飯田市の放課後等デイサービス(障がいのあるお子さんや発達に特性のあるお子さんが、放課後や夏休みなどに利用できる福祉サービス)における「心理的虐待」について、施設に勤務していた元職員の飯田市への通報・それらを基(もと)にした長野県主要地方紙記者による取材→特集記事掲載 により、事態がクローズアップされるようになりました。
今回の出来事を踏まえ、同紙(記者)は 3日付のスクープ記事移行も「ふつうって何ですか? 発達障害と社会」との連載記事を掲載しており、今回の悪しき出来事の詳細や背景が記事を通じて明らかになりつつあります。私も その論調を注目している者の一人です。

4日(水)の記事(特集)では、今回の出来事を市に通報した 元職員の男性(Aさん)と、虐待があったとされる施設の代表者(B代表)から取材を行ない、起こされたこと(事実)と それぞれの立場からの意見(見解)が掲載されていました。
それによると、21年4月に放課後等デイサービスの運営法人に就職したAさんは 就職後すぐに、利用者児童に対する職員の叱る言葉、厳しい指示に違和感を覚えたそうです。
児童福祉法に位置付けられている放課後等デイサービスは「将来の自立に必要な力を養うため、子どもの障害の状態に配慮した計画的な訓練を行う場」とされており、厚生労働省が定めるガイドラインには 施設の基本的姿勢として「発達支援を通じて、子どもが他者との信頼関係の形成を経験できることが必要」とあるそうです。
ところが 問題の施設では「なにやってんの!」とか「なんで分からないの!?」といった職員の叱責(しっせき)や怒鳴り声が飛んでおり、その様子を目の当たりにしたAさんは「子どもの安心を奪い傷つける可能性がある言動は 福祉の場ではするべきではない。」と感じたそうです。
さらに この施設では、発達障がいがある児童(Cくん)の首に 職員との〝約束事〟を守られないときに「×」を記したカードが下げられたこともあり、これを見たAさんは「度を越えている」と強く感じたとのことです。
そもそもCくんは、知的障害に加え 発達障害に当たる注意欠如・多動症(ADHD)と自閉スペクトラム症(ASD)の症状があることから、デイサービスが終わって家に帰る送迎の時間を職員に何度も尋ねる・自分のタイミングでおもちゃ遊びを始める・走ってはいけない場面で突発的に走り出してしまう などの行動様態があったそうです。
この(Cくんの)行動に対し、職員が「×がついちゃうよ」と声をかけたり それを真似て他の児童もが「×だよ」と言うようになり、その度にCくんは困惑した表情を浮かべていたそうです。
また ある日には、Cくんが(職員にとっての)問題行動をした際には それを強い口調で咎(とが)めることもあり、およそ放課後デイにはふさわしくない(職員の)言動が告発されていました。
また 中には、ダウン症の子の横に別の子がカバの絵本を並べて「似てる」と言っているのを見て 職員が同調して笑うとか、突然の予定変更や臨機応変な対人関係が苦手なASDの子に対し 職員が背後から驚かせてからかうとか、おもちゃをバラバラにした子の足を職員が持ち「○○ちゃんの足も取ってあげようか」と言うなど、利用者児童の人権を無視したともいえる行動の数々が吐露されていました。
これらの実態にAさんは耐えられなくなり退職し、この事実を飯田市に通報しました。その後の同紙の取材に対し、飯田市は この施設のケースを心に傷を負わせる「心理的虐待」として県に報告したことは認めたものの、虐待の詳細については明らかにしていないとのことです。
一方、施設を運営する法人のB代表が取材に応じ、その中でB代表は「21年春頃のCくんは、いつも以上に情緒が不安定で 落ち着きのない行動が目立っていた」と説明したうえで「一部、その状況だけ見れば不適切な関わりがあったのは事実だが、どんな子どもとの関わりにも理由がある。」と応じたとのこと。
そのうえで、言葉での指導を忘れてしまうCくんへの関わり方について 職員5人で検討したうえで、出された案が「約束カード」だったとのこと。カードを首に掛けたのは「言葉で伝えるよりも Cくんが自分で確認でき効果が表れやすいと考えた」からだとか。
但し、カードの導入後も Cくんの不安定な状態に変化はみられなかったようです。
そして、Aさんが飯田市や記者に伝えた その他の事例については、B代表は否定したり はぐらかしたりしたようです。
「現場職員に聞き取りをした結果」として、ASDの子を背後から驚かせた件は「確認できなかった」とし、カバの絵とダウン症の子を見比べて職員が笑った件は「笑ったかもしれない」などとしたうえで「私も現場を見ていないから 分からない部分がある」としたそうです。
で…一連の取材の後、記者がAさんに取材内容を伝えると Aさんは「ボク一人だけが 子どもが傷ついていると感じた「変なやつ」にされている…」と悲嘆に暮れておられたとのこと。さらには(Aさんが)事例を通報した飯田市福祉課からも、心理的虐待と認定したとの知らせは「無い」とのことでありました。
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一連の記事を通じて、私なりに分かったこと・感じたことがあります。
一つは、施設の職員がCくんに行なった「×カード」の仕打ちは B代表の言い分とは全く逆、Cくんのためを思ったのではなく、職員の都合によって為(な)された仕打ちだったということです。
「放課後デイサービス」の本来の意義は「子どもの障がいの状態に配慮した計画的な訓練を行なう」ハズであるにも関わらず、ここの施設職員は Cくんの持つ障がい(の中身)を無視し 否応なしに(職員にとって)静かにさせるために威圧し、さらに「×カード」という 彼の人権を無視した仕打ちをしながら、その行為に何の疑問も抱かずにいた。いわば職責に背く背信行為ともいえる愚行が「施設内の常識」としてまかり通っていたことに 憤りというか違和感というか、何ともいえない気持ちの悪さを禁じ得ないところでありました。
また、これはブレーンでもある「Gotaホップ」チームのMくんの指摘でもあるところですが、Aさんの指摘と記者の取材によって虐待の事実が露見し それを飯田市も認めたにも関わらず、その事実や経過が いわば情報の発信元であるAさんに報告(フィードバック)されていないことが大いに問題視されるところです。
これは、行政(職員)の悪しき「習性」とも言える実態と思われます。
心ある市民から 何らかの指摘があったとき、それを受理し 対応(解決)するまではイイのですが、行政(職員)は それをもって完結としてしまい、肝心の(指摘した)市民への報告を行なわないままノートを閉じてしまう。
もし これが民間企業であれば、エンドユーザーからの指摘に対しては 必ず解決の経過について報告し、その顧客にご納得いただいて 初めて対応の完了となるところ…そのような〝社会常識〟に基づけば、現下(この飯田市の事例を含む)の行政の市民対応は「片手落ち」と断罪されるところでありましょう。
さらに B代表の言い訳めいた記者対応からしても、この施設(に限らず)での利用者対応は いわば〝井の中の蛙(かわず)〟たとえ社会的には非常識な行為であっても この施設では〝常識〟としてまかり通っていたことに、残念をとおり越して異常な姿と思わざるを得ないところです。
(この悪しき実態は、さきに逮捕者が出た 静岡の保育所施設の虐待に近いものがあります)
告発者のAさんが嘆くように、常識を持っている方が「変わり者」と言われる職場環境は 異常としか言えないでしょう。
さて、同紙の特集記事が始まって2日目、その記事の横に「長野県が、虐待の公表 在り方再考へ」の記事が載っていました。
それまでは 虐待の事実すらも知らないようなカオをしていた行政(県)が、いわば掌(てのひら)返しの対応変化ぶりであります。

