長野市議会議員会派

改革ながの市民ネット

イザというときにも非常に有効な、イベントという名の〝実地訓練〟

この連休、終始に亘り体調不良に見舞われることとなってしまいました。

土曜日の夕方から日曜日にかけて風邪のような症状が続き、もしかしたら腰痛も そこから来てたんじゃないかと思わされるほど。

日曜日の午後には復調することとなり 風邪の症状は治まったのでインフル的な疾病はクリアしたとし、念のため薬局でコロナ感染症の検査キットを購入して鼻腔からの自主検査を行ないました。

結果は「陰性」これでどうにか人並の体調に戻ったということになりました。

 

さて、10月第二週の月曜日は いわゆる「ハッピーマンデー」です。

「体育の日」を日曜日にくっつけ 連休としているもので、地域のそこここで運動会などのイベントが行なわれています。

ただ あいにく今年は8日未明から天候が崩れ、肝心の9日(体育の日)は広域で雨模様になってしまいました。

当然 屋外で予定されていたスポーツイベントは軒並み中止を余儀なくされてしまい、私もいくつかの運動会やらスポーツ大会にお呼ばれしていたのですが、それぞれに中止連絡をいただくこととなってしまいました。

 

そんな天気巡りでありましたが、それ(天候)に関係なく運動会行事が行なわれた地区が、私の地元にありました。

JR川中島駅前に在する「本町区(もとまちく)」は、最初から地元小の体育館が会場となっており、雨が降ろうと槍?が降ろうと 予定どおりの開催となっていました。

 

 

 

 

これには、当地区でも〝苦い経験〟があったそうです。

こちらも従前には 屋外(校庭)で行なっていた時期があったそうですが、ある年に 行事の最中にまとまった雨に見舞われ、人はもとより器材もびしょ濡れになっての体育館移動やなんやらでエライ目に遭い、それ以来「いっそ当初から体育館でやろう!」ということになり、現在の運びになっているとか。

実は この日、別の地域の〝屋外組〟の地区は、昨日から天気予報とにらめっこでヤキモキし続け、今朝は早朝から「やる・やらない」を協議したあげくに中止決定になったそうです。

そういう面では「最初から体育館」の決め打ちイベントは、非常に合理的といえるのかもしれません(ただ、それも住民(数)の規模にもよります。そういう面でも こちら本町区はちょうど良かったのでしょうね)。

 

 

例年に亘りお伝えしていますが、こちらの運動会は 実にエンターテイメント的や企画となっています。

開会式についても ただ並んで「おはようございます」ではなく、プロデューサーのDJショーケンさんが 何と「1963年 東京オリンピック」の開会式の模様を放送した録音テープを再現(再生)し、さながら五輪の入場式を再現しているのでした。

当時のアナウンス「さあ、いよいよ日本選手団の入場です!」の録音トーキーに合わせ、地区内に住む子どもらが持つ「区旗」を先頭に 選手団?が堂々の入場行進です。

 

 

 

そして その〝選手団〟の前に〝聖火ランナー〟が入場し、ステージに設(しつら)えられた〝聖火台〟に点火、ヤンヤの喝采を受けていました。

(ちなみに 聖火トーチは交通誘導灯・聖火はパトライトです ^^/)

 

 

 

 

その後は 番組に準じて各競技が行なわれてゆきました。

前掲のとおり、こちらの本町区運動会は 非常にイベント色に富んだ〝競技〟となっており、全力疾走などの いわゆる肉弾モノはゼロ。

どの競技も、老若男女が等しく楽しめる番組となっており 会場は笑顔が絶えない時間が流れていました。

番組の最初は、大玉送りならぬ大玉〝転がし〟です。歓声の中、大玉が勢い余ってあっちへ転がりこっちへ転がり。その度に笑いが起こっていました。

 

 

 

次は 風船割り競走。

 

 

 

