25日(日)、私の住む地域で、自主防災会が中心となっての防災訓練が行なわれ、見学させていただきました。


防災訓練は、平時のうちに実施することで 住民の防災意識の向上を図ると同時に、イザというときに災害対策に即応し もって減災をはかるという意味において非常に重要な地域の事業であり、定期不定期を問わず 常時による実施により、あまねく住民に「経験値」を養っていただくことが求められています。
しかしながら 昨今のコロナ禍に伴い、人が大勢集まる行事(事業)は自粛を余儀なくされ この防災訓練についても、2年に亘りブランクを生じさせることとなってしまいました。
そんな中ではありましたが、今年は 今年度の住民自治協議会々長のAさんが「大規模開催は叶わなくとも できる範囲で実施しよう。」とのご英断を下(くだ)され、屋内での訓練を実施したところです。
コロナ対策の一環として、参加者についても 各区の自主防災会々長(区長)・消防団分団長・交通安全協会分会長・防災指導員・日赤奉仕団 等の関係団体の代表者に限定されましたが、それでも「できる範囲」の中で 実(じつ)のある訓練が展開されました。

訓練開始(9:00)に先立ち、朝7時から「炊き出し訓練」が始まっていました。

「炊き出し」は ご案内のとおり、主に避難所において 被災された方々に食料を供するもので、災害時には欠くことのできない重要な作業です。
この日の〝メニュー〟は、専用のポリ袋を使っての「混ぜごはん」と、アルファ米を使っての「おにぎり」です。
炊き出しを受け持ったのは 日赤奉仕団の方々。
円筒形の専用ポリ袋に お米(無洗米)と水・それに釜飯の素の具材を混ぜ(揉(も)み)、大釜で一気に炊き(茹で)上げます。
米を炊くには 水加減がイチバン重要と、真剣な表情で慎重に水を入れてゆきます。

具材には 市販の「釜飯の素」を使用。従前は 塩だけを混ぜていたそうですが、これを使うと味わいが全然ちがう!と評判になっているそうです。

米+水+釜飯の素 を袋にいれ、あとは手でモミモミ。

充分に混ぜ合わさったところで、口を固く縛って 大鍋に投入。

あとは時間経過と共に火が通り、おいしい〝釜飯風非常食〟が出来上がるとのことです。
参加者とのお話しの中で、ここのところの〝コロナ禍中断〟の弊害が吐露されました。
訊けば、数年に亘り(防災訓練を)実施しないでいるうちに それまでの経験者が任期で退任してしまい「経験値」を持つ人が殆(ほとん)ど居なくなってしまったとのこと。
そのため、久々に行なわれたこの日の訓練(炊き出し)も、わずかな経験者が それも(過去を)思い出しながらの実践となり、手順の中で まごつく場面も少なからずあったとのことでした。
経験値の伝承…そういう面でも「継続実施こそ重要」と再認識させられたものでした。
一方、訓練のメイン会場は 小学校の体育館。
限られた人数で「できること」として、この日は 参加者が2班に分かれ、避難所におけるプライベート空間と トイレの設営の訓練(実践)が行なわれました。
避難所に指定されている体育館のステージ下の収納スペースから 実際に用具を搬出し、組み立て作業を体験します。

従来の避難所は、ただ床にゴザを敷くだけのもので プライバシーが無いのが常(つね)でした。
しかし最近では せめて世帯や社会的弱者の方のプライバシーは保護すべきとの傾向が強まり、パーティション等で周囲を囲う配慮がなされるようになっています。

さらに この日は「段ボールベッド」の組み立て体験も行なわれました。
段ボールベッドは、まさに段ボール箱の材料と同じ「段ボール」で作られたベッドで、今まで直(じか)に床で寝るを余儀なくされていた状況を改善してくれる 便利な避難所アイテムと申せます。
組み立てはカンタン、クギやネジはもとより 糊やガムテープも不要、箱を組むだけで完成です。


