長野市長は「住民の方々の声を聞きたい」と再三に亘り発言していました。
そのうえで 12月議会終了後に「現地を訪れる」との報が入ってことから、私を含め関係者は 少なからず期待を抱いたものでした。
ところが、です。
今回の件で 荻原長野市長が最初に足を運んだのは、なぜか 同じ青木島でも「小学校」だったのです。
なんで、小学校?
本来 市長が行くべき先は、問題の渦中にある「児童センター」や「保育園」ではなかったでしょうか。
そこで、職員・さらに〝主役〟である子どもの声に耳を傾けることが 先ずすべきことではなかったのでは。
また、市長は「区長会などと意見交換を行ないたい」と、記者会見などの公(おおやけ)の場で述べていました。
私たち関係者は、市長が いつ区長会に足を運ぶのか・そこで何が語られるのかを大きな関心をもって その日を「待って」いました。
ところが、です。
後の情報で、荻原市長は 去る25日、いわば〝電撃訪問〟の形で(周囲に)予告することなく更北区を訪れ、そこで区長さんらと話しをつけてしまったそうなのです。
事前の「行きます!」とのアドバルーンは高く上げておきながら、実際の来訪は いわば頬っ被り(ほっかむり)をしてナイショで行なう…何だか裏をかかれた感の私たちは「何だかなァ…」と 至極残念に感じたものでした。
そのうえで、翌日の新聞には 市が「住民説明会」を行なうことが報じられました。
で 私たちは、当然 市長が(説明会に)出席すると思っており、その前提で記事を追ってゆくと…
あろうことか 所管の公園緑地課は、市長の出席について「答えられない」としていたのでした。
この記事を見て「残念」と思ったのは、私だけではないでしょう。
なぜ 市(市長)は、そんな〝様子見〟のようなことをするのでしょうか。
本当に、遊園地の廃止について 一点の曇りも無いとすれば、市長自身が住民説明会に出席して 堂々と廃止を明言すればイイじゃないですか。
それが 直ちにできない。もしかして「雲行きが良ければ出るし、悪ければ出ない」というのか。
それは まるで「勝てそうな試合なら出場するし、負けそうなら出ない。」との日和見主義に他ならず、あざといエントリー判断と言わざるを得ません。
確か荻原市長は オリンピック金メダリスト、スポーツマンシップを極めた人ではなかったか。
そんな氏が、市民と直接向き合う場に「出るか出ないか答えられない」とは…残念というか 情けないとまで言いたくなるところです。
今回の「青木島遊園地廃止問題」は、長野市が「子ども」に向き合う姿勢を問われることとなっています。
これまでの荻原市政は、市長が就任後のさまざまな場面で 自身が4人の子どもの父親であることを口にしており、市長選の公約でも「子育て支援」を強調し、新型コロナの影響を受けた子育て世帯への独自の給付金支給・10月には福祉医療費給付金制度の見直しも市社会福祉審議会に諮問するなどし、そして、各部署にまたがっていた子育てに関するさまざまな相談にワンストップで対応する こども総合支援センター「あのえっと」を設置するなど、子育て支援に力を入れ それなりの評価を得てきました。
しかし…これは非常に残念ながら、今回「青木島遊園地」を廃止に追い込むことで、これまでの「子育て環境重視」の荻原市政の評価は 大きく下落することになってしまうでしょう。
いくら詭弁(きべん)を弄(ろう)してみても「子どもの居場所を奪った市(市長)だよね…」の〝黒歴史〟は消すことはできず、事(こと)ある毎にそのマイナスイメージが付きまとい〝そういう目〟で見られ続けることは必至であると言わざるを得ないところです。
繰り返せば、今回の「青木島遊園地廃止問題」において、長野市(市長)は いちばん肝心な部分を置き去りにして話しを進めようとしている。
でも、今ならまだ間に合うのです。その身にかかろうとしている汚名を 今なら払拭することができる。
さきに発足した「青木島遊園地の存続を願う地元住民有志の会」は、決して施策の転覆を狙うクーデター組織ではなく、それどころか 課題の円満解決を願いながら住民の総意に基づき(存続に向けた)純粋は活動を行なっておられるのです。
市(市長)は、今こそ これら純粋な団体を胸襟を開いて意見を交わし、共に「子どもたちのため」を共通理念に(一緒に)歩む道を選ぶこと。それで 皆が課題を矛(ほこ)に収めることができる、そのことに気づいてほしいと願うばかりであります。
この1週間は最強寒波の到来で、極めて厳しい冷え込みが続きます。水道管の破裂は大丈夫でしょうか。まだまだ寒波は続きそうです。ご自愛ください。 ...
