長野市議会議員会派

改革ながの市民ネット

青木島遊園地廃止問題に見る「住民自治協議会」や「区長会」が抱える課題と苦悩

今や大きな社会問題となっている「青木島遊園地廃止問題」ですが、その延伸の上に、今の長野市政と 地域自治の礎(いしずえ)であるハズの住民自治区長会や区長会が抱える課題…もっといえば〝苦悩〟ともいえる根深い面が改めて見えてきました。

 

今回の遊園地の廃止において 重要ともいえる〝役割〟を果たしているのが、他でもない「区長会」であるように思えます。

「青木島遊園地」は 遡(さかのぼ)ること18年前、地元住民の有志と 地元「青木島区」の要望によって設置されました。

その後 一部住民(世帯)からの苦情が出されるなどして時間経過を辿り、昨年になって 今度は区長会の方から廃止の要望が出され、遊園地は廃止の方向に進むことに。

しかし これが、社会の大きな疑問と反発を招き 現在に至っています。

この字面(じづら)だけを追えば「区長会が主導して 遊園地の設置と廃止を決めた」と思われがちですが、実際にはそこに 市⇔区長会との欠かざる関係性が存在し、そして その〝関係性〟こそが、問題を問題として増幅させ 市民の疑問と反発の主要因となってしまいました。

 

第一の問題は、苦情が発せられたとき 区を置き去りにして市の対応が為(な)されたこと。

遊園地から出る「音」がうるさい!との苦情が発生られた際、市(公園緑地課)は対応に走ったのですが、その際 区に相談すること無く話し(対応)を進めていたようなのです。

このことについて当時の区長は「何らか苦情のようなものがあることは側聞していたけれど、市から何の相談もなく推移していたので おそらく(苦情は)収まっていたんだろうと思っていた。」と述懐しており、そこに 現状との大きなギャップがあります。

もし 早いうちに市(担当課)が住民側(区)に相談し、例えば早期の意見交換などを行なうなど 官民挙げて対応を協議していれば、こんな膠着した状況に陥らなかったのではないかと思わされます。

第二の問題は、今度は地元住民を置き去りにして「廃止」に向けた手続きが進められたことです。

問題が膠着してしまうと、市は残念ながら「つじつま合わせ」に動き そこに区(区長会)が利用されることになってしまいました。

苦情に対し 対処療法的な〝場当たり対応〟を重ねた結果、立ちゆかなくなってしまった市は この際とばかりに「遊園地の廃止」に斜傾することになります。

その際 市は、自分たちの対応によって子どもたちが遊べなくなったのに「利用者が減った」と話しをすり変え、また遊園地の愛護会についても 実際には存在し続けていたのに「愛護会活動ができなくなった」との誤情報を正論とするなどして、いわば事実を歪曲(わいきょく)する形で 廃止のための〝状況証拠〟を作りあげ 区(区長会)に提示、それを受けた区長会は「であれば廃止やむなしか…」と判断して、最終的に市に対し廃止を要望する書面を提出するに至ってしまったのです。

今回の顛末の中で 双方に水を向けると、市は「区長会から廃止の要望が出されています。」と言い、区長会は「市が廃止を決めたからそれに応じただけ。」との水掛け論の押収となる始末…双方が保身のために〝決定責任〟を押しつけ合う状況になっているのです。

 

今回の問題の大元は「住民不在で手続きだけを進めたこと」にあると言わざるを得ません。

事(こと)の解決の糸口は「住民側」にこそありました。なのに、そこを抜きにして 頭越しに片づけようとした短兵急な対応が かえって問題を複雑化させ、あげく市そのものが 地元住民はもとより多くの市民…今回の遊園地問題に関しては 全国の多くの人たちから批判されることになってしまいました。

しかし 今回の廃止については、手続き上は何の瑕疵(かし)も無いのです。

で 私は、そのこと(瑕疵が無いこと)自体が大きな瑕疵ではないか、と思わざるを得ないのです。

 

長野市はじめ各自治体には、住民の連携と自治運営の円滑化を期して 隣組~自治会~区との自治組織を設け、行政連絡などの窓口を担っていただいています。

また とりわけ長野市においては「住民のことは住民で」との崇高な目的をもって「住民自治協議会(住自協)」を設置し、地域自治の一層の推進をめざしています。

以降、行政手続き等については 住自協や区長会を経ることとし、逆に言えば 住自協や区長会の承諾を得(え)さえすれば、行政事業が進められるとも言えることに。

で、今回の遊園地廃止問題について 市は、(残念ながら)この行政手続きの いわば簡便さに乗っかって手続きを進めたフシがあります。

「あくまで住民代表である区長会の要望の下(もと)に市は遊園地を廃止することになった」この 一見 何の瑕疵も無い行政手続きこそが、実際には廃止を聞いていない多くの市民の反発を招くことになり、その反発の矛先は 市だけでなく「何で廃止を要望したんだ!」と区長会にも向けられ、区長会は いわば板挟みにもなっているようなのです。

 

 

・・・・・・。

今回の「青木島遊園地廃止問題」は、奇(く)しくも「住自協・区長会」の抱える問題点を改めて浮き彫りにすることになったと思います。

本来は、住民自治の礎(いしずえ)となり、住民主体で地域自治を運営するネットワークとなり、いわばボトムアップ(下から上へ)のエンジンとなるハズだった住自協や区が、それとは逆に 市の決定事項(または「そうしたい」との意向)を住民に下ろすための いわばトップダウンの窓口として利用されることになってしまいました。

で、そのプロセスの中には 肝心の「住民の思い」は置き去りにされたままで、そのことが 今回の騒動の火種になっていることは残念に他ならないところであります。

 

人口増・好景気の下での いわば行政バブルの時代は今は昔。今後 各自治体は、非常に厳しい行財政運営を余儀なくされてくるでしょう。

だからといって、行政の一方的な都合で グイグイ事(こと)を進めてイイものか?