完成後、何人かの方が 実際に座ったり寝転んでみたりしましたが、総じて「案外 快適」とのことでした。

他方、B班は「トイレ」の設置訓練に参加。

三角錐型のトイレスペースを組み立て、その中に「避難所トイレ」を据え置きます。

「避難所トイレ」は、通函用の組み立て式コンテナの原理を応用しており、保管時はコンパクトに畳まれており、使用の際に立ち上げて スグに完成です。



非常食が 人体の「入口」なら、避難所トイレは「出口」を担う いずれも生きてくための必須アイテムです。
参加者のお一人は「これ(避難所トイレ)も 知らないままに設営しないでいれば、避難所の衛生環境は悪化するばかりでしょう。この日の経験を活かし、イザというときには先だって設営したいと思います。」と言っておられました。
そうこうしているうちに、炊き出し班による〝釜飯風非常食〟が炊き上がったようです。
大鍋の周辺では、釜飯のイイ香りが漂っています。
大鍋で炊き上がった非常食(ビニール袋)を大きな柄のついたザルですくい上げ、これを(実際には)被災者の方々に配ることになります。

「出来ぐあいはどうですか?」と水を向けると「きっと美味しいと思います!」とのことでした。

また こちらでは「アルファ米」のおにぎりも調理されており、この訓練(実践)により この地区では イザというときも きっと避難所の方々の胃袋は満たされることになると確信しました。