今や 長野市イヤ全国的な社会問題にもなっている「青木島遊園地廃止問題」ですが、長野市が唐突に「施設の利用停止→3/31で廃止」を打ち出して以来、さまざまな方面・者(人)からさまざまな意見が寄せられることとなっています。
それら さまざまな経過を経る中で、過日「青木島遊園地の存続を願う地元住民有志の会」が発足されたのは ご案内のとおりです。
今後 会のメンバーさんらは、純粋な心根のうちに 子どもの居場所が維持できるよう、この遊園地の存続を期して活動展開することになります。
ところで この青木島遊園地を巡るさまざまな問題は、18年の年月を経る中で 多くの「矛盾」ともいえる事象を孕(はら)みながら推移していることが報じられています。
そして その経過の多くに、何とも釈然としない出来事が累積しており「ホントに こんな状況で廃止を決めてイイの?」と聞きたくなるような様相となっています。
問題の追求は、信濃毎日新聞の「声のチカラ」コーナーです。
このコーナーで 昨年12月に、かかる青木島遊園地の廃止問題が取り上げられ、その(問題の)性格上 社会の注目を大きく浴びることとなり、現在の状況に至っております。
この問題を記事として取り上げたM記者は、独自取材を交えて 多岐に亘り遊園地廃止を取り上げています。
そして その取材により、市の対応等にさまざまな齟齬(そご)がある(あった)ことが炙(あぶ)り出されています。
遊園地で遊ぶ子どもたちに対する苦情は2021年3月の1回だけだったのに、その後も複数回に亘って苦情が寄せられてきたとの間違った報告や、それまで20~30名の児童が遊園地で遊んでいたのに、その事実が無かったとする報告を挙げるなど、その内容の多くに事実誤認があったことが取材によって明らかになっています。
また、後の記事では「青木島遊園地」の維持管理の担い手について、一部の近隣住民による苦情によって担い手確保が見通せない状況の中、草刈りなどの活動を行なってきた隣接の児童センターの館長が市側に「(遊園地を使えないなら)活動を担えない」と伝え、その後の区との話し合いの中で「(苦情により)子どもたちが遊園地を利用できないのであれば、このまま施設を継続する必要がないと思う」という流れができたこと、さらに後の話し合いでは 児童センターの館長が「翌年度以降は草刈りなどの活動は担えない」と遊園地の管理にダメを押すなどしたことから、区長から「児童センターなどで利用しないのであれば、廃園するしかない」との意見が出ることとなってしまったことが伝えられていました。
で、その意見交換の後に 市(公園緑地課)は「廃止するには区から『廃止届』を出してもらう必要がある」と説明し、そこに「市(公園緑地課)としては閉鎖してほしいとは言っていない」と付け加えた上で「来年からは地区で 草刈りなどの愛護会活動をお願いできないか」と尋ねました。これに対し、区長からは「使っていない遊園地をこのまま存続するのもいかがなものか」との意見が続き、最終的に区長会が廃止届を出すことになったのです。
しかし 長野市には遊園地廃止に関する規定を設けていないことから、遊園地を廃止するのに地元区長会の廃止届は必要ないのです。にもかかわらず区長会に廃止届を出させたのはナゼか?など 記事を通じても釈然としないことが指摘されていました。
さらに、長野市がホームページにUPしている「青木島遊園地の廃止を判断した経緯について」も、何だか釈然としない内容になっています。
「青木島遊園地の廃止を判断した経緯について」長野市ホームページ
↓
https://www.city.nagano.nagano.jp/soshiki/kouen/722195.html
この中で、PDF版で 改めて「青木島遊園地の廃止を判断した経緯について」が掲載されているのですが、それを読んでも 釈然としない説明が列挙されているのを実感させられます。