取るべき手法は 全く逆であります。

で あるからこそ、あまねく住民の声を聞き もし反対の声があるならば、それらに丁寧に対応し 納得していただいたうえで前に進まなければならない。

そして その際には、広く住民にご参集いただき(または門戸を広げ) 同じ土俵で意見を交わしていただき、もって住民の意思を示していただくことが欠かせないと思います。

 

今回の案件は、住民自治の観点からも 私たちに大きな課題を投げかけることになっています。

 

 

青木島遊園地廃止問題 ~置き去りにされた子どもの存在「子どもの権利条約」~

今や大きな社会問題となってる「青木島遊園地廃止問題」ですが、この案件において〝欠落していること〟として「議論が、主役であるハズの子どもを抜きに行なわれていること」を指摘したところであり、その考えは 何も私だけでなく多くの人が感じていることでありましょう。

本来は、遊園地を利用する子どもにとって 何が一番有益であるかを基本に据えて議論を進めてゆけば、事(こと)の推移は また違った舵を切れたのではないか、と ときに残念に思わされるところです。

「遊園地を存続すべき」という人の中に「子どもの遊ぶ権利」を説(と)かれる人が居(お)られ、その人は 議論の根拠として『子どもの権利条約』を挙げられ、それは実に当を得たものでありました。

 

 

 

『子どもの権利条約』は 1989年に国連で採択された「子どもの基本的人権」に関する条約です。

かつて戦争において 罪もない子どもたちが火戦にさらされ生命までも奪われる事態に陥ったこのへの反省から、(18歳未満の)子どもにも基本的人権があること、それ(子どもの人権)は保障されなければならないことを明文化したものです。

「子どもの権利」とは、すべての子どもが心身ともに健康に育つために必要とされる権利で、それ(子どもの権利)は 大きく分けて「生きる権利」「育つ権利」「守られる権利」「参加する権利」があります。

1. 生きる権利
・住む場所や食べ物があること
・病気やケガをしたら治療を受けられること
・健康に生まれ、防げる病気などから命が守られること

2. 育つ権利
・教育を受け、休んだり遊んだりできること
・もって生まれた能力を十分に伸ばしながら成長できること
・自分の名前や国籍を持ち、親や家族と一緒に生活できること

3. 守られる権利
・紛争や戦争に巻き込まれず、難民になったら保護されること
・あらゆる種類の暴力や搾取、有害な労働などから守られること
・障がいのある子どもや少数民族の子どもなどは特に守られること

4. 参加する権利
・プライバシーや名誉がきちんと守られること
・自由に意見を表したり、団体を作ったり、自由な活動を行えること
・成長に必要となる情報が提供され、子どもにとってよくない情報から守られること

 

 

で、この『子どもの権利条約』で定められていること(守られなければならないこと)が、まさに 今回の「青木島遊園地廃止問題」に符合する と述べられているのです。

それは、この条約の2本目の柱「育つ権利」に表されており、さらに 条例の中の条文「第31条」に明確に示されています。

「育つ権利」においては、前掲2,の説明のうち

・教育を受け、休んだり遊んだりできること が該当すると申せます。

「勉強したり遊んだりして、もって生まれた能力を十分に伸ばしながら成長できること」とされています。

 

 


さらに、同権利条約の「第31条」には「休息・余暇、遊び、文化的・芸術的生活への参加(への権利)」が条文化されています(条文は次のとおり)。

(1)締約国は、子どもが、休息し かつ余暇をもつ権利、その年齢にふさわしい遊びおよびレクリエーション的活動を行う。

(2) 締約国は、子どもが文化的および芸術的生活に十分に参加する権利を尊重しかつ促進し、ならびに、文化的、芸術的、レクリエーション的および余暇的活動のための適当かつ平等な機会の提供を奨励する。

 

 

つまり、遊園地などで子どもが遊ぶことは、国連の定める『子どもの権利条例』で遵守しなければならない内容そのものであり、批准国である日本の自治体である長野市においても 当然にそれを履行しなければならない立場にあるという論理です。

しかも、同条例においては「子どもは大人と同じように人権を持っているが、その一方で 特別な保護が必要とされていることから、大人や国には 子どもの権利を守る責任がある」とされ、さらに「大人や国は、子どもにとって一番いいことは何か ということを考えなければならない」とされています。

そのためにも、子どもたち一人ひとりと丁寧に向き合っていくことが求められている とされているのです。

 

今回の「青木島遊園地廃止問題」において欠落していると指摘した〝子どもの視点〟ですが、それは 国連の定める『子どもの権利条約』の見識からしても、再考しなければならないと考えられるところです。

子どもには 遊ぶことも含めて「権利」があること、そして その子どもの権利は 他でもない大人や国が守ってゆかなければならないこと…認識を新たにさせられる指摘であります。

そのうえで、忸怩(じくじ)たることこのうえないのが、この『子どもの権利条約』について 遊園地に対する苦情が発せられた早期のうちに議論の俎上に載せ、対応の根拠にしていれば こんな膠着した状況に陥らずに済んだのではないか、という点であります。

 

 

青木島遊園地廃止問題における住民説明会に 荻原市長が出席を表明

今や大きな社会問題にまで発展した、長野市の「青木島遊園地廃止問題」ですが、これまでもレポートさせていただいているとおり さまざまな変遷を辿る中、ひとつのエポックメイキングになるか?という〝新たな流れ〟がみられました。

長野市トップの荻原健司市長が1日の定例記者会見で、この問題について「周辺住民を対象とした説明会を今月11日に開き、そして 私(市長)も出席して 地域住民の皆さんの意見をお聞きしたい。」と述べたことが報じられたのです。

 

 

 