これは いわばマスコミ効果といえるでしょう。
施設における悪しき実態が ペンの力で世間に露見したことで、施設・飯田市・長野県がのっぴきならない状況になってしまった。
しかし、果たしてこれでイイのでしょうか。
今回の成果とすれば、新聞掲載によって改善の兆しが見えたところですが、逆に言えば もしバレなければ、悪しき状況は いつまでも変わらず推移したところでしょう。
さらに言えば、今回 在り方の見直しを示唆したのは 県行政トップの長野県知事です。
それはそれで評価されるところですが、肝心の〝現場〟の職員・スタッフは どのような認識でいるのでしょうか。
本当に反省し、心から改善しようとしているのでしょうか。
施設においても、記者の取材に対応したのは 施設の代表者でした。
本来、Aさんの指摘を真摯に受け止め改善すべきは 虐待に手を染めた職員たちであり、取材に応じて自らの行為を答えるのは 当事者(職員)であるべきです。
しかし実際には、当事者(職員)は 代表者の陰(かげ)に隠れ、嵐の過ぎるのを待っているばかり。
これで本当に虐待は無くなるのか?もっと言えば 職員が本心から姿勢を改め、施設の目的に叶った利用者の支援に挺身するようになるのでしょうか?
残念ながら私は、懐疑的にならざるを得ないところです。
そのうえで私は 同紙記者に対し、今回の いわば告発記事を載せたうえには、一定の時間(期間)を経たうえで、この施設の追跡取材を敢行し (前掲のとおり)真に施設職員の意識が改善された(=利用者児童に対する態度が改まったか)を再検証してほしいと強く思うところです。
職員に都合のイイように悪しけく染められた施設の環境が、真に利用者児童の福祉に叶う施設に改善されていて初めて、この記事の成果が挙がったと評価されると思います。
2023年が幕を明け、それと同時に 正月の風物詩ともいえる様々なスポーツ大会が行なわれ、その熱い戦いを通じて 私たち観る者に興奮と感動を与えてくれています。
元日には「第67回全日本実業団対抗駅伝競走大会(ニューイヤー駅伝)」が行なわれ、寒風の上野(こうづけ)のロードで社会人ランナーが凌(しの)ぎを削りました。
長野県佐久長聖高校出身の大迫選手が11人抜きの激走をみせ、強く印象に残るレースでした。
2日~3日にかけては、第99回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)が開催され、学生ランナーの激走に大きな感動をもらいました。
私としては、1区のスタート時からいきなり飛び出した 関東学生連合の無名とも言える選手の力走が、何というか痛快な感…思わず「そのまま行け行け!」と声援を送ったところです。
残念ながら「記録」には残らないところですが、確実に 私たちの「記憶」に残る好走でありました。
さて、駅伝の次は 高校サッカーの頂点をめざす「第101回全国高校サッカー選手権大会」の準決勝以上の対戦が、国立競技場で行なわれます。
12/29から1回戦が始まり、激戦を戦った末に4チームが勝ち残り それぞれに頂点をめざすことになります。
この戦いの中でも きっと幾多のドラマが生まれることでしょう。
ところで、取りわけ この全国高校サッカー大会の場で ここのところ多用されているのが「ロングスロー」であり、その功罪が 現下のジュニアサッカー界を揺るがしていることが伝えられているとのことなのです。

そのうえで、真に選手の将来を思うサッカー識者は「ロングスロー」の多用について警鐘を鳴らしており、私も その意見に共感する者の一人です。

この通底には「全国高校サッカー」のようなトーナメント戦=勝てば次の試合に出れる⇔負ければ終わり との〝ノックアウト方式の大会〟の功罪があると言われています。
ここには、ノックアウト方式の大会が複数開催される日本と リーグ戦文化が浸透している欧州などにおける、サッカーに対する価値観の違いが見られるとのことです。
例えば日本では 試合があった日に「どうだった?」と聞かれると、勝った負けたや何点差だったとかの「結果」を答えます。ところが欧州では、どんなプレーをしたか・どういうゲーム内容だったか などと「中味=プロセス」を話し合うそうなのです。
サッカー識者によると、サッカーとは 刻々と変化する状況に応じた判断力を求められ、いかに「創造性」を発揮できるかを争う競技とのこと。
そんな中での「スローイング」の位置づけです。
かくいう私は 中学~高校とサッカー部(弱小でしたが)に所属し、ゴールをめざして仲間とボールを追っていました。当然、試合中は幾度となくスローイングを投じてきたものですが、それが 現代サッカーにおいては「ロングスロー」によって あわやセンタリングというほどの長いボールを投じることにより、ロングスロー(センタリング)→ダイレクトでヘディング→一発で得点 との、いわば短絡的な中で試合を決着してしまうようになっていることは〝次代の流れ〟であると同時に、それが「勝利至上主義」のノックアウト方式の中で〝勝つためには手段を選ばず〟の勝つための手段に いわばなり下がっていることが問題視されているのです。
サッカー識者は続けて「同じスローインでも しっかりと味方に繋ぐには相当な工夫が要ります。タッチラインから5メートル程度の位置にいる味方を使って いかに次の展開に繋げていくか、それだけでも多様な戦術が求められるのに 育成段階からロングスローに頼ってしまって良いものでしょうか。それは勝つためには議論の余地さえないもので、まさに勝利至上主義の環境が 短絡な手段を生み出してしまったと言わざるを得ないところです。」
「では、なぜ欧州諸国などでは 育成年代の全国大会を行なわないのか、それはまさに過度な勝利至上主義が選手の害になることを知悉(ちしつ)しているからです。そのうえで、欧州各国がロングスローを推奨しないのは、もし選手がトップリーグに入ったときには、高身長の選手が多い中 いくらロングスローを放り込んでも跳ね返されるばかりで、戦略としては愚の骨頂になってしまいます。もし指導者が、将来 世界に通用する選手を育てようという高い志を持つなら、ロングスローに頼ることは無益なこと自明の理です。」としています。
さらに「勝つために手段を選ばないなら、確かに大きな選手をペナルティエリア内に置いて ロングボールを入れてこぼれ球を狙う。それは一番簡単な方法です。しかしそれでは、サッカーを真に突き詰めた中での結果としては 決して望ましいものではないと言わざるを得ない。」と結んでいました。

サッカーにおける「ロングスロー」の功罪。
このことは サッカーのみならず、教育全般・もっといえば 社会における人の行動にも共通する課題なのかもしれません。
結果さえ出るならば、課程(プロセス)は二の次。どんな手を使っても〝勝てば官軍〟じゃないか との考え方、他方、結果のつじつまさえ合えば、途中経過はどうでもイイじゃないか、との考え方は 当事者の真の成長につながらないと 私も危惧する者の一人です。
たとえ遠回りでも、真に身につく努力を惜しまず行なうこと。
その努力こそが長い目で見たうえでの財産になると思いいたすところです。
ただ 最後に申し上げれば、私はロングスローを全否定しているのではありません。これも立派な戦術の一つであることは大いに認めるところです。
ただ、ね。勝ったもん勝ちの〝ノックアウト型人生〟は、余りに世知辛いと思っているからこその見解の一つであります。
新たな年を迎え、ややもすれば慶賀ムードに浸る記事が掲載される 年頭の地方主要紙の一面トップに、現下の社会に内在する問題記事が掲載され 耳目を疑い 注目させられました。
飯田市の放課後等デイサービス(学校に通っている障害のある子どもを放課後や夏休みなどの長期休暇中に預かる施設)で、いわゆる「心理的虐待」が行なわれていたというのです。