この項「廃止を判断した理由」として「はじめに」に〝「一人の意見で廃止」と報道されてきましたが、青木島遊園地廃止の判断に至った理由は次のとおりです〟とされています。
冒頭から「言い訳」で入る異例の展開となっています。
その後、6つの理由が箇条書きされているのですが、その一つひとつが釈然としない記述となっています。
① 児童センター・保育園・小学校に囲まれた立地の特殊性から利用が集中する環境→そもそもこの遊園地は、かかる3つの施設の子どもがみんなで利用する(遊ぶ)ための環境じゃないか。
② 現在、遊園地がほとんど使われていない状況→実際には「使わせていない状況」じゃないか。
③ 近隣施設の管理者からの「これからも遊園地は使わない(現状では利用が実質困難)」というご意見→これとて 使わなかったから招いた状況じゃないか。
④ 設置を要望した地元区長会からの廃止の要望→廃止要望は 市が出させた(出すように仕向けた)のではないか。
⑤ 愛護会活動の担い手がいないこと→担い手は、いる。
⑥ 遊園地用地が借地であり、今後も借地料が発生していくこと(それも込みで設置を認めたんじゃないか)
読めば読むほど、釈然としない記述となっています。
・・・・・・。
長野市は、いったい何で この遊園地の廃止にしがみつくのでしょうか?
何を潰したい、いや潰すことで いったい何を守りたいというのでしょうか。
一連の黒歴史の中で、一番の被害者は なにいう無垢な子どもたちです。
大人の都合(不毛な争議とその不適切対応)によって我慢を強いられる日々…言っちゃあ何だが コロナよりタチが悪い。
こんな結末を許してはならないと思う。
しかし、既に賽(さい)は投げられたとの気配が…
この悪しき流れの中で、市民の良識は通用するのでしょうか。
大雪により行程を一部変更しましたが、1月25日、26日の2日間、新潟県三条市と見附市を視察してまいりましたので、視察の報告をさせていただきます。
1月25日(火)
〇過去の災害と災害からの復興について
三条防災ステーション(三条市水防学習館、新潟県三条市)
<概要>
三条市水防学習館は、平成16年の7.13水害及び平成23年7月27日から30日の記録的な大雨による水害、いわゆる7.29水害を受け、水害を忘れず、水害に学ぶことを目的として平成24年5月に設置された。 非常食等が展示され、更に、情報発信モニター、ドア水圧体験、水害降雨再現シアター等により、小学生から大学生、また、各団体等が水害について学ぶ場所となっている。
<所感>
開所当時は別の団体が指定管理を担っていたが、現在、施設を管理しているのは指定管理者かわまち・ドットコム。開所当時は多くの見学者があり、水防学習の場として機能していたが、昨今に至っては、見学者を呼び込むことが一つの課題であるとのこと。その一環として「ミズベリング三条」と称した自由に利用できるエリアを再構築しながら水防学習に繋げる取り組みを行っている。
7.13、7.29水害発生以降、三条市及び周辺市町村、更に、国や県による復興事業が行われ、水害発生リスク低減が図られている一方で、過去の水害について学ぶ意欲が薄らいでいる側面があると思われる。
長野市は、現在、様々な復興事業、治水対策、とりわけ、国県及び流域市町村とともに河川整備等を進めているが、行政機関はもとより、各議会、住民は進捗状況をつぶさに点検し、過去の水害から得た教訓を後世に繋ぎ、気候変動等の状況の変化に伴う水害発生リスクを忘れないために、長沼防災ステーションにおいて、常時、災害学習が可能な常設型のスペースを充実させることが必要ではないか、と考える。
〇信濃川水系下流域での災害の状況について
信濃川大河津資料館(新潟県三条市)
大河津分水路の川幅拡幅工事について(にとこみえーる館、新潟県三条市)
<概要>
2022年8月、大河津分水路通水100周年と関屋分水路50周年の節目を迎えた。しかしながら、大河津分水路改修事業は現在も継続中であり、更に、令和元年東日本台風等を受け、事業完了年度が当初の令和14年度から令和20年度へ、また、全体事業費も当初予算から500億強増額となる約1,765億円となる大規模な事業である。