この日の会見で荻原市長は、去る1/25に周辺区長10人と懇談し 意見交換を行なったとしたうえで「(区長たちは)反響が大きいことに困惑している様子だった。」とし、廃止の決定については「基本的には維持されている」としながらも「区長さんからの話をお聞きし 11日にも(地域住民の)話を聞いた上で判断したい。まずは地域の皆さんの声を受け止めたい。」と述べたとのことです。

 

これまで荻原市長は「18年間の経緯」を理由に いわば表(おもて)に立つことに消極的であるように見られていました。

去る12/12の定例会見では「青木島遊園地については、地元の皆さまが18年間という長期間に及び いろいろ意見を調整された結果として、地元区長会から廃止要望がなされた。そういった経緯を踏まえて、私としては 手続きを踏ませていただくということである。」と述べたうえで「地域の皆さまの声をしっかり受け止めて、私自身も大変苦しい判断ではあるが 手続きを進めさせていただく。」としていました。

さらに「今回 地元の皆さまから寄せられたご要望というのは、長い期間をかけて地域の皆さまが意見を聞いて それが集約された結果だと思っている。地域の皆さまの声を聞く、受け止めるという経緯は十分あったと私は考えている。」と述べています。

一方で「過去に戻ることはできないが、しっかりと地域の皆さまの意見を集約し、合意形成がきちんとなされているのか否かということを確認する必要がある。今後、一つの教訓として胸に刻んでおきたいと思う。」とし、さらに「地域の合意形成ということは非常に大切なことだということを、今回のケースのみならず、常々感じている。地域コミュニティの中で、どうコミュニケーションを重ねていくのか、顔の見える直接的な対話のつくり方の重要性を感じている。」と述べていました。

 

これまでもレポートしているように、今回の「青木島遊園地廃止問題」については、住民要望によって設置された遊園地が 一部の世帯からの苦情に端を発し、その利用について著しい制限が加えられるなどする中、苦情対応についても(市が)右往左往することになり、あげく長い期間を経たうえで 結局区長会からの〝廃止要望〟によって「遊園地廃止」が決定されることになっています。

ところが、廃止が表(おもて)に出ることになって以降、これまで「民意」とされてきた地元住民の合意形成が 決して一枚岩ではなかったことや、市が掲げる「廃止の根拠となる6つの理由」についても相当な無理があることが指摘されたり、何より 多くの地元住民が遊園地の存続を願っていることが改めてクローズアップされたことから、市(市長)の言う「長い期間をかけて地域の皆さまが意見を聞いて それが集約された結果だ」という(廃止の)論拠そのものが揺らいできていることは ご案内のとおりです。

 

これまで荻原市長は、口調こそ丁寧であったものの あくまで〝既定路線〟を守る方針を貫いてきました。

おそらく その根拠には「担当職員からの説明(報告)」があると思います。

と いうのも、荻原市長は 昨年11月に当選したばかりの〝新人市長〟であり、今回の「青木島遊園地問題」についても その経緯…ましてや18年前に何があったかなど知る由もなかったことでしょう。

そうなると、彼にとっての情報ツールは「担当職員からの説明(報告)」に他ならないところであり、で その説明自体が「斯く斯く云々(かくかくしかじか)で問題ありません。」というものであれば「分かった。」というのが前提となるのは やむを得ないと申せます。

しかし そのうえで、社会通念上または市長ご自身の感性の中で「おかしい」と感じることがあれば そこは指摘して掘り下げるべきでありましょうし、ましてや今回の場合は「遊園地存続を!」と願う市民の声が日増しに高まっていることから、これまでの市(職員の)報告を鵜呑みにすることはできないだろう と、私の立場でも思うところです。

 

で そのことにダメを押したのが、さきに行なわれた区長会との会談であったようです。

これまでの 市(職員)の説明によれば、区長会は一致して 市に遊園地廃止を〝要望〟したとされていましたが、市長が実際に区長会に足を運んでみると 区長の中にも遊園地存続…そこまでゆかないまでも「改めて住民の声を聞いて 場合によっては再考すべき」との声も上げられたとのこと、このこと一つ取ってみても 今までの報告で「了」とはできないことに(市長自身)気づいたのかもしれません。

(このことは 1日会見での「(区長たちは)反響が大きいことに困惑している様子だった。」との市長発言にも表れています)

 

これまでは、市(職員)の敷いたレールの上を走っていたが、周囲の様子や乗客の反応が 言われていた中身と違う…であるとするならば、今回は自分の意思でポイント(分岐器)を切り替えて乗客の望む路線に変更しよう。

そう英断されるとすれば、これは多くの世論に叶った判断といえるでありましょう。

 

 

そのうえで 来る2・11の住民説明会は、どのような目的で行なわれるのか・集会で何を得ようとしているのか が注目されるところです。

これまでの既定路線を頑(かたく)なに守り「住民の声を聞く」としながらも、それはいわば〝ガス抜き〟に終始し、結局は遊園地廃止の方向に進むのか。

それとも、集会で出された〝住民の声〟を真摯に受け止め、市長たる自身の考えに基づき然るべき判断を下すのか。

 

1日の会見で荻原市長は「住民の声を直接聞き、なるべく多くの判断材料を集めたい。」とした一方、方針を覆す可能性については「何か心の中に持っているわけではない」「答えるのは難しい」などとするにとどめたうえで「最終的には 市長たる私が決める。」旨を述べていたとのことです。

おそらくは、遊園地の存続を願う市民(住民)のみなさんは 荻原市長の来訪を歓迎したうえで、自分たちの「思い」を率直に訴えることでありましょう。

それら「心からの声」に 荻原市長がどう応えるか。

 