記事によると、発達障害などの障害を抱える子どもが放課後に通う 飯田市内の放課後等デイサービス施設で、2021年度に「心理的虐待」に当たる問題が発生していたとのこと。
当時勤務していた元職員によると、発達障害のある子の首に「×」を記したカードを掛けたり 四つんばいになった子の背中を机代わりにして職員が連絡帳をつけていたそうです。
この元職員は 2021年4月にこの運営法人で働き始め、直後から複数の事例を確認したとのこと。施設内での会話の録音や写真・メモなどで一部を記録し 代表に相談したものの改善されないと判断したため同年12月に退職。22年1月に 約20件を飯田市に通報しました。
飯田市福祉課は通報を受け、障害者虐待防止法に基づく実地調査を実施。通報内容と 代表が職員から聞き取った報告を照らし合わせ、暴言や不当な差別的言動などの心理的虐待があったと判断し 長野県に報告したうえで、保護者への説明や改善に向けた取り組みを法人に指示し 今後も継続して指導するとのことです。
その一方で、市と県は問題自体をを公表していないとのこと。飯田市福祉課は取材に対し、心理的虐待と判断したことを認めたものの 通報があったうちどの事例を虐待と認定したのかや被害を受けた子どもの数・発生時期などの詳細を明らかにしていません。
長野県障がい者支援課に至っては、飯田市から報告を受けたこと自体も認めていないとのことでありました。
また 運営法人の代表は取材に「その状況だけを切り取れば、不適切と考えられる関わり方が複数あったのは事実」と話したうえで、改善に向けて職員に研修を受講させ 月1回のミーティングで虐待防止を話し合っているとのこと。
保護者には定期的に発行する通知で、虐待に関する通報があり行政指導があったことを伝えたとのことです。
今回の報道を通じ 同紙は「(事態/実態の)公表が無ければ、教訓を共有できない」と問題提起しています。
そのうえで、この手の問題について あまりに公表されていなさ過ぎる実態を伝えていました。

記事によると、今回の 飯田市の放課後等デイサービス職員による心理的虐待…厚生労働省のガイドラインは「障害の状態に合わせ、子どもが他者との信頼関係を経験できる支援をするよう(放課後等デイサービス施設に)求める」との大前提を示したうえで、今回の飯田市の施設は、そのガイドラインにも背(そむ)き 集団生活や意思疎通が苦手な発達障害の子どもらに心理的負荷を与えた可能性がありますが、県と市は その事実を公表していないこと、虐待の事実は いわばブラックボックスに封印され、例えば この施設利用者や家族は(事実を)知る術が無いことを指摘していました。
そのうえで、発達障害の子の増加を受け 放課後等デイサービス施設は全国的に増加していること、そして それに伴い、施設での虐待事案も増えていることを伝えています。
今回の記事の切り口は、同紙記者による 飯田市に通報した人物への取材でした。
当時、まさに現場に勤め その悪しき実態を目にした人の証言(それも実態を記録した録音・写真・メモあり)は揺るぎない証拠となりました。
ところが、障がい者福祉施設の虐待を担当する飯田市福祉課は、当初の取材に「個別のケースには回答しない」としていたのです。
そこで記者は 当該の障がい者福祉施設の運営法人に取材を進めると 飯田市から指導を受けたことが判明しました。そのうえでの取材に対し 法人の代表は「職員と子どもの関係が馴れ合いとなり、客観的に見たら虐待と思われる関わり方が普通になっていた。」と説明したとのことです。
それを受けて 飯田市福祉課に再度説明を求めると、心理的虐待があったことを認めたものの 相変わらず詳細は答えなかったそうです。
他方、長野県障がい者支援課は「県による指定の取り消しなどの行政処分をすれば公表するが、そうでなければ公表しない」としているとのことです。
都道府県は、障害者施設で虐待があった場合「障害者虐待防止法」に基づき 施設の種別・職員の職種のみを公表することになっているそうです。
それによると 2021年度分は未公表で、2020年度は県内の障害者施設で12件の虐待があったものの いずれも詳細は公表されていません。このうち1件は放課後等デイサービスだったとのことです。

[参考]長野県における障がい者虐待の状況 (長野県HP)
↓
https://www.pref.nagano.lg.jp/shogai-shien/gyakutaikensu.html
記事は最後に、福祉や保育の現場での虐待が全国で相次ぎ明らかになっている中、22年12月には 熊本市の乳児院で職員が乳幼児に「顔面偏差値低いよね」などと発言、市が心理的虐待と認定したことを地元紙が報じ 乳児院が記者会見を開いて詳細を発表したことを伝え、最後に 障害者虐待に詳しい弁護士が「放課後等デイサービスは 法律に基づき公費で賄われていることから、そこで子どもを心理的に傷つける行為があったと判断したならば 行政は被害者のプライバシーに最大限配慮した上で公表するべきではないか。」と指摘している、とまとめていました。
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今回の 地方主要紙の〝一面トップ記事〟は、発達障がい者施設(=福祉施設)で 半ば常態化している虐待について、独自の取材で切り込んだことによる成果であると申せます。
そのうえで 先ず記事の内容について触れれば、この施設での「心理的虐待」が、利用者さんにとっては 暴力などの〝物理的虐待〟よりも 傷(=心の傷)を負う可能性があるにも関わらず、それが表(おもて)に出ない実態があること⇔それは行政においても同じ:傷害など刑事事件にでもならない限り公表に至らない実態にあることが問題視されます。
さらに、施設側においても 被害者の心理を余所(よそ)に「職員と子どもの関係が馴れ合いとなり、客観的に見たら虐待と思われる関わり方が普通になっていた」などと 事態を軽く見ている傾向にあることが ときに腹立たしく思えるほどです。
で…今回の事案において 非常に残念なことは、虐待の実態を把握・問題視したうえで 勇気をもって代表者に告発した職員が、それに対する施設(代表者)の対応に失望し、その施設を辞めるに至ってしまったことです。
いわば正義が悪に屈してしまった経過には 歯がみすら覚えるところです。
そんな中でも一筋の光明は、今回の事案をキッカケにしたのか どうやら同紙が この種の問題に対し、本気で取り組むことになったことが 併せ報じられていることです。

同紙では 4日付の紙面から「ふつうって何ですか? 発達障害と社会」として、発達障がいと社会との関わりについて連載を組むとのことです。
同紙(記者)が どのような形で発達障がい⇔社会について切り込んで(掘り下げて)ゆくのか、私の立場でも注目してゆきたいと思うところです。
今回の記事掲載は、私たち=社会福祉の在り方を訴求するグループ にとっても、大きなキッカケになることと思います。
私が 事(こと)につけてアドバイスを乞う「Gotaホップ」なるチームは、長年に亘り 長野市(内)の知的障がい者支援施設(団体)に内在する諸課題(諸問題)について追跡を続けており、まさに 今回の飯田市の事案と同種の〝見えざる課題〟について検証・掘り下げ活動を継続的に行なっているのです。
今回、飯田市の事案が マスコミ(新聞)手により公表(公開)の〝日の目〟を浴びました。
このことを(イイ意味での)轍(てつ)とし、長野市(内)における知的障がい者支援についても、その在り方について 市民みんなで考えるキッカケを提供できればと考え、関係者と協議を進めてまいりたいと存じます。
ただ…かかる「Gotaホップ」チームは、単に知的障がい者支援の現状を指摘することに止(とど)まりません。
障がい者支援事業における 虐待などの悪しき実態が有るや無しやの事実関係の解明はもとより、その奥底にあるもの…障がい者支援事業が、本当に障がい者支援に結びついているのか との「根本的な問題」に焦点を当て、それは 長野市の障がい者支援のみならず、社会全体の障がい者支援に対する問題提起につながることと確信し、取り組みを強めてまいります。
「新年早々…」というようなタイミングで掲載された、県内自治体における障がい者支援事業における問題提起の記事。
今年いちねんを占うような記事に、身震いすら覚えたところです。
2023年/令和5年が幕を明け、初日の出の来光を仰ぐに至りました。
日の出と共に、今年いちねんが本格胎動となりました。
取り分け今年は 私(たち)にとって、統一地方選挙の〝選挙イヤー〟改選期になることから 旧に倍しての努力を重ねてまいる所存であります。
みなさまにおかれまては、改めてご指導ご鞭撻のほどを 重ねてお願い申し上げます。
今年の元朝は清々たる陽気で 初日も周囲に明るい陽光をもたらしてくれ、その神々(こうごう)しさに 思わず手を合わさずにおれませんでした。
今年いちねんが実り多きものになりますように。