今回の防災訓練は、規模や内容については 非常に限定的なものではありましたが、何より コロナ禍の最中(さなか)に「実践」したことの意義は非常に大きいと申せます。
前掲のとおり、例えば「炊き出し」においては経験者が退任し 一様に〝現場知識〟が乏しくなった中、今回の訓練を通じて 現有の参加者に「経験値」が付いたことから、きっと有事の際には その力量を発揮してくださることでしょう。
いずれにしても 災害は「待った無し」で 私たちの社会生活を脅かしてくるものです。
そんな〝イザというとき〟に役立つための知識と経験。そのための〝活きた学びの場〟としての避難訓練の重要性を 私の立場でも再認識したところです。
さきの23日、私にとって最大の恩人ともいえる御仁(Mさん)の葬儀告別式が斉行され、悲しみを新たにすると共に 受け容れたくない現実でありながらも、心からの弔意を申し上げさせていただきました。
Mさんは 享年84才。図らずも 脳梗塞型の認知症に罹患し、1年余りに入院を経て まさにアッという間に逝(ゆ)かれてしまいました。
折しも社会はコロナ禍の只中にあり、入院されたMさんへの見舞いや面会は たとえ直近の親族であっても叶わず、入院後の面会は 僅か数回のリモート(Zoom)による画面越しの面会に止(とど)まり、まさに忸怩たる思いを重ねるところでありました。
ここ数ヶ月は 誤嚥性肺炎の恐れが強まったことから口径での食事が避けられ、点滴での栄養摂取でありましたが、やはりそれでは体力の低下は避けることができず 最終的に瞼(まぶた)を落とすこととなってしまいました。
Mさんと私は、まさに選挙を通じての〝戦友〟ともいえる間柄でした。
かつて執行された 市議選や県議選での地元候補への支援、さらには 地元出身で後に防衛大臣になられた北澤俊美参議院議員が挑んだ国政選挙への支援など、あらゆる選挙を通じて Mさんは、まさに東奔西走という言葉がぴったりくるほど活発に活動され 私はその背中を追いながら 共に走り続けてまいりました。
その経過の中で 今度は私が出馬する立場になると、Mさんは まさに親身になって支援の手を差し伸べてくださいました。
選挙前の活動はもとより 実際の選挙活動や当選後の後援会活動と、私の全ての活動の要(かなめ)となって奔走してくださいました。
とりわけ、私の支援者のみならず 地域の多くの方を誘っての旅行やカラオケ大会など、多くのイベントを企画され、参加された方々に楽しい思い出づくりの場を提供してくださいました。
そして…私が何よりMさんに感謝してもしきれないのが、私の再起へのご支援でありました。
去る4年前に 私が取り返しのつかない愚行により議員辞職した際には、周囲にさまざまな意見がある中にも関わらず 再起を促すお声がけを毎日 々 いただいたのです。
その 再起を促す「声」は、私自身に向けてのものだけではなく、私以外の方々に対しても発してくだったものでした。
その、Mさんのたゆまぬお声かけが やがて周囲をも動かすこととなり、こんな私でありましたが 徐々に再びの支援の輪が広がり、その結果 異例ともいえる再選を果たすことができたのでした。
その陰には 間違いなくMさんの「声」があり、それが無ければ 私は再選どころか再出馬もおぼつかないところでした。
私にとってMさんは、窮地から再起するキッカケをくださった 人生の最大の恩人であり、また 地域貢献かくあるべきを背中で教えてくれた恩師であり、また 私のことを親身に思ってくれた 第二の父親的存在でもあったのでした。
そんなMさんを失った喪失感は 海よりも深いものがあります。
しかし、これとて現実…決して望まずとも 受け容れて前を向いて歩いてゆかなければなりません。
今はただ ご生前のご薫陶に心から感謝し、そのご薫陶に報いることができるよう これからも努力精進を重ねてゆく決意を新たにいたすばかりであります。
以下、告別式で奉読させていただいた「弔辞」の全文であります。
弔 辞
故 M様の葬儀告別式に際し、改めて故人を偲び 心からなる弔辞を奉読させていただきます。
Mさん、あなたは生涯に亘り、家族に尽くし 地域に尽くし 他者に尽くし、社会に尽くしてこられました。
その足跡の数々は枚挙に暇が無く、そんな欠かせぬ存在であったMさんを失った喪失感はあまりにも大きく、未だにその事実を受け入れ難いのが正直なところであります。
コロナ禍のために入院中の見舞い・面会もままならないまま時間ばかりが経過し、皆が体調を心配する中に知らされたご訃報には、驚きと悲しみと共に、心に大きな穴が空いたような思いをさせられたものでした。
しかしながら、今 ご遺影となって微笑むMさんの姿を前にし、これが現実なんだと心に言い聞かせつつ、感謝の思いを述べさせていただきます。
Mさんは、昭和13年 長野市川中島町北原に生を受け、爾来 地域に根ざし人生を歩んでこられました。
学業の後 早々に社会人として働く中、当時からてきぱきと業務を行ない 周囲からの評価や人望も厚かったと聞き及んでいます。
そんな社会人生活での最良の巡り合わせは 伴侶となるE子さんとの出会いであり、この出会いこそが Mさんの人生をより豊かにしてくれたのでした。
後年のMさんは、妻E子さんの温かいご理解の下、述べたように地域や他者への貢献に徹せられ、多方面から感謝を寄せられる存在となりました。また 家庭においては二女に恵まれ、今ではひ孫を含む多くの温かな親族に恵まれるなど、まさに 妻E子さんと二人三脚で これまで豊かな人生を送ってこられたと拝察する次第です。
Mさんを語るとき 政治との関わりは切っても切れないものであり、それは同時に Mさんの人生の大きな足跡の一つと言えると思います。
歴代の市議選・県議選での陰に陽に亘る支援活動、さらに、後に防衛大臣になられた北澤俊美先生が参議院議員選挙に臨む際には 地元の支持者の取りまとめやポスター掲示などの多岐に亘る活動の要となり、昼夜を分かたず奔走されました。
その献身的な活動ぶりにより 地域は盤石の基盤を固めることとなり、いわばMさんの不断の活動のお陰様をもって地域の政治が成り立っていたと言っても過言ではないと 今でも実感しております。
かくいう私も、Mさんのご薫陶をいただいた者の一人であります。
私が北澤俊美先生の秘書を務める中、当時の千野 昭市議の選挙事務所でMさんと出会いました。
初めは何かとぶつかり合うこともありましたが やがて胸襟を開くうちに意気が統合し、その後 今度は私が出馬するようになった折には、本当に親身になって助けていただきました。
私も紆余曲折を重ねる中、とりわけ 四年前に私が取り返しのつかない愚行により議員辞職した際には、周囲にさまざまな意見がある中にも関わらず 再起を促すお声がけを毎日 々 いただきました。
その、Mさんのたゆまぬお声かけが やがて周囲をも動かすこととなり、その結果、異例ともいえる再選を果たすことができたところであります。
その陰には Mさんの「声」があり、それが無ければ 私は再選どころか再出馬もおぼつかないところでありました。
私にとってMさんは、窮地から再起するキッカケをくださった 人生の最大の恩人であり、また 地域貢献かくあるべきを背中で教えてくれた恩師であり、また 私のことを親身に思ってくれた 第二の父親的存在でもありました。
今、こうして改めてMさんのご遺影に向き合うとき、実にさまざまな思い出が去来します。
雨の中、一緒にずぶ濡れになりながら選挙ポスターを貼ってあるいたあの日、Mさんが中心となって企画していただいた旅行先での和気あいあいの楽しいひととき、やはりMさんが企画してくれたカラオケ大会で ちょっぴりはにかみながら演歌を歌う横顔、ご自宅の座椅子に座って政治談義をするときの真剣なまなざし、Mさんは何に対しても一途でまっしぐらでありました。
そんな欠かせない存在であったMさんを失った今、私だけでなく地域全体が大きな喪失感に覆われています。
しかしこの現実を、私たちは受け容れてゆかなければなりません。
私たち残された者は、Mさんのご薫陶を胸に これからも一歩 々 歩んでまいります。
ご生前のMさんのような気働きににはとても及ぶものではありませんが、私たちができる精一杯の努力を重ね、少しでもご薫陶に応えられるよう努めてまいりますので、これからも空の上から見守ってください。
Mさんの人生でのご活躍に対し、言葉はとても尽くすことはできませんが この場をお借りして心からなる御礼と御霊の安らかなることを衷心よりご祈念いたし、弔辞とさせていただきます。
Mさん、本当にありがとうございました。 合掌
令和4年9月23日
長野市議会議員 倉 野 立 人