一連の経過によって、内外の評価が失墜した(しつつある)長野市です。

それらを踏まえ、来る集会での市長対応は、この遊園地問題に止(とど)まらず 長野市全体の今後の評価にも関わってくる 一大関心事となってくるのは必定です。

そして何より、行政体のリーダーとして 多くの市民の願いを敏感に感じ取り、それを政策反映するスキルがあるかどうか…問われることは多いと申せます。

 

青木島遊園地廃止問題 =騒音と煩音(はんおん)=

長野市における「青木島遊園地廃止問題」は、今や全国的な社会問題にも発展することになっています。

 

今回の騒動の発端ともなったのが、遊園地の近隣に暮らす住民(Aさん世帯)が 遊園地を取り巻く環境下で発せられる〝音〟について「うるさい」と苦情を述べた(発信した)ことであることは周知のところです。

遡ること18年前に この「青木島遊園地」が住民要望によって設置され、爾来 隣接する児童センターの利用者(児童)や、保育園の園児の居場所(遊び場)として活用されることとなっていました。

しかし  そんな中、遊園地設置後ほどなくして 近隣に住むAさん世帯から「うるさい」との苦情が寄せられるようになりました。

で、この苦情に対し 市は(これまでもレポートしているとおり)いわば対処療法的な〝その場しのぎ的対応〟に終始、結果 問題を引きずったまま時間ばかりを経過させてしまったうえ、あげく此度(こたび)の「唐突な施設廃止判断」に至ってしまったものであります。

 

今回の案件は、遊園地に絡む〝音による被害問題〟と位置づけられています。

そんな中で、いったい どの「音」が問題とされたのか?そして どの程度の「音量」が問題とされたのか?が話題(問題)となり、そのうえで「〝うるさい〟との苦情への対処の仕方」が やはり話題(問題視)される(された)ことになっています。

苦情の発端となった〝音の種類〟については、遊園地で遊ぶ児童や園児が上げる声・敷地内を走り回ったりする際に生じる様々な音・子どもを指導する大人の声、さらには 児童を迎えに来た保護者が乗ってきたクルマのエンジン音やドアの開閉音・大人同士や親子間の会話等々 多岐に亘るものであることが伝えられています。

そして 次に問題となっているのが、今回 被害を受けたとされる様々な「音」について、その大きさの程度(音量)です。

Aさん世帯が「うるさい」とされる「音の〝大きさ〟」については、どの程度の音量をもって「うるさい」と認定できるのか(またはできないか)が 重要かつ難しい作業となっています。

 

いわゆる〝騒音〟については、国・県・市ごとに一定のルールが定められています。

国(環境省)においては「騒音規制法」があります。

この法律は「工場及び事業場から発生する騒音・振動を規制し、騒音・振動の防止対策を推進する法律」で「法で定める特定施設を設置する工場及び事業場から届出を義務づけ、規制基準を設け、著しい騒音振動を発生させる建設作業等を特定建設作業として届出を義務づけ、規制基
準や作業時間制限を設ける」となっています。

長野県では「良好な生活環境の保全に関する条例」に基づくの騒音規制があります。

これは主に「深夜営業騒音に関する規制基準及び音響機器の使用」についての時間制限を設けているものです。

一方、長野市においては「長野市公害防止条例」に基づく騒音規制があります

これは、国による「騒音規制法」を補完するため、同法で定める特定施設及び特定建設作業の対象を拡大しています。拡声機を使用する商業宣伝行為について 規制基準と禁止区域を設けています。

ご一読のとおり、現行の法律や条例は 例えば工場の作業音だったり建設現場の掘削音だったり、また深夜営業に対する規制だったりとの、いわば特有の分野に限られていることがお判りと存じます。

つまり 現行のルールでは、現下の青木島遊園地の「音」に関する問題に 法規を根拠に介入することはできないのです。

 

今回の案件を巡って「うるさい」を認定するかどうかの議論の中で「各種の騒音の音量(デシベル)を測定して判断すべき」との意見が出されていることを側聞していますが、現下のルールでは如何(いかん)ともし難いのは前掲のとおりです。

で あるとするならば逆に、Aさん世帯が「うるさい」と主張していたのは あくまでAさん世帯の主観であり、デシベルなど客観的事実(数値など)に基づかないものであることから、市とすれば その主張を丸呑みにせず、何らか別の対応ができたのではないかと思い そういう点では残念に思うところです。

 

ではナゼ、Aさん世帯は「うるさい」と強弁し、市はそれに盲従することになったのでしょうか。

騒音問題に詳しい専門家は、このような場合を「騒音」ではなく「煩音(はんおん)」と分類しています。

「煩音」とは 読んで字の如く「わずらわしい音」ということだそうです。

いわば「騒音」とは「音量が大きく、耳で聞いてうるさく感じる音」であり、それに対して「煩音」とは「音量がさほど大きくなくても、自分の心理状態や相手との人間関係によってうるさく感じてしまう音」のことだそうです。

言い方を変えれば、騒音とは「聴覚的にうるさく感じる音」で、煩音とは「心理的にうるさく感じる音」とも言えるとのこと。

もっと言えば、騒音とは「感覚的にうるさく感じる音」で、煩音とは「感情的にうるさく感じる音」だそうです。

 

 

 

 

さらに識者は、現代の「音」を巡る問題は、その多くが騒音問題というより「煩音問題」だとしています。

その見極めとすれば、航空機の音や道路の自動車音 あるいは工場や建設作業の音などは「騒音」ですが、隣近所から聞こえてくる生活音や 公園や学校などから聞こえる子どもの声などは「煩音」と分類されるのではないか。

なぜなら 生活音や子どもの声は昔も今も同じ音量であり、昔はだれもうるさいとは言わなかったから。〝音が変わった〟のではなく、それを聞く〝人間の側が変わった〟と指摘しています。

 