時間経過と共に昇り続ける太陽は、八幡原公園の池に光の筋を投影していました。

何か、私(たち)に行くべき道を指し示してくれているよう…「迷わず真っ直ぐに進め。」陽光に激励されているかと勝手に思い、自らを鼓舞したところです。
池の鴨(カモ)たちは、穏やかに 浅く氷の張った池上(ちじょう)でまどろんでいます。

元旦の朝の、つかの間の平穏なひとときでありました。
ところが その後、実家のオフクロから電話があり「ストーブ(の火)がつかなくなった!」との〝SOS〟が入電?され (長野ことばで)飛んで行く事態に。
ウチのオフクロは、旧来からの「反射ストーブ」派なのですが、どうやら長年使ううちに火芯が減って 火が回らなくなったようで、本体に灯油は入っているものの 火芯はブスブス燻(くすぶ)るばかりで点(とも)ってくれません。
確か 物置に使わないでいる同型ストーブがあったハズ、と、2時間かけて物置をひっくり返し(苦笑)ホコリを払って入れ替えたところです。
オフクロからは「新年早々悪かったわね…」と詫(わ)びられましたが、考えようによっては この逆のケースだったらと思うと、背筋が凍るところ「こんなトラブルで済んでよかったヨ。」としみじみ言ったところです。
今回のオフクロのケースは ストーブの火が「つかなくなった」ですが、これが ストーブの火が「燃え上がった」だったとすれば…木造家屋などはひとたまりも無く全焼する惨事となることは まさに〝火を見るより明らか〟なことでありましょう。
社会の大きな節目である正月。さまざまな事項が〝全休モード〟に入るところですが、社会事案は それ(全休)を待ってくれません。
昨年の大晦日には、山形県鶴岡市の集落の裏山で 幅約100m・高さ20~30mに亘る土砂崩れが起き、住宅を含む約10棟が巻き込まれた突発的な自然災害が発生しました。今も住人の高齢夫婦との連絡が取れていないとのことです。

識者によると、集落が背にする小山の地盤(岩盤)が 風化によって脆(もろ)くなっていたところに、折からの降雪の〝雪解け水〟が大量に浸透したことで地盤そのものが重量を増し、それが臨界点を超えた瞬間に その深層部分からいきなり崩れる「深層崩壊」が発生したようです。
いずれにしても 年末年始のこの時期に容赦なく起きた自然災害には、その無碍(むげ)なることを嘆くばかりでありました。
また 観光名所でもあり、寒いこの時期には人々が癒やしを求めて足を運ぶ伊豆の温泉宿では 元日のこの日に火災が発生、宿泊客や従業員など約100名が避難することとなってしまいました。
幸い 死者は無いとのことで安堵したところですが、よりによって元日の火事とは 残念極まりないところです。

また 自然災害や火災とは類(たぐい)は異なるものの、私は取り分け 主に高齢者の「餅(モチ)が喉(のど)に詰まる事故」を大いに注意喚起するところです。

消費者庁によると、主に高齢者の〝餅による窒息死亡事故〟は、特に正月の三ケ日に多いそうです。
そこには「せっかくの正月だから せめて餅くらいは食べさせてあげたい」との〝家族愛〟があるところですが、そこに思わぬ落とし穴があることを自覚(自戒)したいところです。
高齢者は 加齢とともに▽歯の機能が衰えて 噛む力が弱くなる▽飲み込む力(嚥下/えんげ)が弱くなる▽せきで押し返す力(咳反射)が弱くなり、窒息が起きやすくなる とのことです。
その予防方法としては・餅を小さく切り 食べやすい大きさにする・先にお茶や汁物を飲み 喉を潤(うるお)してから食べる・ゆっくりとよく噛む などがありますが、私は特に「先にお茶や汁物を飲み 喉を潤(うるお)してから食べる」をお勧めするところです。
と いうのも、私の亡父が (餅ではありませんでしたが)やたら食べ物を詰まらす傾向にあり、そのときの主治医の「先にぬるいお茶を飲ませて」とのアドバイスによって改善された経緯があるのです。
このことは、餅を詰まらせるのが 男性(おじいちゃん)が比較的多いことに表れています。
女性(おばあちゃん)は、日常的にお茶を飲む傾向にあることから いわば 常に喉が潤っている状態にあり、餅を食べたときも スムーズに嚥下することができますが、こと男性(おじいちゃん)は お茶などを嗜(たしな)まず いきなり餅を食べる(飲み込む)傾向があることから、乾いた状態の喉の内側に 餅が貼り付いて詰まる、となってしまうようなのです。
いずれにしても、せっかくのお正月 大過なく笑顔のうちに過ごしたいもの、ちょっとした気遣いで 事故を未然に防ぎたいものです。
ここのところの 自然環境を含めた社会情勢は、本当に予断のならないこととなっています。
私たちは「正月だから何ごとも無し」との〝正常化バイアス〟に依(よ)らずに社会生活を送るを余儀なくされていると申せます。
旧年が暮れ、新たな年/令和5年を迎えました。
皆様には、昨年中のご薫陶に心から御礼申し上げますと共に、本年も倍旧のご支援ご鞭撻のほど 改めてお願い申し上げる次第であります。
顧みれば、令和4年もまた「光陰矢の如し」…アッというまに過ぎた日々でありました。
社会は未だコロナ禍の最中(さなか)にあります。
長野市においても、連日に亘り3桁の感染者数が報告されていますが、片や 社会経済の復興を期して様々な規制が緩和され、私たちは その2つの流れの中で社会生活を送ることになっています。
まさに〝コロナ過度期〟ともいえる時流の中で、新たな年はどのように推移してゆくのでありましょうか。
昨年は 私にとって、地道ながら「地域社会の状況を質(ただ)す」を緒に就けた年であり、今年は それをさらに〝深掘り〟すべく取り組む年といたしたく存じております。
長野市が進める「公共施設マネジメント」の進め方について、総務省の方針に盲従して施設の削減のみを進めようとする長野市の方針に警鐘を鳴らし、市民の方々と連携しながら〝廃止ありき〟の方針に(イイ意味で)待ったをかける端緒の役割を果たしてきました。
そのうえで その手法として、単なる反対運動ではない「意見交換」の場を設けることで、市民と行政が対等に向き合い意見を交わし 事態をより良い方向に導くことに努め、結果として成果に結びつけることができました。
このことは 私だけでなく、行政職員にとっても有為な経験となったことから、本年も引き続き かかる〝対話型手法〟で 内在する諸課題に向き合ってゆきたいと存じております。
一方で、取り分け市内の福祉事業について いわば根深い問題があることを知らされたことから、このことについても 今年は更に掘り下げながら諸課題に対峙してまいりたいと存じております。
但し、その取り組みの通底は「良くすること」…ややもすると課題に臨む場面においては、単なる追求や糾弾に終始しがちですが、私は そんな〝政治的パフォーマンス〟に終わらないよう、あくまで課題は課題として検証するものの そこ(検証・追求)で終わらせることなく、何というか「膿(うみ)を出し切ったうえで傷を治す」ような、事態を最後まで見届ける いわば責任感を心中(しんちゅう)に期したうえで課題に取り組む姿勢をもって 事(こと)に臨んでゆきたいと思っております。
その他、これまでも取り組む「スポーツコミッション」の意義に基づく 市内スポーツの在り方の検討や様々な地域課題など、やるべきことは枚挙に暇がないところでありますが 私の信条とする「一日一生」の意気をもって、全ての課題に全力を尽くしてまいる所存であります。
私の人生の中で、自らの引導により 多くのものを失い、そして 多くのことを学ぶこととなった 出直し人生。
その際に 私自身が出した結論…私の これからの人生に残された道は「地域貢献」ただ一つであること。
そのうえで 私の行動の指針は「みなさんのために 何ができるか。」それを最優先に考えて 生きてゆくことといたしました。
これからも試行錯誤が続くであろう人生行路の中で、迷ったときは「みなさんのために どうすべきか。」このことを指標に、令和5年も歩んでまいります。
〝読者〟のみなさん、私に心を寄せてくださるみなさん。こんな私を、これからも ときに温かく、ときに厳しく見守り続けていただければ幸甚に存じます。
早いもので、今年は改選の年。決意も新たに頑張ってゆきます。
今後とも どうぞ宜しくお願い申し上げます。