ニュースや紙面報道で、長野県内の企業が さきの東日本大震災に伴う原発事故で大きく長期に亘る被害を受けた東北地方の町に工場進出し もって地方再生・復興に資しようとする取り組みが報じられており、同じ信州人として誇りに思うと同時に、大いにエールを送るところです。
報道によると、長野県千曲市が本社の シャツ製造メーカー「フレックスジャパン」が、福島県双葉町に衣料品再生事業を担う拠点を開設することを決めたとのことです。

東京電力福島第1原発が立地隣接する双葉町は、発災直後から帰還困難地域に指定されたまま年月ばかりが経過していましたが、今年の8月30日に ようやく一部地域で規制が解除されました。

規制は解除されたとはいえ、原発事故の只中にあった双葉町については 現時点で帰還を希望する住民は少なく、このまま推移すれば 元の双葉町に戻ることは難しいと言わざるを得ない厳しい見通しとのこと。
そこに危機感を持った双葉町は、帰還した住民が 今後も住み続けるためには〝雇用の場〟が不可欠だとして、国の支援を得ながら「産業団地」の造成に着手しています。

福島県双葉町HP/新産業創出ゾーン
↓
https://www.town.fukushima-futaba.lg.jp/9736.htm
その目標は「震災前に戻すのでなく、新しい町を造る」です。
単に震災前の状態に〝復旧〟するのではなく、明日に向け希望の持てる新たな町に向けた〝復興〟を果たそうというプロジェクトが緒に就いています。
その〝新たな町〟に向けた具体策の1つが、先行して整備した産業団地。産業団地に県内外の企業を誘致し、産業の振興と雇用確保を果たすとしています。
現在 24社の立地が決まり、このうち13社がすでに操業しているとのことです。

この 双葉町の復興プランに手を挙げたのが、長野県(千曲市)が本社の「フレックスジャパン」です。

ワイシャツ製造などで年商100億円を上げる県内の大手繊維メーカーの「フレックスジャパン」ですが、ここのところのコロナ禍による〝外出控え〟などを要因として売り上げが落ち込んでいることから、その厳しい状況を脱するべく 新たなジャンルの事業をもって敢えて勝負に出ることとしました。
そして、そのフィールドとして 震災の被災地でもある福島県双葉町を選んだとのことであります。
「フレックスジャパン」が手がける新たなジャンルとは「古着の再生事業」です。

モノ余りの昨今の社会状況が問題視される中 それを逆手に取り、使わなくなった(着なくなった)衣料や、亡くなられた最愛の親族が生前に纏(まと)っていたご衣装を 下げ袋やヌイグルミの衣装にリメイクして、衣料品そのものの命や それを着ていた人との大切な思い出をも〝再生〟しようとするものだそうです。