「騒音」と「煩音」には大きな違いがあります。これまで多くの公害騒音問題がありましたが、これが拗(こじ)れて人と人との争いに発展したと事例はほぼなかったそうです。

過去に 航空基地騒音や低周波数騒音などでは激しい闘争や訴訟が行われ、被害も深刻で甚大なものとなりましたが、過去においてそれが人と人との争いにつながった事例は無いのです。ところが、煩音の代表格である近隣騒音では 些細な音でご近所トラブルに発展しています。

すなわち「騒音」では事件は起きないが「煩音」では事件が起きる とのことのです。

 

で…ここからが むしろ重要なのですが、これら「騒音⇔煩音」の事象に対応する方法は、それぞれ異なるものになるとのこと。

まず「騒音」の対策は 言うまでもなく音量の低減、すなわち防音対策です。

一方、煩音対策で必要なことは防音対策では無く「相手との話し合い」であり それを通じた「関係の改善」です。これを混同すると、トラブルの解決どころか、さらに状況を悪化させることにもなりかねません。

 

苦情の原因が「煩音」からきているにも関わらず、受けた側が それを「騒音」と解釈し (苦情を言われて)ただ防音対策をすれば、「うるさい」と言った側の被害者意識はさらに強化され 相手への要求はどんどんエスカレートし、際限のないものになってしまう。

したがって〝近隣騒音〟に関して必要なのは「煩音対策」であり、騒音対策ではないのではないか。

「煩音対策」によって相手との関係が改善され 相互に信頼関係が構築できれば、今までうるさいと思っていた音もさほど気にならなくなることもある とのことです。

 

そんな近隣での音トラブル解決のためには 当事者同士の話し合いが必須ですが、当事者だけの話し合いでは 主張を要求するだけに終わる可能性が高く、トラブルは悪化しかねません。

そのため、そのには第三者の存在が不可欠です。

第三者の適切な介入により 双方が持っている相手を責める意識を取り除くことになり、それはすなわち「煩音問題」の解決のための要点でもあります。

 

無益な「近隣の音トラブル」を無くしてゆくためには、まず それが「煩音」であることを認知し(話し合いを前提に)適切に対応すること。

識者は最後に「近隣の音トラブルの原因はあくまで騒音に起因されるものであり、その対策は防音である」と考えている限り、解決の道は遠ざかるばかりです。」と結んでいました。

 

これらのことから 私は、今回の「青木島遊園地問題」における「音」問題は〝騒音問題〟ではなく〝煩音問題〟ではなかったか と考えさせられるところです。

と いうことは、その対処方法も「煩音」に則(そく)したもの…すなわち、防音のための造作(ぞうさく)ではなく、煩音を前提にした「話し合い」とすべきだったのではないか。

問題が起きてから約18年。今さら時計の針を戻すことはできませんが、せめて当時の背景を振り返るとすれば、当時の関係者は「煩音(はんおん)」を先んじて理解し それに見合った解決策=話し合い に臨んでいれば、こんな事態に至らなかったのではないか と忸怩たる思いを新たにするところです。

青木島遊園地廃止問題 ~そこに内在する抜本的課題~

今や社会問題となっている「青木島遊園地廃止問題」について、市民の方々から 実にさまざまなご意見(声)をいただいています。

そして、その殆(ほとん)どが「(遊園地は)存続すべきだ」との〝声〟であることを実感しています。

「子どもの遊び場を大人の事情で奪うべきではない」と、遊園地を利用できなくなった子どもらを親身となって思う方々の声は日増しに大きくなっており、どの人に水を向けても同じ答えが返ってくるのです。

私自身、会う人ごとに「遊園地は存続を!」との〝民意〟を聞かせていただき「これ(民意)は 何とか行政に届けなければ」との 責任感のようなものを強く感じているところです。

 

でも、その一方で「区(区長)が廃止を決めたのだから(廃止も)仕方ないじゃん。」という風に言う人もおられます。

「だって、地元の区が設置を要望して設置されたものが、今度は地元の区が廃止を要望しての廃止。このことについては手続き上の瑕疵(かし)は無く、(遊園地の)廃止はやむを得ないよね。」というものです。

この〝手続き上の瑕疵(かし)は無い〟ことについては、至極ごもっともであり、長野市行政サイドも それ(区長の要望で廃止)を盾(たて)にして、これまで変わらず廃止を進めようとしています。

ところが、民意はそうでは無い。

地元住民をはじめ実に多くの方々が「遊園地存続」を願っておられる。

この いわば〝ねじれ現象〟の原因はどこにあるのでしょうか。

これは詰まるところ「区(区長会)の決定が 必ずしも民意を反映していない」のではないか と。

で、この矛盾ともいえる結論づけが 今回の問題の根っこにあり、そしてそれは、今の長野市都市内分権そのものの問題点でもあると言えるのです。

 

これまでも述べているとおり 今回の「青木島遊園地廃止問題」において 市は、設置するときには住民説明会を行なうも、イザ廃止となったら それ(説明会)も無く、区を相手に行政手続きだけを進めて(進めようとして)います。

しかし ここで問題となるのが、区(区長)や関係者は 市からの打診を一部の役員さんだけで受け止めて解決(回答)してしまっていること…例えれば、市から投げられたボールを 住民の間でパス回し(=みんなで検討)することなく直接投げ返してしまい、それを受けた市は「はい、キャッチボール成立」とジャッジし、それを根拠に「手続きに瑕疵はない」として話しを進めようとしているのです。

ピッチ(地元)には多くの選手(住民)が居るのに、その人たちはボールに触れること無く たった2人の選手(区と市)のキャッチボールを眺めるだけで「はい、ゲームセット」と宣言されたのでは、ストレス以外 何も残らないというのが実際のところでしょう。

 

しかし これは、試合巧者の市行政チームの あざといゲームメイクと申せます。何というか〝隠し球を駆使する常勝チームの手法〟とでも申しましょうか。

今回の試合運び(青木島遊園地廃止)は、いわばルール上は問題は無いのです。

しかし であるからといって、チームメイト(住民・市民)を置き去りにして 半ば勝手にゲームセットを宣言してイイものでしょうか?