去る日、実家のオフクロに頼まれ いつもの買い出しに(実家の)近所のスーパーに出向いたときのこと。
電話で聞き取ったメモを見ながら「え~と…塩ザケに豆腐、天ぷら粉にタマゴ…」と ひと亘りの買い物を終えてレジに並びました。
私の前にいるのは 妙齢のご夫婦で、カートから降ろした商品カゴを「ドスン!」とレジ台に置きます。
その勢い?に 私はややビックリしましたが、レジを預かる店員さんは 笑顔で「いらっしゃいませ。」と応じていました。
商品をスキャンする前に 店員さんは「〇〇カード(このスーパーの会員カード)はお持ちですか?」と聞いたのですが、その(笑顔の)問いに 旦那の方が「無い」と ぶっきら棒に一言。
それに対しても店員さんは「失礼いたしました。」と笑顔で応じていました(店員さん側に何の非も無いのに「失礼いたしました」です)。
そうこうしているうち(レジを打つうち)今度は 女房の方が「あ、レジ袋つけて。」と いきなりの一言。
それも、分かりますかね…私流に言うと〝アゴで物を言う感じ〟アゴ上げながら「レジ袋つけて」との一言。
それに対し店員さん「袋にはサイズがございます。Sサイズ・Mサイズ…」と言いかけると、その説明を折るように「L!」と 件(くだん)の女房は イラついたように言葉を吐き出したのでした。
このやり取りを見ていた私…こっちの方が腹が立ってきました。
この夫婦モンは 70才代でしょうか、それに応じるレジの店員さんは どう見ても20才そこそこ、何というか 親子・ひょっとしたら孫にあたるような年齢差のように見受けられるところでした。
そんな 親が子に接するようなシチュエーションの中なのに、この夫婦モンの不躾(ぶしつけ)で不遜(ふそん)な態度は何なのでしょう。
もしかしたら、自分の子供が社会で働く中で(接客などで)辛い思いをしてるんじゃないかなどと思いを及ぼせば、こんな年端の子(店員さん)に こんな態度は取れないハズです。
が、それは人それぞれの社会環境もあることから 私のそれ(ハラ立って思ったこと)は 単なる思い込みに過ぎないところではありますが…。
その後 この二人は、会計が終わって「ありがとうございました。またお越しください。」の店員さんの呼びかけも〝ガン無視〟し、揃ってサンダルをズルズルいわせながら去っていったのでした。
で…そんな対応をされた店員さんでしたが、私の番になると 何ごとも無かったような笑顔で「いらっしゃいませ!」と 向き合ってくれ、その健気(けなげ)な様子に「メゲずに頑張って!」と心の中でエールを送ったものでした。
こんな レジでの(客の)高慢な態度…これは この場だけではないことが言われています。facebookのサイトでは「レジ業務あるある」が紹介されていました。
この投稿者さんは「お客の中では、ヤンキーなお兄さんより 団塊のオッサンの方がよっぽどタチが悪い。」とのこと。これは 私が見た事例に符合しますよね。

また、お客みんなに言いたい苦言も。
「態度悪い客があまりに多い。日本人が礼儀正しいのがウソだって 接客してるとよく分かる。もう義務教育で 人との接し方を学ばせないとヤバいと思う。」とまで吐露していました。

さらには 前掲の「レジ袋」関連で、こんな記事も。
妙齢の客のぶしつけな態度に、やはり妙齢の店員さんが正論で切り返す様子が伝えられていました。
そのとおりだよね。

謙譲と謙遜の民族と言われる日本人ですが、現状は決して芳(かんば)しいとは言えないようです。
考えてみれば これまでの日本の歴史の中では「士農工商」なる身分格差や 男尊女卑の意識など、いわゆる差別を助長する思考が定着していました。
そこへきての「お客様は神様」的な〝〇〇絶対論〟が日々エスカレートし「オレはお客様だ。文句あるか。」との傍若無人な振る舞い(今でいう カスタマーハラスメント)は 目に余るものがあります。
で このことは、このレジ対応に限らず、例えば煽(あお)り運転などの 悪しき社会現象でも顕著になっており、年の瀬に際し 由々しき思いを新たにさせられるところです。
どうかみんな「思いやりの心」を持ってほしい。
何らかの事象に接したとき、もし 自分が相手の立場だったらどう思うか。それに思いを寄せるだけで、ぶしつけな態度や暴言は鳴りを潜めてくれることでしょう。
何かと世知辛く、暗いニュースが多い今だからこそ、せめて人と人は温かい関係の中で時間を過ごしてほしい…年の瀬を迎えるに際し、心から思うところです。
年の瀬に際し、長野市消防団で 28日から30日にかけて、暮れの社会安全を期して 歳末警戒活動を行なっています。
この日(29日)は「本部巡視」として、所轄の消防局長・警察署長・市消防団幹部による 各分団へ激励のための巡回が行なわれ、夜気の中に団員が整列、激励のための訓示を受けました。

もとより消防団は、生業をもちながら ムラの社会安全維持の担い手として 火災・風水害等の「災害防御」や、火災を出させないための「予防消防」を行なうなどして、地域防災上 重要な役割を果たしていただいております。
特に 年末を控えたこの時期は、社会全体が慌ただしい中にあって 不測の事態が起こらないように警戒活動を行なってくださり、その不断の取り組みのおかげさまで 私たちは安心して年の瀬を迎えることができるところです。
社会は未だ〝コロナ禍〟の最中(さなか)にあり、消防団活動も さまざまな面でリスクを負うことになってしまっていますが、そんな逆境にも負けず 各団員さんらは「地域の安全は地域の者が守る」との崇高かつ強い意気をもって諸活動に挺身しておられるのです。