この 衣料再生事業は施設名を『ひなた工房』とし、さまざまな由来をもつ衣服を 全く別の姿に仕立て直すリメイクを初め、幼子(おさなご)の絵を ハンカチやトートバッグに刺しゅうして形に残すサービス、さらに 着なくなった衣服の再加工やオーダーシャツの縫製なども受け付けるそうです。
これに先立ち 同社では、昨秋に衣服のリメークなどを受注するECサイト「Re:Stitch(リ:ステッチ)」を開設して 東京支社にサテライト工房を立ち上げ(リメイクなどの)依頼の受け付けや 実際に縫製を行なったところ、例えば 故人の衣服をテディベアの服に仕立て直した依頼者から「遺品だと思うと暗い気持ちになるが、生まれ変わったのだと思うと愛着も湧く。」と好評を得ているとのことでした。
一方、この衣料品再生の新事業は、現在のアパレル業界の慢性的な問題にも一石を投じているとのこと。
これまでの 衣料品を扱うアパレル業界は「大量消費・大量廃棄」を許容(看過)したまま推移しており、この現状は SDGsを進める国際的な社会状況においては「環境負荷」の面から厳しい目が向けられています。
そのような いわば衣料品販売の悪循環を改めるためにも、この再生事業は 業界そのもののイメージをもリフレッシュする効果があると期待されているようです。
「フレックスジャパン」のY社長は、自社の新事業のコンセプト「衣料品の再生」を ここ双葉町の「震災からの再生」に重ね合わせてイメージしていることが報じられていました。
「双葉町は震災からの再生の町。当社は衣料品の再生をめざす。この共通したコンセプトは、すごくわかりやすい打ち出しになるかな、と。」

今回の新事業、建物は平屋の約160㎡で 約50㎡のショップも設置するとのこと。総投資額は約1億円で 地元から3~5人程度を採用し、中長期的に30人程度まで増員したい考えだそうです。そのうえで 将来の事業拡大に備え、敷地は約6,500㎡を町から賃借する計画もあるそうです。
関連する工場は 既に工事が進んでおり、来年度からの稼働予定で 初年度にはリメイク品などの受注1万点をめざしているとのこと。矢島社長は、再生事業の展開を契機に「取引先や消費者との関係を強化していきたい。」としていると伝えられていました。
東日本大震災から10年以上が経過していますが、被災地の復興は未だ道半ば。
特に原発被害を受けた地域においては、帰還困難区域として長期間に亘り 人の立ち入りそのものが厳しく規制されたことから、そこに住んでいた方々は 否応なしに故郷からの隔離を余儀なくされてしまい、生活環境も変わらざるを得ないことになってしまいました。
そのうえで、再び故郷に戻り 改めて生活を始めるためには「就労の場」の確保は非常に重要な要件であり、そこがクリアできてこそ 真の意味での「再生」と言えるでしょう。
そんな いわば生活再生の必須条件である「就労の場の確保」について、遠く信州の企業が手を挙げたことは非常に意義深くあり、今後の推移については大いに注目し 応援してゆきたいところであります。
で このこと(再生のための就労の場の確保)は、かかる双葉町のみならず 各地方自治体にとっても共通の課題でもあります。
人口減少社会の中、いわゆる現役世代層の定住人口を期して IJUターンを模索するも、その人たちが「田舎で食ってゆける状況」を設(しつら)えないことには「帰りたくても帰れない」ということになってしまいます。
かかる 双葉町(=原発被災地)については、国から手厚い補助金が交付されることから いわばレアケースと言えるところですが、今回の長野県企業の英断の報に接し 大いにエールを送ると共に、総論として「地域の再生には就労の場の確保が欠かせない」との命題を再認識したものでありました。
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さきの週末、公私共にお世話になり ムラの情報通でもあるKさんから電話が入りました。
「クラちゃん、地区内の道路(市道)の側溝の蓋(ふた)が落っこちてて、こないだウチの娘(Aさん)が薄暮時に自転車で通ったら そこにハマって軽傷を負っちゃったんだ。危ないからスグ直しておくれ。」とのことです。
さっそく現場に行ってみると、Kさんが言われるとおり、道路側溝の蓋(ふた)が陥没しています。
「これは危険だ!」
この状況を現認したものの、あいにく暦は連休に入ったことから 取りも敢えず支所に向かい、敷地内にあった(使用していない)パイロンを職権で持ち出し、現場脇に設置する措置を講じました。

・

現場の現況と Kさんの娘さん(Aさん)の(自転車での通行の)状況を見直すと、そこには大きな危険が内在していたことが確認できます。
現場は、車両2台が行き来できる市道。歩道や自転車道はありません。

この市道、地域の生活道路であると同時に 市域内を南北に縦貫するバイパスの役割を担っていることから、とりわけ朝夕の時間帯には多くの車両が通行します。
車両の走行を想定して、クルマを現場に置いてみました。
対向車との行き違いを踏まえると、クルマは路側帯ギリギリの走行を余儀なくされ 道路敷の端(はじ)は 殆(ほとん)ど余地の無い状況です。