また、「にとこみえーる館」は、現在工事中の現場にほど近く、大河津分水路改修事業の工事内容を知ることが出来るとともに学ぶことができる施設となっている。
<所感>
信濃川水系河川整備は、河川法に基づき、平成21年に整備基本方針、平成26年に整備計画が策定され、概ね30年で河川整備を進めるとされてきた。しかし、度重なる洪水被害、特に、令和元年東日本台風災害を受け策定された信濃川水系緊急治水対策プロジェクト、その整合性を取るために変更された河川整備計画により、千曲川、犀川を含めた信濃川水系における河川整備は大きな転換期を迎えている。国等は常に上下流のバランスと口にするが、プロジェクト、河川整備計画はそれに基づいたものだと認識しているが、上下流のバランスを口実に、上流の整備が遅滞することは許されることではない。計画に則り、着実に事業を進めていくことを強く求めたいところだ。
「にとこみえーる館」の存在は、上下流域住民にとって、大河津分水路改修工事の早期完了は悲願である一方で、ハード面強化に関する事業の壮大さと道のりの長さを実感できる場である。予算や工期を再認識することで、ソフト対策への理解と協力の推進につながることに期待を寄せたい。
〇近年の災害と流域治水等の取り組みんについて
災害からの復興と課題 田んぼダム、備蓄等計画(見附市役所、新潟県見附市)
<概要>
見附市を流れる刈谷田川は、信濃川下流域の再上流部に位置する。平成16年7月の7.13水害において、刈谷田川で6箇所の破堤、そのうち5箇所が見附市域であったことに加え、7年後の7.29水害を受け、刈谷田川ダムの治水機能20%の向上、堤防の嵩上げ、屈曲部改修、そして田んぼダム、遊水地整備が進められた。
見附市の田んぼダムは、県営圃場(約1200ha)の活用も功を奏し、長時間降雨では下流、短時間降雨時は上流への効果が大きい等、農業が持つ多面的機能が発揮されており、新潟大学の調査においても、地の利を活かしての効果の高さが評価されている。
<所感>
現在、国を挙げて取り組みが進められているのが「流域治水」である。「流域治水」は、河川、河道への流出量の抑制を目的としている。つまり、農地をはじめ、学校校庭、道路、駐車場等において、最大限貯留し、河川の氾濫を防ぎ、被害を極力小さくするための対策である。刈谷田川ダムの貯水量(393万トン)の64%となる252万トンを貯留可能とする田んぼダムの効果は新潟大学の報告でも裏付けられ、取り組み当初に直面した課題を乗り越え、事業確立に至ったことは、行政はじめ関係者による治水安全度向上に対する強い危機感からだと受け止めた。心より敬意を表したい。
更に、意義のある取り組み事例は、水位調整官の取り換えだ。設置当初の横穴式では、地主の操作が必要であることから田んぼダム実施率が約39%と機能させるには不十分であった。そこで、操作不要となるコーン型に入れ替えたことで実施率が約100%となり、床上浸水ゼロとなる等、関係者の柔軟かつ積極的な姿勢、取り組みは治水対策を進めるうえで、大いに参考とし、長野市でも醸成しなければならないことだ。
長野市を含む千曲川・犀川流域において、見附市スタイルをそのまま採用することは困難かもしれないが、小さくともすべての農地が貯水能力、多面的機能を発揮し、河川への流出量抑制に繋げる取り組みを更に強化する必要がある。
また、見附市田んぼダム事業において特筆すべき点として、総事業費約1,500万円で、実に、刈谷田川ダムの総事業費の0.027%であったことを挙げたい。多額の経費、長年にわたる工期等のこれまでの治水対策における常識を覆す取り組みとなったのではないか、と考える。
本市は、全ての市民、事業所等が協力できる体制構築のための取り組みについて、まだまだ十分とはいえない。流域治水に必要なことは何なのか、再度、検討し、事業化を進め、生命及び財産を守り抜く施策を求めたい。