そこにはチーム内の分裂と禍根しか残らない、いわば空(むな)しい試合結果に終わるのではないでしょうか。

そうならないためにも、ここは一旦「タイム!」を取って もう一度円陣を組み、本当にそれでイイのか選手(住民)全員でミーティングを行なったうえで 相手(市)に投げ返すボールを吟味すべきです。

いわゆる全員野球による取り組みによる試合結果ならまだしも、一部の監督・コーチの勝手な判断による強硬なゲームメイクには、選手(住民)はもとよりスタンドの観衆(多くの市民)もブーイングを送るばかりとなるのは必定です。

 

このこと(行政手続きにおける住民合意を 住民自治協議会や区長会の一部役員と交わし了とすること)は、今の市政運営における遍在化する課題ともなっています。

「住民合意」とは 何をもって了とすべきか、改めて その課題が浮き彫りにされています。

 

 

そして私は、今回の案件の〝もう一つの問題点〟を指摘せざるを得ないところです。

「歴代の担当職員たちが、何の問題意識も無く 課題をそのまま申し送っていたこと」であります。

青木島遊園地が設置されて18年・騒音問題も ほぼ同じ歴史を辿る中。

この間 おそらく複数回に亘る職員の異動が行なわれてきたことでしょう。

にも関わらず、一度(ひとたび)起こった苦情対応の稚拙なやり方は、職員が変わっても 何ら改善や工夫も行なわれることなく、そのままの状態(稚拙な対応策)で申し送られ、ただただ無為に年月を重ねることになってしまいました。

この間、途中で「これ(この対応)って おかしいんじゃないか。」と気づく職員はいなかったのでしょうか?

今回の稚拙な対応…百歩譲ってやむを得なかったとしても、途中 異動で着任した職員が「おかしい・ふさわしくない」と思って 改めて検討を行ない、事態の改善に向け早期に努力を重ねていれば、今のような泥沼決着(してませんが)には至らなかったのではないでしょうか。

で…これは非常に残念な予想ですが、所管となった歴代職員の中に 市の対応を「おかしい」と思った者がいても「前任がそうだったなら…」として 言うべきことも言わず、そのままを看過して勤務を続け 結果として事態を固着化することになってしまったのではないかとも思わされるところです。

このような 行政にありがちな〝悪しき前例踏襲〟が、今回の残念な経過の呼び水になってしまったのではないかと思うとき、残念というほか無いのが正直なところです。

 

そんな厳しい状況ではありますが、心ある地元住民は ひたすらに「子どもたちのため」を合言葉に、非常に純粋な心地に立って 青木島遊園地の存続を願い、地道な活動を展開されています。

そんな 純白なユニフォームで試合に臨む初出場チームが、試合巧者の常勝チームと どのような試合運びができるかは未知数でしかありませんが、いずれにしても 多くの声援(存続を願う世論)を背に全力を尽くしてもらいたい。

私も応援団の一員として「できること」を模索しながら、共々に歩んでゆきたいと思うところです。

 

 

青木島遊園地廃止問題 ~長野市の説明に欠落しているもの~

今や大きな社会問題にもなっている、長野市の「青木島遊園地」の廃止問題。

去る23日に「青木島遊園地の存続を願う地元住民有志の会」が発足したことを契機としたように、関係するところで さまざまな動きがあり、改めて社会の注目を集めることとなっています。

このブログでも既にお伝えしているとおり、今回の遊園地廃止の決定プロセスにおいては 何ともいえない「釈然としない感」が満ち満ちており、経過を追えば追うほど「何で?」と思わざるを得ない事項が連なることとなっています。

この〝何ともいえない釈然としない感覚〟は、おそらく多くの読者みなさんも同じではないでしょうか?

 

これまでもレポートしているとおり、長野市は 遊園地廃止に向けて「6つの理由」を掲げ「だから廃止します」として結論づけようとしています。

しかし、その廃止理由には かなりの無理があり…何というか、合わないピースを無理矢理押し込んで完成させようとするジグソーパズルのようです。

 

 

 

ところが、市行政が無理矢理完成させようとしているジグソーパズル(=遊園地廃止)について、その様子を見ている市民は「どう見てもピースが合っていない!」と指摘せざるを得ない状況になっているのです。

前掲の「(廃止に向けた)6つの理由」についても、先日のブログで簡単に触れたとおり その理由は何とも拙(つたな)く説得力に乏しいものであり、それをもって 市民の方々が「ヨシ、分かった!」と、首を縦に振ることにはならないことは ご案内のとおりです。

 

そのうえで 今回の案件には、物事の根本的な視点が欠落していると言わざるを得ないところであり、もしかしたら それが「釈然としない感」の大元(おおもと)になっているのでは…とも思わされるのです。

 

今の長野市の論法の中に欠落している点。

第一に それは「子どものためにどうすべきか」との基本的な視点です。

そのそも あの遊園地は、地元住民の方々が「子どもたちのために」という思いで設置したものです。ところが、一連の問題が生じた際には そこのところ(子どもたちのために)の視点を置き去りに話しを進めようとしていることに、(私を含め)多くの市民が「釈然としない」思いを抱かされているのではないか…と考えます。

長野市が掲げる「6つの廃止理由」は、あくまで〝大人のケンカ〟をどう片つけるかに腐心した末の無理矢理の結論であり、そこに「子どものためにどうすることが最善か」の議論は存在しません。