この状況を踏まえれば、道路を車両が走行しているとき または信号待ちで車両が数珠つなぎになっているときには、自転車や歩行者は 水路敷(側溝の蓋)の上を通行せざるを得ません。
私が 現場を見た瞬間に「危ない!」と直感したのは、この状況です。
万(ばん)やむを得ず 水路敷の上を通行していた人(歩行者や自転車)の歩経路となっている「蓋」が欠落していたら、そのまま通行していた人は まるで落とし穴に落とされたようなもの、転倒などの不測の事態に見舞われるのは当然の成り行きというものでしょう。
特に Aさんの通行した時間帯は 夕暮れの薄暮時とのこと、周囲は暗くなり始め さらに通勤時間帯のために多くの車両が信号待ちをしていたことから、Aさんは車列の脇をすり抜けるように自転車を走らせていたことでしょう。
そこに、この〝落とし穴〟です。
このとき Aさんは、自転車の前輪が欠落部分に落ちて転倒を余儀なくされるも、とっさに進行方向左側の畑地方向に身を投げ出したため 車両との衝突は避けられたとのことですが、これが拍子によって車道方向に転んだとしたら 停止車両にぶつけて騒動の元になったり、最悪の場合は 車道に転倒したタイミングで後方から車両が走行してきて轢(ひ)かれる可能性も十二分にアリ…そんなケースを想像したとき 私は血の気が引く思いがしたものでした。
中核市になったとはいえ、長野市は まだまだ田舎。地域のそこここの社会インフラは 昔ながらの状況を今に遺(のこ)し、そんな状況下で(私を含め)人々は社会生活を送っています。
今回の案件は、一見すると 非常に些細(ささい)なものです。
しかしながら 前掲のとおり、事(こと)の推移によっては重大事案に発展する可能性が大いにあることから、私たち関係者は 案件の大小に関わらず、真摯かつ迅速に対応することが求められていると申せます。
そういう面においても 取りも直さず早速に通報してくださったKさんと、不測の転倒に見舞われても とっさの判断で重大結果を回避された娘さん(Aさん)の いわば反射神経をありがたく感じると同時に、私の立場においても 今後も目視をはじめアンテナを高く上げ、市民の方々の危険回避(防止)に努めてゆきたいと思いを新たにしたところでありました。
子どもの福祉医療費助成については、改革ネットとしても、高校生までの対象拡大、窓口無料化を強く求めてきた子育て支援策の一つ。 今9月市議会で荻...
台風14号が列島を縦断しています。
九州をはじめ西日本エリアで 豪雨による水害や土砂崩れ、さらに 今回の台風の特徴でもある「強風・突風」による被害が報じられています。
自然の城壁ともいえる山脈・山地に囲まれた ここ信州は、「風」による災害・被害は 平野部のような(被害の)可能性は低いと思われますが、松本(旧山形村)エリアなどの広い箇所ではその可能性もアリ、また さきの長野市上野(うわの)地区での強風による火災被害の拡大事例もある(今回は雨を伴うことから同様ではありませんが)ことから、いずれにしても(私も含め)各人においては とりあえずは台風が過ぎ去るまでの間(かん)、今後の気象情報に充分に留意し 万が一のときでも被害が最小限化に止(とど)まるよう、適切に行動してゆきたいところであります。
◇長沼の魅力再発見に向けた取り組み(イベント) ~一茶の句碑を巡る自転車ツアーレポート~
さきの日曜日(14日)、令和元年東日本台風の被災地となった 長野市長沼地区において「一茶の句碑」を巡ることで 地域の魅力を再発見しよう!という趣旨の〝自転車ツアー〟が行なわれ、参加させていただきました。

この活動(イベント)には、さきの台風からの復旧・復興における いわば〝素地(そじ)〟となった取り組みがあります。
千曲川堤防の決壊により 多くの家屋が流失させられた長沼(津野)エリアにおいて、やはり大きく被災した 歴史的建造物ともいえる「米澤邸」について、その歴史的価値から解体を惜しむ声が高まったことから 復旧・保存に向けた市民運動が興(おこ)り「土壁ワークショップ」などを通じて、広く市民に 米澤邸のみならず長沼の歴史的建造物の価値(=長沼の魅力)を伝えようとする活動が緒に就いたところです。
↓
[参考]クラちゃんブログ 2022.12/7「長沼の歴史的景観・建造物を守る会…住自協との連携を」
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https://blog.goo.ne.jp/kz2df777/d/20201207
あれから年月が経過しましたが、この間も 地域の有志の方々が脈々と活動を継続されており、今回のイベントも かかる「米澤邸」を発着点とし、大きな災害を受けても イヤそれだからこそ、改めて地域の魅力を再発見し それを故郷(ふるさと)回帰・魅力創出につなげてゆこうという、地道かつ大切な不断の取り組みとしておられるのでした。
発着点の米澤邸の前庭では、イベントのリーダーでもあるAさんが「久しぶり!」と笑顔で出迎えてくれました。