〇近年の災害と流域治水等の取り組みについて
遊水地整備の経過(見附市役所、新潟県見附市)
<概要>
平成16年7月の7.13水害を受け、平成16年から22年、事業費約34億円が投じられ、刈谷田川における洪水対策(新潟県長岡地域振興局整備部の刈谷田川災害復旧助成事業)として、遊水地整備が進められた。
同遊水地は、地役権方式が採用されており、約91町歩(約99ha)、355戸の農地所有者によって、通常は水田としてそれぞれ耕作され、洪水となった際、刈谷田川に流れる水を一時的にため込むことで下流への流量を減少させる機能を担っている。刈谷田遊水地は面積912,000㎡、計画貯水容量は2,347,000㎥で、刈谷田川ダムの貯水量(393万トン)の約60%に値する。遊水地により刈谷田川の水位を約35cm低下させる効果を発揮し、平成23年7月の7.29水害では、平成16年のような大きな災害から地域を守った。
<所感>
長野市を含む長野県域において、信濃川水系緊急治水対策プロジェクトに則り、現在、蓮(飯山市)、上今井(中野市)、塩崎(長野市)、埴生、平和橋(共に千曲市)の5カ所で遊水地整備計画が進められている。しかし、住民の合意形成、他整備の進捗状況等により、着工そのものに遅れが生じると言われており、遊水地整備完了の遅れがもたらす影響を懸念するところである。
篠ノ井塩崎に計画されている遊水地整備における事業進捗管理、更に、その後の維持管理等において、本市には一定の責任がある。地球温暖化が進展し、更なる豪雨災害リスクの高まり、被災地区でもある篠ノ井地区のみならず、水害リスクに不安を募らす多くの流域住民は早期完成に期待を寄せている。
他方、農作物補償、農地移転など、当事者が直面している課題もあり、多くの関係者は理想と現実の間で思いは交錯している、と受け止めている。
しかし、遊水地整備によるリスク軽減は、刈谷田川遊水地の実績からその効果は明らかであり、一刻も早い整備完了が流域住民の生命と財産を守る上で、行政として果たさねばならない責務である。
刈谷田川遊水地は地役権を設定した上での整備が行われた。地役権は原則、洪水により収穫が見込めなくなった場合でも補償されない。刈谷田川遊水地においてもNOSAI等の保険への加入を進めているとのことだ。
それぞれ地域には賛否さまざまな意見、考え方があるが、毎年のように起こり得る記録的な大雨、大型化している台風上陸においても、地域を守り得る安全性をより高めるために、本市は今以上に何ができ、何をしなければならないのか、すべきか等、今こそ整備に向け、主体的かつ能動的に動かなければならないのではないか。
以上です。
つくづく感じるのは、緊急性がありながら中々事業着手に至らないケースが多い、ということです。災害対策だけでなく、日常生活を送るうえで、可及的速やかな対策が必要な事業も然りです。
私たちは、常に、市民生活が第一の視点で、行政に対し、喧々諤々、議論をしていかなければなりません。
治水対策は、私にとっても最重要テーマです。視察で得た事項を今後の活動に活かしてまいります。
今(25日)、議会の行政視察で 新潟県三条市に来ています。
戸外は大荒れ、雪が横から降る(吹く)嵐の様相となっています。
本来だと24日~26日の予定でしたが、公共交通機関の計画運休もあることから、予定を早めて今日(25日)に帰長することになっています。
で…この週末、ブログの更新が儘(まま)ならなくなってしまいました。
読者のみなさんにおかれては「何やってんだ!?」と思われた方もいらしゃったことと存じますが、実はこの週末 不測の「オファー」が舞い込み、その対応に追われることとなってしまったのです。
この場では、その詳細についてご報告いたします。
先週の 確か金曜日、旧知の知人から「私の知人が悩みに悩んでいるので、相談に乗ってほしい。」とのことでした。
内容は?と問えば「青木島遊園地の存続問題です。」とのことでした。