クレームを寄せた住民への〝対処療法〟は、子どもを黙らせる・遊ぶ子どもの数を制限する・ひいては 遊園地から子どもを引き上げ、建物内に押し込める 等々、物事の解決のために 全て〝子どもを犠牲にして〟その場を凌(しの)いできただけなのです。

この 本末転倒の論法に、私たちは大きな違和感を禁じ得ないところです。

 

第二には、市民(近隣住民)への説明不足…もっといえば〝説明の回避〟という点です。

前掲のとおり、この遊園地は 近隣住民の要望によって設置された施設であり、設置の際には事前の住民説明が行なわれたと聞き及んでいます。

ところが です。

今回の降って沸いた「遊園地を廃止します」の決定の際には、そこ(廃止)に向けた事前の説明会が開かれた形跡は無く、いわば〝後出しジャンケン〟のようなのです。

このことについて市は「区長さんとの話し合いを行なった」と説明(言い訳)をするところですが、代表者(区長さんら)と話したから それで全ての市民への説明に代えるというのは、あまりに乱暴な話し。もっと言えば「遊園地を造るときは全員集めておいて、廃止のときは一部住民の承諾で済ますのはオカシイ」と言えるのではないかと思います。

さらに言えば、市は「説明」の範疇(はんちゅう)に、主たる利用者である「子どもたち」を含めていないこと…もしかしたら これこそが、市の行動が「釈然としない」最大の理由ではないかと思われるところです。

 

一連の問題が表面化して以降、荻原長野市長は「住民の方々の声を聞きたい」と再三に亘り発言していました。

そのうえで 12月議会終了後に「現地を訪れる」との報が入ってことから、私を含め関係者は 少なからず期待を抱いたものでした。

ところが、です。

今回の件で 荻原長野市長が最初に足を運んだのは、なぜか 同じ青木島でも「小学校」だったのです。

なんで、小学校?

本来 市長が行くべき先は、問題の渦中にある「児童センター」や「保育園」ではなかったでしょうか。

 

 

 

そこで、職員・さらに〝主役〟である子どもの声に耳を傾けることが 先ずすべきことではなかったのでは。

 

また、市長は「区長会などと意見交換を行ないたい」と、記者会見などの公(おおやけ)の場で述べていました。

 

 

 

私たち関係者は、市長が いつ区長会に足を運ぶのか・そこで何が語られるのかを大きな関心をもって その日を「待って」いました。

ところが、です。

後の情報で、荻原市長は 去る25日、いわば〝電撃訪問〟の形で(周囲に)予告することなく更北区を訪れ、そこで区長さんらと話しをつけてしまったそうなのです。

事前の「行きます!」とのアドバルーンは高く上げておきながら、実際の来訪は いわば頬っ被り(ほっかむり)をしてナイショで行なう…何だか裏をかかれた感の私たちは「何だかなァ…」と 至極残念に感じたものでした。

 

そのうえで、翌日の新聞には 市が「住民説明会」を行なうことが報じられました。

で 私たちは、当然 市長が(説明会に)出席すると思っており、その前提で記事を追ってゆくと…

 

 

 

あろうことか 所管の公園緑地課は、市長の出席について「答えられない」としていたのでした。

この記事を見て「残念」と思ったのは、私だけではないでしょう。

 

 

 

なぜ 市(市長)は、そんな〝様子見〟のようなことをするのでしょうか。

本当に、遊園地の廃止について 一点の曇りも無いとすれば、市長自身が住民説明会に出席して 堂々と廃止を明言すればイイじゃないですか。

 

それが 直ちにできない。もしかして「雲行きが良ければ出るし、悪ければ出ない」というのか。

それは まるで「勝てそうな試合なら出場するし、負けそうなら出ない。」との日和見主義に他ならず、あざといエントリー判断と言わざるを得ません。

確か荻原市長は オリンピック金メダリスト、スポーツマンシップを極めた人ではなかったか。

そんな氏が、市民と直接向き合う場に「出るか出ないか答えられない」とは…残念というか 情けないとまで言いたくなるところです。

 

今回の「青木島遊園地廃止問題」は、長野市が「子ども」に向き合う姿勢を問われることとなっています。

これまでの荻原市政は、市長が就任後のさまざまな場面で 自身が4人の子どもの父親であることを口にしており、市長選の公約でも「子育て支援」を強調し、新型コロナの影響を受けた子育て世帯への独自の給付金支給・10月には福祉医療費給付金制度の見直しも市社会福祉審議会に諮問するなどし、そして、各部署にまたがっていた子育てに関するさまざまな相談にワンストップで対応する こども総合支援センター「あのえっと」を設置するなど、子育て支援に力を入れ それなりの評価を得てきました。

 

 

 

しかし…これは非常に残念ながら、今回「青木島遊園地」を廃止に追い込むことで、これまでの「子育て環境重視」の荻原市政の評価は 大きく下落することになってしまうでしょう。

いくら詭弁(きべん)を弄(ろう)してみても「子どもの居場所を奪った市(市長)だよね…」の〝黒歴史〟は消すことはできず、事(こと)ある毎にそのマイナスイメージが付きまとい〝そういう目〟で見られ続けることは必至であると言わざるを得ないところです。

 

繰り返せば、今回の「青木島遊園地廃止問題」において、長野市(市長)は いちばん肝心な部分を置き去りにして話しを進めようとしている。

でも、今ならまだ間に合うのです。その身にかかろうとしている汚名を 今なら払拭することができる。

さきに発足した「青木島遊園地の存続を願う地元住民有志の会」は、決して施策の転覆を狙うクーデター組織ではなく、それどころか 課題の円満解決を願いながら住民の総意に基づき(存続に向けた)純粋は活動を行なっておられるのです。

市(市長)は、今こそ これら純粋な団体を胸襟を開いて意見を交わし、共に「子どもたちのため」を共通理念に(一緒に)歩む道を選ぶこと。それで 皆が課題を矛(ほこ)に収めることができる、そのことに気づいてほしいと願うばかりであります。