受付の後ろには、ツアーで使う自転車がズラリ。
車首を揃え「長沼へようこそ!」と言ってくれているようです。

〝出発式〟は、米澤邸の広間で行なわれました。

あれから3年、時間が経過した中ですが、矢澤邸の内装は ほぼ手つかずのまま。


と いうのも、この(手つかずの)陰(かげ)には、邸宅の本格的な修復には 基礎のやり直しが必須であり、そこを直さない限り そこから上に手を付けることはできないこと、それにつけても (基礎からの修復には)過大な資金が必要との課題があるのです。
こんな現実的な課題を抱えつつも、関係者は地道に活動を継続されているのです。

出発前に 参加者には「インカム」が貸与されました。
後に素晴らしい歴史解説をしてくださる講師のMさんの声を、自転車に乗りながらライブで拝聴できる便利機器です。この機器のおかげで 私たちはイベントを堪能することができたのでした。

出発式を終え、一行は てんでに自転車に乗り 小林一茶の句碑をめざして出発します。
この日は 幸い好天に恵まれ〝サイクリング日和〟となってくれました。




M講師によると、信州は信濃町で生を受け、その後 結果として多感な人生を送ることとなった小林一茶は、全国を流浪する中 ここ長沼の地にも700有余日に亘って逗留し、その間 多くの俳句を遺(のこ)していったそうです。

今回は そのうちの4つの句碑を巡り、俳句の云(い)われや その時々の一茶の暮らしぶり・句の背景にある時勢や ときの長沼の地勢などについて解説していただきました。

域内を移動する途中、長沼堤防に沿ってペダルを漕いでゆきました。

と、「ここで止まってください。」とM講師。
曰く「ここが堤防の決壊現場。堤防の再構築が果たされ、現在 防災ステーションの築造に向けて埋蔵文化財調査が行なわれていますが、ご案内のとおり ここには「長沼城」がありました。」

「長沼城は、徳川家との確執で藩が取り潰しとなり 同時に城までも潰されることとなる数奇な運命を辿ることとなりましたが、ここに その文化財が眠っていたことは史実であることから、私たちは そのことも心に留めながら暮らしてゆくべきでしょう。」と述べておられました。

一茶の句は、当時の人々の暮らしの中に溶け込み その暮らしぶりをシンプルに表現しているものと教えていただきました。

「門(かど)に立つ 菊や下戸なら 通さじと」


「綿散るや 小薮小社(こやぶこやしろ) 小溝まで」


「てもさても ても福相の ぼたんかな」
今回の「長沼の魅力発見ツアー」は、広く知られた俳人 小林一茶の句碑巡りを通じ、当時の時勢や人々の暮らしぶりに思いを馳せる生涯学習の機会になると同時に、あの未曾有の災害を経てなお 地域復興と活性化に不断の取り組みを重ねる、地域の方々の力強さのようなものを再認識する機会となりました。

被災地復興については、行政においては 既存の社会インフラの復旧と同時に「防災ステーション」や「復興道路」の築造などのハード面・復興局による 住民に寄り添う「心の復興」を期したソフト面での取り組みなどが行なわれていますが、その一方で 今回のような市民による市民活動も大いに尊重し、まさに官民を挙げて真の被災地復興に取り組みべきとの思いを新たにいたしたところでありました。

・
コロナ禍が〝髙止まり〟で推移し、日々コロナ感染症関連の話題が紙面等で報じられることとなっています。
そんな中、私の目に「集団発生」のニュースが飛び込み、それを聞いた瞬間は「また どこかの施設でコロナ感染症が猛威を振るったのか @@」と思ったところでしたが、もう一度 ヨク報道を確認すると…今回の報道は「コロナ」ではなく「インフルエンザ」とのことでありました。