この件に関しては みなさんも既にご案内のとおり、今や長野市のみならず 全国的な話題になってしまっていることもあり、その件について「ぜひ相談に…」とあっては断る理由も無く、時間を合わせて面会させていただきました。
その方(Aさん)によると、青木島遊園地を巡って 市が「廃止」の方向に進み、もはや既にその方針を固めつつあることに対し、遊園地の周辺(青木島地区周辺)に暮らす多くの心ある住民の方々が心配の声を挙げている というのです。
で さらに、その真意はと問えば、かかる多くの地元住民の方々は「青木島遊園地の存続を願っている。」とのことなのでした。
このことに関しても各位ごとご案内のとおり、市(公園緑地課)は 来る3月31日をもって同遊園地を廃止することを決定し、行政手続きに基づき 廃止に向けた作業を粛々と進めることになっています。
で、このこと(廃止理由)について市は「地元区からの要望に基づいての廃止」としていますが、しかし 周辺住民の「思い」は全く逆…実に多くの住民が施設の存続を求めて(願って)いる とのことなのでした。
さらに伺えば、住民の方々は 昨年末頃、公園を管理する「愛護会」が、その活動ができなくなったとされ、それ(愛護会活動の休止)が遊園地廃止の理由の一つに挙げられていることも「事実誤認である」とし、それならば と、心ある(公園周辺の)住民に愛護会の再結成を募ったところ、10名を超える方々が手を挙げてくださり まさにアッという間に再結成の動きとなったそうです。
さらに、子どもに対して思い入れの深い 区長経験者の方(Bさん)が、この際は 地元住民による「遊園地存続を求める会」を設立し、市(市長)に対して 地元住民の思いを伝え、市(市長)の理解と共感を得たうえで 遊園地の存続を果たしてゆきたい、との 実に純粋かつ熱意に溢れる意思表示をされておられたのでした。
そんなみなさんの真摯な思いを伺い、私も共感せずにおられませんでした。
ただ、リーダーのBさんが「あくまで地元住民の手で活動展開したい」との思いや、私たちのような者が過干渉すれば あらぬ力学(りきがく)が生じかねないことから、あくまで黒子に徹することとし、いわば裏方として活動をお手伝いさせていただくことといたしました。
とは言っても、この手の活動は最初が肝心。私の方では かかる「青木島遊園地の存続を願う地元住民有志の会」の設立・さらに「愛護会」の再結成にあたっての それぞれの団体の「規約」の原案づくりを行ない、さらに Aさん・Bさん さらに遊園地の隣りに住み、施設の設置の際に中心的役割を果たしたCさんなどを核とし「賛同者」を募ることを提言しました。
で…活動を始動した中、私は この活動が〝時間との戦い〟であることを直感的に感じました。
と いうのも、どうやら荻原市長が 来週の半ばに当該の更北区に足を運び、そこの区長会と面談するらしいとの情報が伝わってきたのです。
そのことは、残念ながら現時点で「遊園地廃止」を明言している市長が当該の更北区に行くということは、民意を理由(詭弁)として「廃止でよろしいですね。」との悪しき念押しをしに行くとの〝来訪目的〟が透けて見えることから、その〝儀式〟が終わってしまえば いくら熱心な活動を立ち上げても遅きに失することとなり、その努力の大部分が徒労に終わってしまうことが想定(懸念)されると〝直感〟したのです。
もし、心ある住民の思いを少しでも現実に近づけるためには、何としても市長が更北区に行く前に 新たな組織の立ち上げを内外に表明しなければなりません。
そうなると〝善は急げ〟であります。
私や 既に活動の指南にあたっておられる同僚議員の立場として、組織の規約の作成や 活動のベースとなる会を組織化するよう準備を急ぐことを促すと同時に、それと並行して 週明け早々に記者会見を行なったうえで「要望書」を市(市長または都市整備部長)に提出する段取りに奔走することとなりました。