 

青木島遊園地廃止問題 〜誰がどう見ても釈然としない廃止理由・経緯~

今や 長野市イヤ全国的な社会問題にもなっている「青木島遊園地廃止問題」ですが、長野市が唐突に「施設の利用停止→3/31で廃止」を打ち出して以来、さまざまな方面・者(人)からさまざまな意見が寄せられることとなっています。

 

それら さまざまな経過を経る中で、過日「青木島遊園地の存続を願う地元住民有志の会」が発足されたのは ご案内のとおりです。

今後 会のメンバーさんらは、純粋な心根のうちに 子どもの居場所が維持できるよう、この遊園地の存続を期して活動展開することになります。

 

ところで この青木島遊園地を巡るさまざまな問題は、18年の年月を経る中で 多くの「矛盾」ともいえる事象を孕(はら)みながら推移していることが報じられています。

そして その経過の多くに、何とも釈然としない出来事が累積しており「ホントに こんな状況で廃止を決めてイイの?」と聞きたくなるような様相となっています。

 

問題の追求は、信濃毎日新聞の「声のチカラ」コーナーです。

このコーナーで 昨年12月に、かかる青木島遊園地の廃止問題が取り上げられ、その(問題の)性格上 社会の注目を大きく浴びることとなり、現在の状況に至っております。

この問題を記事として取り上げたM記者は、独自取材を交えて 多岐に亘り遊園地廃止を取り上げています。

そして その取材により、市の対応等にさまざまな齟齬(そご)がある(あった)ことが炙(あぶ)り出されています。

 

遊園地で遊ぶ子どもたちに対する苦情は2021年3月の1回だけだったのに、その後も複数回に亘って苦情が寄せられてきたとの間違った報告や、それまで20~30名の児童が遊園地で遊んでいたのに、その事実が無かったとする報告を挙げるなど、その内容の多くに事実誤認があったことが取材によって明らかになっています。

 

 

 

また、後の記事では「青木島遊園地」の維持管理の担い手について、一部の近隣住民による苦情によって担い手確保が見通せない状況の中、草刈りなどの活動を行なってきた隣接の児童センターの館長が市側に「(遊園地を使えないなら)活動を担えない」と伝え、その後の区との話し合いの中で「(苦情により)子どもたちが遊園地を利用できないのであれば、このまま施設を継続する必要がないと思う」という流れができたこと、さらに後の話し合いでは 児童センターの館長が「翌年度以降は草刈りなどの活動は担えない」と遊園地の管理にダメを押すなどしたことから、区長から「児童センターなどで利用しないのであれば、廃園するしかない」との意見が出ることとなってしまったことが伝えられていました。

で、その意見交換の後に 市(公園緑地課)は「廃止するには区から『廃止届』を出してもらう必要がある」と説明し、そこに「市(公園緑地課)としては閉鎖してほしいとは言っていない」と付け加えた上で「来年からは地区で 草刈りなどの愛護会活動をお願いできないか」と尋ねました。これに対し、区長からは「使っていない遊園地をこのまま存続するのもいかがなものか」との意見が続き、最終的に区長会が廃止届を出すことになったのです。

しかし 長野市には遊園地廃止に関する規定を設けていないことから、遊園地を廃止するのに地元区長会の廃止届は必要ないのです。にもかかわらず区長会に廃止届を出させたのはナゼか?など 記事を通じても釈然としないことが指摘されていました。

 

 

 

さらに、長野市がホームページにUPしている「青木島遊園地の廃止を判断した経緯について」も、何だか釈然としない内容になっています。

 

「青木島遊園地の廃止を判断した経緯について」長野市ホームページ

            ↓

https://www.city.nagano.nagano.jp/soshiki/kouen/722195.html

 

この中で、PDF版で 改めて「青木島遊園地の廃止を判断した経緯について」が掲載されているのですが、それを読んでも 釈然としない説明が列挙されているのを実感させられます。

 

 

 

この項「廃止を判断した理由」として「はじめに」に〝「一人の意見で廃止」と報道されてきましたが、青木島遊園地廃止の判断に至った理由は次のとおりです〟とされています。

冒頭から「言い訳」で入る異例の展開となっています。

その後、6つの理由が箇条書きされているのですが、その一つひとつが釈然としない記述となっています。

① 児童センター・保育園・小学校に囲まれた立地の特殊性から利用が集中する環境→そもそもこの遊園地は、かかる3つの施設の子どもがみんなで利用する(遊ぶ)ための環境じゃないか。
② 現在、遊園地がほとんど使われていない状況→実際には「使わせていない状況」じゃないか。
③ 近隣施設の管理者からの「これからも遊園地は使わない(現状では利用が実質困難)」というご意見→これとて 使わなかったから招いた状況じゃないか。
④ 設置を要望した地元区長会からの廃止の要望→廃止要望は 市が出させた(出すように仕向けた)のではないか。
⑤ 愛護会活動の担い手がいないこと→担い手は、いる。
⑥ 遊園地用地が借地であり、今後も借地料が発生していくこと(それも込みで設置を認めたんじゃないか)

読めば読むほど、釈然としない記述となっています。

 

 

・・・・・・。

長野市は、いったい何で この遊園地の廃止にしがみつくのでしょうか?

何を潰したい、いや潰すことで いったい何を守りたいというのでしょうか。

一連の黒歴史の中で、一番の被害者は なにいう無垢な子どもたちです。

大人の都合(不毛な争議とその不適切対応)によって我慢を強いられる日々…言っちゃあ何だが コロナよりタチが悪い。

 

こんな結末を許してはならないと思う。

しかし、既に賽(さい)は投げられたとの気配が…

この悪しき流れの中で、市民の良識は通用するのでしょうか。