(火災現場での補助(支援)活動)
彼らの存在と その活動は、地域住民の社会安全を確実に守ってくれているのです。
各消防団(分団)においては、地勢や人口動態など取り巻く社会環境に差異はあれど「住民生活の安心・安全を守る」という点では共通しているところであり、これからも かかる崇高な意義を胸に活躍してもらいたいと 大きく期待するところです。
・・・・・・。
かかる崇高な使命を帯びた消防団活動ですが 一方で、世の中が どんどん世知辛くなる中、やれ半鐘(はんしょう)や拍子木(ひょうしぎ)の音がうるさいだの、積載車(消防車両)の赤灯が眩しいだのと 心無い声が寄せられ、消防活動も 何というか〝自粛ムード〟となってしまっていることが伝えられています。
このことは 消防団活動に止(とど)まらず、取り分けて市民の生命を守る救急車のサイレンに対しても「うるさい!」との いわば心無い声が投げかけられていることも知る中で、それらの情報に触れる毎(ごと)に 何とも残念な思いにさせられます。

で…ここのところ、いわゆる〝騒音トラブル〟が 非常に増えていると感じさせられています。
で 私は、そのトラブルの原因である「音」が、どのような形(根拠)で発せられているのかが いわば〝事(こと)の善し悪しの分岐点〟になっているのではないかと考えます。
①先ずNGなのが「故意に発生される音(=騒音)」でしょう。これは論外。
②それに対比されるのが「やむを得ない音」これは(前掲の)救急車のサイレンや、歳末警戒の半鐘など 「音」自体が 市民の安心安全を守る手段となっているもの、これは〝音を聞く側〟が受容すべきものと思います。
③あと 微妙なのが、(私流にいうと)「未必の音」これは悪意をもって発するものではありませんが、うるさいと思われても仕方が無いと思いながら発する音…例えば ご近所同士の会話や家事などで出る生活音・(そして 話題となっている)公園や庭での子どもの歓声などが該当するところでありましょう。
そのうえで最近は、②と③の音を受容できる 社会(近隣住民)のボーダーライン(臨界点)が下がってきている(=ちょっとした音に過敏に反応する)のではないかと 併せ感じるところです。
そこに、現下の いわば〝主張する社会傾向〟が手伝い、やや過敏な〝音への苦情〟が増えているのではないでしょうか。
いずれにしても 故意では無い音に関しては、どうにか受容してもらえないものかと しみじみ思うところです。が、その(音への)ストレスは当事者にしか分からないものですが、そこ(受容の要件)に「(消防団活動のような)社会的意義」を加味していただき 受容のボーダーラインを上げてもらえれば、昨今のようなトラブルは減るのではないか、もっといえば 聞こえる音を受容する意識と、それ(うるさいと思う気持ち)を心の中で溶解する「寛容の精神」を発揚してほしいと重ねて思うのです。
いずれにしても、消防団活動は 地域の社会安全の維持に欠かすことはできない。これだけは 私の立場でも確信をもって言わせてもらうところです。
夜のニュースで、政府(総理官邸)が「東京圏から地方に移住する世帯について、18歳未満の子どもを帯同した場合の「移住支援金」の加算を 現在の子1人当たり最大30万円から100万円に引き上げる」との方針を決めたことが報じられました。
このニュースに触れた私は「ちょっと違うんじゃないか?」と 違和感を禁じ得ませんでした。

これは、少子化が進む地方の現状に配慮した「地方創生移住支援事業」の一環とのこと。
移住世帯への 教育費など経済的な負担を軽減し、地方への人の流れを強化したい考え。東京23区に住んでいるか 東京圏(東京・埼玉・千葉・神奈川の4都県)から23区に通勤している人を対象とし、地方や条件不利地域に移住した場合 一定の条件に基づき都道府県と市町村が共同で支援金を給付するもので、国も自治体に補助するものです。
現在、1300弱の市町村で事業が実施されており、(現在は)1世帯が移住する場合 約100万円の支援金に加え、帯同する子ども1人当たり最大30万円の支援金が支給されています。
このうち 子ども1人あたりの加算金が100万円に引き上げられることで、1世帯あたりの支援金は200万円以上に引き上げられることになります。

(繰り返しますが)これを聞いた瞬間「ちょっと違うんじゃないの?」と思った私。
これって、私だけが抱いた感想でしょうか。
確かに、未だ わが国は〝東京一極集中〟の傾向が止まず、東京へ東京へと人が流出する中、地方に暮らす いわゆる現役世代の人口は減り、それに伴い地方の高齢化が伸張しているところです。この状況への対応・対策は喫緊の課題であることは共通認識とするところです。
ところが、その対処療法として「移住するなら200万」とニンジンをぶら下げる〝施(ほどこ)し策〟、果たして真の地方創生につながるのでしょうか。
類(たぐい)はやや異なりますが、今回の支援金事業に 私は、かつて行なわれた「アベノマスク」のバラマキ事業が思い起こされました。
この、いかにも霞ヶ関の官僚が考え出したバラマキ事業は、多くの国民の意識を何ら配慮することなく〝施す側〟の自己満足のままに(使いもしない)マスクがバラ撒(ま)かれ、結果 税金の無駄使いとなったものでした。
物事の本質を見極め 抜本的な対策を行なうのではなく、どこか場当たり的・対処療法的な対応である感が否めない。
真に地方に人を呼び込む・首都圏に暮らす人(世帯)に地方暮らしを促そうというのなら、先ずは地方の経済活性化・地方の産業力の強化などの経済対策や 地方の公共交通維持促進などの地方社会インフラ整備を行ない いわゆる受け皿を整えること、そのことで 人は自然と地方回帰に動くところですが、その具体的対策が見えないままに「カネをやるから地方に行け」的な考え方には 違和感を禁じ得ません。
さらに言えば、東京→地方移住の支援金は いわば〝片道キップ〟です。
問題は、(地方に)行ってからの日常生活です。田舎に行った後にも豊かな社会生活を送れる環境こそが整備される本質であり、それを無しに「とにかく田舎へ」と促すことは ある意味リスキーな面が多いのではないか。
そして 何いう、その資金元は国民から広く徴収した税金であり、それを この手のバラマキ事業に支弁することには、人によっては反発を招くことにもなるでしょう。
今回の支援事業に際し、ネットのコメント欄には やはり違和感を感じるとのコメントが寄せられています。
「政府の金の使い方は、昔の親分の仕切りのようで どこか「施(ほどこ)してやる」という匂いがする。地方経済の活性化など根本的なことをせず、手っ取り早く金で歓心を買おうとしているように見える。 税金はあなたの物ではないのだから もっと丁寧に検討して使わなくてはならない。」
「地方支援と言ってお金を渡すのは簡単だけど、一番大事なのはいかに地方で暮らし続けられるかだと思う。そのためには、地方での雇用の確保や いかに地方で仕事が見つけられるかということだと思う。人も金も首都圏にばかり集めるのではなく、地方にも流れるような仕組みを国民皆で考える環境をつくることこそが。国の責務だと思う。」
「地方の人口減少対策は長年学術的な研究に基づかない安易な政策を繰り返して、結果として幾多の失敗を重ねてきた経緯があります。 子供1人あたり100万円を配ったら問題は解決できるのか?転居した家庭の子供は、転居後に転居前と同じ程度の将来の可能性への機会を享受することができるのか?支援金を受け取っている間だけの移住で終わる可能性はないのか?多くの課題が未解決です。」
「政治ができることの一つは富の分配であるといわれますが、支援金や補助金で解決できる問題かどうかをまず判断しなければなりません。岸田首相の政策の特徴は、何も考えないで すぐに金を配って解決しようとするところにあります。 地方の生活環境や就労環境の問題解決は別のアプローチが必要です。」
我が国の焦眉の課題でもある 人口の一極集中傾向。
それを抜本的に解決するのは「支援金の増額」だけでは無いハズです。
25日(日)、京都は都大路で開催された「第34回 女子全国高等学校駅伝競走大会」で、長野県代表の 長野県長野東高等学校陸上部女子駅伝班が、最終5区で逆転劇を演じ、みごと初優勝を飾りました。