いわば 本来はマラソンの距離を100m走のペースで走るかけっこのようなものです。
ただ幸い 今回の活動メンバーは、いわば〝チルドレンファースト〟の心からか 合流当初から気持ちが通じ合っており、非常に慌ただしい中での行動も関わらず 互いを尊重しながら、必要に応じて作業を分掌するなど、まさに阿吽の呼吸(あうんのこきゅう)で事(こと)に臨むことができ、試行錯誤はありながらも 何とか要望書や規約などの関係書類の作成・記者会見や要望書提出の段取りをつけ、23日(月)に 突貫工事ながら本番を迎えることができました。
会の求めに応じて 23日に会場を確保(設営)すると、そこには多くの報道陣が集結 メディアの方も未だ強い関心を示していることが再認識されました。
記者会見は 会を主宰するKさん(元 青木島地区内の区長経験者)の主導で行われました。
Kさんの方(ほう)から、この会を立ち上げるに至った 地元住民の遊園地に対する思い=未来ある子どもたちの環境(の維持)に対する思いが語られ、そのうえで 今までの行政の偏(かたよ)った取り組み・多くの地元住民の思いを置き去りにした いわば一方的ともいえる行政手続きについて大きな疑問を呈したうえで、要望書の朗読をもって活動の趣旨説明とされました。
要望書の全文は下記のとおりです。
「青木島遊園地の存続を願う地元住民有志の会」要望書
荻原市長を初め長野市職員の皆様には市民のために様々なご尽力をいただいておりますことに深く感謝申し上げます。
私たちは昨日新たに「青木島遊園地の存続を願う地元住民有志の会」を発足させました。すでにj現在青木島遊園地の存続については、心ある方々による署名活動が行われており、大変心強く思っております。同時に地元住民の中からも地域の子どもたちのために遊園地を廃止してほしくないという多くの声があがっており、地元住民の思いを直接長野市に届けていきたいと居ても立っても居られない気持ちでこの会を発足させる運びとなりました。
また子どもたちも長年にわたって遊園地で遊べる日を待って我慢してきました。遊園地を残してほしいと願う子どもたちの代弁者としても今、声を届けていくのが私たちの役割と考えています。
そもそも青木島遊園地は平成16年地元区長会はじめ青木島小学校PTAなど関係者が土地を確保して長野市に要望して設置していただきました。残念ながらその後一部の住民から苦情が寄せられ、子どもたちをのびのびと遊ばせることができない状態が続き、センター関係者初め、大変苦慮しながらの対応となりましたが、私たちは今後も話し合いを重ねながら、子どもたちのためにこの遊園地を活用していけることに何の疑念もなく、子ども達を見守っていました。
ところが地域住民にとっては突然降って湧いたような青木島遊園地の廃止という報道に大変驚きました。設置するときは事前説明会を開催していただき、地域あげての要望を実現することができました。ところが廃止するときは地元説明会もなく、地域の意向が反映されることなく一方的に決められてしまったと感じています。多くの区長さんは廃止ありきで話が進んでしまったと戸惑っておられるのが本音のところと思います。
地域の中には他の公園もあります。しかしその周辺では同じように子どもたちの遊ぶ声に不快感を持つ住民がいることも事実です。ではその様なところを同じように苦情者の求めに応じて潰していってしまうんでしょうか。子育て支援と言いながら、一方的に大人の意向で廃止することを容認することはできません。
遊園地の維持管理を行なっていく愛護会についても過日改めて正式に発足する運びとなりました。児童センター、保育園の職員、保護者のみならず青木島遊園地の周辺に暮らす方々の多くが愛護会メンバーに加わっていただくことになりました。
多くの住民が青木島遊園地の存続を心から願い、惜しみない応援をしてくれています。これが地元の偽りのない声であることをぜひご理解いただきたいと思います。私たちは長野市長に直接その思いを伝え、今後も地元関係者にもその願いを届け、力を合わせて遊園地の存続を求めていきたいと思っております。