報道によると、去る14日 長野市保健所が、市内の通所児童福祉施設で 今季初のインフルエンザ集団感染が確認されたと発表したとのこと。
感染したのは 施設の利用児童11人と職員3人で、発熱や喉の痛みなどの症状があった。
市保健所によると、5~11日の週に 今季初めて市内の定点医療機関(16カ所)で5人のインフルエンザ感染が確認されたそうです。ちなみに 過去2シーズンは集団感染はなかったので、かなりの間を空(あ)けての〝インフルエンザ禍〟ということになります。
幸いなことに 今回の集団感染よる重症者はいないとのことですが、今後 市内に広まる可能性があるとして注意を呼びかけています。
コロナ禍が引きも切らない中、秋に向けてインフルエンザの悪しきニュースであります。
ややこしいことになりました。
コロナ感染症とインフルエンザ、いずれも風邪のような症状に端を発して症状が進行することとなり、紛(まぎ)らわしいことこのうえないところでありましょう。
みなさんもご想像のとおり この紛(まぎ)らわしさは、罹患者本人はもとより 家族などの周囲の人や医療関係者にも混乱を来(きた)すことになることが想像され、私たちは 新たな不安に苛(さいな)まれることになりました。
医療情報等によると、コロナ感染症⇔インフルエンザの最大の違いは「潜伏期間」で、コロナが最大2週間程度なのに比して インフルエンザは2~5日間と比較的短いようです。

ただ、症状は非常に似かよったところがあります。コロナ感染症⇔インフルエンザも、発熱・痰(たん)・頭痛・咽頭痛・筋肉痛(関節痛)・倦怠感など、いわゆる「風邪の症状」に見舞われることとなり、たとえ医師でも この表面的な症状だけで、インフルエンザなのかコロナ感染症なのかを見分けるのは至難の技でありましょう。
おそらくは これまで履行されているように、症状が出た人にはPCR検査を行なうことで「コロナか否か」の見極めを行ない、検査結果に応じて投薬などの措置を施すことになるのでしょうが…。
現時点での コロナ感染症⇔インフルエンザの紛(まぎ)らわしさは、表面的な症状だけでなく「感染症法」のうえでの分類にもあります。
ご案内のとおり、コロナ感染症は 同法上での「2類相当」に指定されており、医療機関での対応や罹患者の扱いなどに厳格な制限等が課せられています。
それに比して インフルエンザは「5類相当」で、コロナ感染症ほどの〝縛り〟が無く対応できることになっています。
そのうえで コロナ感染症⇔インフルエンザの大きな違いは「特効薬の有無」ということでしょう。
コロナ感染症については、重症化を抑えるワクチン以外に (コロナに)ピンポイントで効く薬剤が供用に至っておらず、その点において 社会は未だ(コロナに)悩まされているところです。
その点 インフルエンザにおいては、タミフルなどの適応薬が開発されており、それさえ服用すれば いずれ治癒に向かうことができるものです。
で…かかる コロナ感染症⇔インフルエンザの〝制度上の違い〟は、疾病に対する医療費にも現(あらわ)れています。
コロナ感染症は、指定感染症として 治療費は国費で購(あがな)われており、インフルエンザは一般の医療行為の下で保健診療を受け 治療費の一部は受診者負担となっています。
即ちこのことは、今後の医療事務にも〝紛らわしさ〟を持ち込むことになるでしょう。
コロナ感染症かインフルエンザか で 窓口精算はが全く異なるようになることから、いわば 入口から出口まで、本人や周囲は振り回されることになるようです。
この状況に際し、関係者の中では「この際 コロナ感染症も「5類相当」に引き下げ、広く治療が行なえるようにすべき。」との声も上がっているところですが、これについては 難儀な変異株の出現などを踏まえ、今後も議論の必要があることでしょう。
今回のコロナ禍の中でのインフルエンザ集団感染発生(=今後の流行の可能性)について、長野市保健所(長)は「基本的な感染対策は同じ」として、手洗いの徹底や人混みを避けるといった対策を促していました。
コロナ禍に突入して3年が経過し、社会は「ウィズコロナ」が標榜され〝新たなフェーズ(局面)を迎えたと言われるに至っています。
そんな中での インフルエンザ流行の予感…今までは〝コロナオンリー〟であった医療体制が、インフルエンザまでもの注視を余儀なくされるとは、これは〝悪しけき新たなフェーズ〟とも言えるのかもしれません。
今年の秋冬は いったいどんな推移を辿ることになるのでしょう。
予断なき秋冬を迎えることになりそうであります。