未だ収束をみないコロナ禍など、なかなか明るい話題に恵まれていない地域にとって 一筋の光明ともなるビッグニュースとなりました。
これまでも触れていますが、長野東高校は 私の出身校でもあり、そういう点でも二重三重の喜びとなったところです。
長野東高陸上部の女子駅伝班は、前任の玉城監督(現 日体大監督)が就任以来 16年連続で長野県代表として都大路を駆け抜けています。
この間、初出場で8位入賞を果たし、その後は29回大会・30回大会に連続して準優勝に食い込むなど健闘を重ねており いわば「都大路常連校」として定着していますが、大会ごとに その順位は上がったり下がったりで、いわば駅伝の難しさを実感しながら推移してきたものでした。

その後、玉城監督が日体大監督になられた後を任された横打(よこうち)監督は、いわゆる〝玉城イズム〟を継承しつつ、長野東ならではのトレーニングを重ねてこられたのでした。
そして臨んだ今大会。
横打監督は、エースで3年生の村岡選手をアンカー(第5区)に配置する作戦を策し、いわば勝負を賭け、結果として それが見事に当たった形で初優勝をつかむこととなりました。
今大会では、優勝候補に挙げられていたチームが 軒並みエースを最長区の1区に起用、序盤から主導権を握ろうとする作戦で臨んでいました。
これに対して長野東の横打監督は、エースの村岡選手を敢えてアンカー(5区)に配置する作戦を執りました。
その背景には、選手の個性を十分に把握した監督の洞察力と 監督⇔選手との信頼関係が欠かせません。
横打監督は、村岡選手は一斉スタートで集団に揉まれる展開よりも 終盤に1対1となる展開でこそ実力を発揮するという(選手の)特性を見極め、敢えての形で(村岡選手を)アンカーに配置したそうです。
そのうえで横打監督は、そんな思い切った作戦でチャレンジすることを(メンバー配置により)他の選手に伝え、チーム全体として奮起を促すよう計(はか)ったとのことです。
そして、そんな監督の「思い」に 選手は見事に応えたのでした。
「エース村岡を5区に」この起用はチーム全体に刺激を与え、村岡選手に代わって1区を任された2年生の名和選手は「自分が結果を残すことが必要だと考えていた」と 各チームのエースに食らいつき、トップと6秒差の4位と好走しました。
その後も選手全員が区間上位の安定した走りを見せ、アンカーにつなぐ4区では 3年生の佐藤選手が区間賞の走りでトップと13秒差と逆転を狙える位置でアンカーの村岡選手に襷(たすき)をつなぎました。

ゴール後のインタビューで村岡選手は「トップとの差が思ったより近くて想像以上だった」と驚くほど。そして、期待どおり 得意とする1対1のレースで力を発揮したのです。
トップと13秒差で襷(たすき)を受けたアンカー村岡選手は、残り2km余りで先頭を走る仙台育英を捉え 一気に抜き去ります。

その後はリードを広げ、トラックに戻った彼女は笑顔でゴールテープを切ります。

1時間7分37秒の好タイム、チーム一丸となった走りで初優勝を果たしたのでした。

初優勝を演出した横打監督は「本当にすごい子どもたちです。思い描いていたレース展開となり成果が表れて良かったです。」とレースを振り返りました。
その上で監督の次の言葉は「長野の地域の方々に支えられて活動することができているので、恩返しすることができてよかった。」と語り、地域との結びつきを強調されていました。
アンカーとして逆転の立役者となった エースで3年の村岡選手も「自分でもびっくりしています。たくさんの方の支えがあったからこそ優勝をつかみとることができました。」と話し、監督・選手が共に〝地域とのつながり〟を吐露しておられました。
これまでも触れていますが、全国に数多の強豪校がいる中 長野東高ほど地域とのふれあいを深め、地域住民に愛されているチームは無いのではないかと強く思います。
長野東高は、決して恵まれた環境で練習を重ねているのではありません。
遡(さかのぼ)ること平成17年、地元住民の強い要望を受け私が仲立ちとなって 犀川の河川敷の「アカシアの杜」なるマレットゴルフ場を地域の方々の手造り・手弁当で造成した際、その隣りに やはり手造りのサーキットコースを設(しつら)えたのです。

その際には 所管の国交省千曲川河川事務所と交渉役を担い、非常に厳しい制約をかいくぐって みんなの力でマレットゴルフ場&サーキットトレーニングコースの併設を実現したのでした。
そんな造成を巡る苦労を知る(前任の)玉城監督は「地域への感謝」を前面に掲げ、ただ単に速さを求めるのではなく「地域への貢献と共生」を指導の基本に据えて歩んでこられました。
その(監督の)意(い)を正しく理解した歴代の部員たちは、ただ速いだけではない 礼節にも秀で、地域貢献の気持ちを深めながら 手造りコースで走り込みを重ねてきたのです。

「ただ速いだけではない」彼女らは、隣接するマレットゴルフ場で清掃・整備作業が行なわれる際には 自発的・積極的に作業に参加してくれます。

そのうえ、彼女らが下宿する地区(若葉町区)の住民運動会の折には〝補助員〟をかって出てくれ、地域の行事のサポート役も担ってくれているのです。

これは、前任の玉城監督の「地元の方々に感謝の念を」との教えが身についていることの証左であり、そんな親しみやすい側面を有した彼女らは まさに地域の愛娘として、家族の如くの親愛をもって挙げて応援されているのです。
初の全国制覇を果たし 一躍を成した長野東高女子駅伝班でしたが、大会が終わり帰長 学校への報告を終えた後に、まっ先に向かったのは 地元住民の方々が待ち受ける犀川河川敷の練習コースでした。
愛娘たちが成し遂げた快挙を心から喜んだ〝地元のおとうさん・おかあさん〟たちは、選手の凱旋を祝わんと 寒さの進む河川敷コースに集まり、心から歓待しておられました。
お祝いの言葉を贈る 地元後援会長のSさんも感極まった様子で、それはまさに子を思う親御さんの心境そのものと拝察されたところです。

選手らも まるで実家に帰ったような笑顔を浮かべ〝育ての親〟の方々を前に、感謝の思いが結果につながった感慨を胸に優勝報告を行なっていました。

その後は、地元のおとうさん・おかあさんと優勝の喜びを分かち合うひとときが。
普段から選手の面倒をみているじいちゃんが、柄に合わない(失礼)花束を贈ると、愛娘らは驚くやら喜ぶやら。

そこここで、テレビで手に汗握って応援した様子を話す人、それを笑顔で聞く選手らと話しの花が咲いていました。
みんな一様に、笑顔・笑顔です。



愛娘らからは 祝意の御礼にと、心ばかりのプレゼントのお菓子が贈られます。
「口に入れるのがもったいない。」と、うやうやしく?受け取っておられました。


地元に根ざし、地元のみなさんと歩み(この場合は〝走り〟ですか)続けてきた長野東高陸上部女子駅伝班は、十数年の歴史を経て全国の頂点に立ちました。
しかし彼女らは、何ら奢(おご)ることなく 謙虚な姿勢をそのままに、これからも走り続ける決意を新たにしています。
訊けば、新年早々には「都道府県対抗駅伝」への出場が内定(高校生ランナーの部)しており その次なるレースに備えて直ちに練習が再開されるとのこと。
「勝って兜の緒を締めよ」を地でいく好姿勢でありましょう。
大会翌日のこの日、地元に帰った選手らは、つかの間 地元の方々と優勝の喜びに浸ることができました。
そして、彼女らは 再び走り始めるのです。
都大路の優勝は単なる通過点、彼女らには もっと大きな可能性と未来が待っているのです。
しかし それとて一朝一夕に得られたものではありません。
一歩一歩のラン・その通底にある感謝の心…その地道な積み重ねこそが、真の成果となって 彼女らの人生の糧(かて)となってくれることを確信いたすところです。
私たち周囲の者は、彼女らの不断の努力に元気をもらい 一層のエールを送る。そのことで「よーし、オレたちもガンバろう!」との意気を覚えるところです。