また近いうちに荻原市長に多くの地元住民の思いを直接聞いていただき、市長のお考えもお聞きする機会を設けていただきますよう強く要望致します。
ぜひ地域の子どもたちを思う地元住民の思いを受け止めていただき、青木島遊園地を存続するよう求めます。
青木島遊園地の存続を願う地元住民有志の会
この記者会見を通じて、青木島遊園地=子どもたちの将来 に心を寄せる住民有志の強い意志が内外に表明されることとなりました。
今後は この要望書を市(市長)に提出すると同時に、一連の報道を見て共感する人・これまでの経過を知るなどして「やっぱりおかしいよね」と確信的に思う人たちが増え、それが濁(にご)りの無い いわば“真水の力”として大きく「育つ」ことが期待されるところです。
その後、一連の活動は 夕方の各局ローカルニュースで大きく報道されました。
報道は事実関係のみの伝達に止(とど)まりましたが、その内容について なんというか会の前向きな雰囲気のようなものが内外に伝えられ、今後の大きな反響が期されるところです。
その翌日(24日)には、会の代表者が改めて長野市(都市整備部)を訪れ、要望書を正式に提出したことが報じられました。
そのうえで これ(要望書)は、早いうちに荻原市長の元(もと)に届けるよう重ねて伝えられたそうです。
今後は、会の活動に賛同する住民の声を集積し、いずれは市長を囲んでの対話集会の開催をめざしてゆくとのことであります。
この市民活動について 各紙も報道を寄せていました。
その中(信毎/声のチカラ)で、これまで市が挙げてきた廃止理由に事実誤認があったことがスッパ抜かれ、これは改めて行政不信の温床になるのでは…と思わされたところです。
そのうえで、私は強く思います。
この会の活動は、単なる いわば〝クーデター〟であってはならない と。
市が無理無理に掲げた廃止理由に、言っちゃあ何だがウソやごまかしがあった。
それ(錯誤)に対しては毅然と「それは違う」と指摘しながらも、だからと言って「そっちが悪い・あいつが悪い」と断罪するのではなく、ときには相手の立場も理解しながら、最終的には「子どもたちのために最適な結論」を見出だす努力を共々に重ねることこそが大切と思います。
そのうえで、今回の遊園地存続運動を通じて「地元」の方々が改めて自分たちの住む地域のことに目を向けて 課題について共々に考えよう!との機運が醸成されれば何よりだと思います。
また一方で、この遊園地存続活動に関わるみなさんや 他の多くの課題に関わるみなさんには、市に(へりくだって)「お願い」する立場ではないということを意強く持っていただければ、とも思うところです。
市(行政)とみなさんは「対等」なのです。
確かに今までは、行政を「お上(おかみ)」と崇(あが)め、いわば役人の決めたことには盲従(もうじゅう)を決め込んできた時代もありましたが、ときは既に令和…時代は変わっています。
私の立場においても、みなさんに「対等」という位置関係を意強く持っていただくこと、でも対決姿勢では無い中で自分たちの意見を堂々と言えるよう、「おかしい」と思うときがあったら、それを堂々と口に出してアナウンスするできるようよう計らってゆきたいと思うところです。
私が見る限り、今後 この「青木島遊園地の存続を願う地元住民有志の会」の舟は、極めて非常に純粋な地元住民の心を乗せて みんなで協力し合いオールを漕ぎながら「未来ある子どもたち」が待つ港へと舳先(へさき)を進めることでしょう。
その周囲にある 市行政や世論は、果たして追い風となるのか それとも行く手を阻(はば)む嵐となるのか…その成り行きは未知数ではありますが、おそらくは、いかなる荒天に見舞われようとも 会の方々の櫓手(ろしゅ)は揺るぐことなく、たとえ僅かづつでも前へ前へと進んでゆくことでしょう。
そんな純粋なみなさんを、私としても でき得る限り応援してゆきたいと思うところです。