これからも更なる飛躍を!彼女らの可能性に大きく期待するところです。
ところで、今や「名物」ともなっている 犀川河川敷の練習コースに掲げられている横断幕。

これは、地元(若葉町)で看板業を営むKさんの〝即興横断幕〟なのです。
東高の活躍に合わせて タイムリー(=即座)に掲げてくださり、今回の全国制覇の際にも その日の午後には大きく掲示されていたのでした。

何というか、それは 一筆書きのよう。一発勝負でダイナミックに描かれており、その筆さばきに地元住民の(応援の)熱意のようなものが力強く体現されているのです。
大会翌日の〝ミニ祝賀会〟でも、会場を唯一飾るバックグラウンドとなっていました。

さまざまな立場での応援団の存在。
それらが見事に織(お)り合っての大成果だったと 改めて実感したところでした。
、
こないだの夜、数日前から何ともいえない違和感があった 口腔内の右下の奥歯付近が急に痛み出し、我慢ならない状態になってしまいました。
何だか その部分の頬もむくんでおり、プチ瘤(こぶ)取りじいさん状態に。
ただ時間も時間だけに いかんともし難く、取りあえず市販の鎮痛剤を飲み そのまま一夜を凌(しの)ぎ、翌日はたまたま歯科医の予約日だったことから 事情を話してそこも診てもらうこととなりました。
歯科医「あ~腫(は)れた後がありますね。」
ワタシ「痛かったんですよ。ここんとこ寝不足だったんで、それが影響したのかなぁ…」
歯科医「でもクラノさん、痛かったのは歯じゃなくて「歯ぐき」ですよ。」
ワタシ「え?」
歯科医「今回 腫れたのは、奥歯のそのまた奥にある「歯ぐき」。こりゃ歯周病の前兆ですナ。」
歯科医によると、私の右奥歯の最奥部は(私は忘れてますが)かなり以前に抜歯してあるとのこと。で、その抜歯後が凹(くぼ)みになっていて そこが「歯周ポケット」と化しており、そこに雑菌などが溜まり易くなっていたこと等から初期の歯周病が発生し、そこに寝不足などの生活不安定が乗じて「痛み」となって出たようなのです。
今回の私の場合は ややレアケースではあったようですが、いずれにしても 痛みの元は「歯ぐき」でした。
歯周病が身体のさまざまな部位に悪影響を及ぼすことは既に知られているところであり、私も意識してはいましたが、このような形で〝具体例〟が自分の身体(口腔)に現れるとは…自分の不摂生を戒(いまし)めると同時に、改めて 歯周病の怖さを再認識しました。
診察台で口を開ける私に歯科医さんは「クラノさん、これを契機に「口腔衛生」を見直してください。あなたは仕事柄、忙しさにかまけて歯磨きはチャッチャで済ませているでしょうけど それが先ずいけない。キチンと丁寧に歯磨きを励行することで口腔衛生を保つことができるのです。」
さらに「たかが歯磨きと侮(あなど)っていけません。歯周病は〝万病の元〟でもあるのですから。」と真顔で指南してくださいました。
歯磨きをはじめとする口腔ケアは これまではムシ歯予防の手段とされていましたが、最近では ムシ歯予防に加えて「歯周病」の予防手段としても奨励されています。で。その「歯周病」は 歯ぐきの炎症やムシ歯の原因になるだけではなく、全身的な慢性疾患の原因となることも知られてきています。
「歯周病」は それを一言で表すと「細菌の感染が引き起こす 歯の周りの炎症性疾患」だそうです。
例えば 歯磨きを忘れて寝てしまったとき、朝起きた時に口の中に残るネバネバした感触…これが 口腔内に居る「細菌」の集団だそうです。
口腔内には 約300~500種類もの細菌が「住んでいる」そうで、その細菌群は 口腔内に残る食物残渣(しょくもつざんさ)や糖分をエサに増殖し、やがてそれは歯根にこびり付く「歯垢(プラーク)」となります。
この歯垢には 1㎎中に10億個もの細菌が住んでいるといわれており、これが歯周病やむし歯の原因となるそうです。
歯垢は固くなると「歯石」となり、それが歯と歯ぐきの境目に割り込んで「歯周ポケット」を生じさせ、それが歯の土台でもある歯ぐきを退行させ やがて歯を支えている骨(歯槽骨)を溶かし、最終的には歯そのものを奪うことになってしまいます。

で さらに恐ろしいのが「歯周病」が、人の全身の健康(全身疾患)・もっといえば生命にまで悪影響を及ぼす原因にもなっていることでしょう。
歯周病の元となっている「歯周病菌」は、さまざまなキッカケにより 血管から全身へと入りこんだり、口腔から気管を通って肺に炎症を起こすことがあるそうです。
▼糖尿病
重度の歯周病により生じた物質やサイトカイン(細胞から分泌される悪性のタンパク質)が血管から全身を巡り、糖の代謝(インスリンの作用)を妨げ 糖尿病の誘発や悪化を招く
▼気管支炎・肺炎
食物残渣や唾液に混じった歯周病菌やサイトカインが、気管支や肺の粘膜で炎症を起こす
▼心臓疾患
歯周病菌が血管を通じて心臓へ入り込み、心臓の弁や内膜などで炎症を起こしたり 心臓に酸素や栄養を送る血管にこびりついてアテローム(脂肪状の塊)を作り 血管を狭くする
▼脳卒中・狭心症・心筋梗塞
歯周病菌が血管に入り込んで全身を巡り 血管の内壁に固着し、アテロームを作って血管を狭くしたり 血管そのものを傷つけて動脈硬化を進行させる
さらに最近では、歯周病は 認知症の要因にもなっていることが判ってきているそうなのです。

ヒトは、生きるために 口からさまざまな飲食物を摂取し、それを糧(かて)に生命を維持しているところですが、反面、口腔衛生を怠(おこた)ることで かえって寿命を縮めることになるとは…それ(疾病)を未然に防ぐためにも「たかが歯磨き されど歯磨き」の意識で 歯磨き作業にシッカリと臨まなければなりません。
そんな厳しい状況を改めて聞くと 歯ブラシを持つ手にもつい力が入ってしまうところですが、件(くだん)の歯科医さん「かといって、力いっぱいガシガシ(歯を)磨くのは逆効果です。」とたしなめてくださいます。
「歯ブラシに力を入れ過ぎると 肝心の歯ブラシの穂先が歯と歯ぐきの間に入り込めず、歯垢の除去=周病予防につながらないのです。あくまで優しく バイブレーターのように小刻みに歯ブラシを動かすことをお勧めします。」とのことでありました。
歯科医さんのおっしゃるとおり、忙しさを言い訳に歯磨き行為を疎(おろそ)かにすることは〝天に唾する〟が如く、いずれ自分が重大疾患に陥る要因を自らつくりあげることにもつながることから、これからは できる限り丁寧に歯磨きしなければ と自戒したところです。
ところで、診察を終えた後 件の歯科医さん「〝口は万病の元〟であることを分かってくださったと思います。もっとも クラノさんの場合、職業柄「口は災いの元」であることもお忘れなく。」と、笑って私を送り出してくださったのでした。