ケツ圧?をもって、椅子に腰かけながら風船を割ってゆきます。

風船は 遠慮して座ると意外と割れにくいようでしたが「エイッ!」とばかりに圧をかけると、存外に大きな音を立てて割れてくれます。

自分で割った風船の破裂音にビックリしながら、ゴールへと(笑顔で)駆けてゆきました。

 

 

 

さて お次は、当イベント名物の「ピサの斜塔」です。

これは、あらかじめ斜めにセットされた「輪っか」を 時間内に積み上げてゆくというもので、積み方によっては イイところまでいって崩壊する醍醐味があり、緊張感あふれる競技となっています。

 

 

 

番組的には いよいよまでいって崩れるのが面白いところですが、みなさん そんなことをしでかせば末代まで笑われるとばかり、失敗だけはしないようにと それは慎重に輪っかを重ねてゆきます。

 

 

 

この演目には 私も飛び入り参加させていただきましたが、何ともいえない緊張感を味わったところです。

チームによっては次々と積み上げを増やしており、開催三十数回を重ねた経験値?はダテじゃない(笑)と感心させられました。

ちなみに失敗チームはゼロでした。

 

 

 

こちらは、フラフープとボールを使った「ゆっくり急いで」の演目。

ヒモの付いたフラフープの輪の中にスポンジボールを入れ、それが輪から外れないように引っ張りながらコースを往復します。

急げば(ボールが)外れ、遅ければ順位が下がる…スピードの塩梅(あんばい)が意外と難しいようです。

 

 

 

 

レポートのとおり、この日の本町区(もとまちく)の運動会は、和気あいあいのうちに 笑顔 々 の中で開催されました。

コロナ禍から3年が経過した中で久しぶりに開催された運動会は、イベントという視点でも「成果」を収めることができたところですが、私は 別の視点(価値観)で、このようなイベント事(ごと)に意義を見出したところです。

それは いわば「有事対応」の視点です。

不測の自然災害等が頻発する昨今、いつなんどき どこでどんな災害(有事)が発生するかもしれず、私たちは平時から「備え」を怠りなくすることが求められています。

ところが、えてして 私たちの日常生活の中では「防災訓練」などと仰々しい看板を掲げての有事対応は不定期に行なわれるものの、それらを想定した いわゆる参集を伴う集団行動は、できそうでなかなかできないのが実際のところでありましょう。

 

そんな中、例えばこちら本町区(もとまちく)においては、運動会に いわば名を借りて地区住民が参集し、種目に臨むことで横のつながりを構築し 互いに協力し合って事(こと)に臨む作業を行なう…これは、知らず知らずのうちに「有事対応」につながっているのでは、と思えるところです。

また 取りわけて本町区においては、夏の盆踊りなどでおでんや焼きイカなどを供しており、それは即ち「炊き出し訓練」にもつながっていると申せます。

このように、一見「遊びごと」に思える行事やイベントが イザというときの まさに「備え」となっている、ここに私は 大きな意義を見出すことができるのです。

 

このことを敢えて口に出すと、住民各位は「クラちゃん、そんな大げさな」といって笑って応じてくださいますが、少なくとも こちら本町区については「イザというとき」となっても 必ずや相互扶助の精神で切り抜けることができるだろう と、確信さえ抱いたところでありました。

 

立ち止まってはいられない ~生半可(なまはんか)な知識が招く 結果としての「市民不利益」~

立ち止まってはいられない。

改めて そう思わされる案件(相談)があり、思いを新たにさせられました。

28日(木)の夜、共に障がい者支援に取り組む「Gota」チームのMキャプテンに声をかけてもらい、市内のファミレスに足を運びました。

このとき私は、例の報道被害によりゴタゴタしていたのですが、そんな中でも変わらず声がけしてくれたMキャプテンに感謝しつつ ファミレスに入りました。

 

と、メンバーの隣席には 地元の区長会OBと覚(おぼ)しき 私も面識のあるOさん一行が陣取っており、何やら和(なご)やかな雰囲気でおられます。

知らない仲ではなかったので「どうもこんばんわ。」と頭を下げると、中のお一人が「当選おめでとう。」と声をかけてくれました。…のですが、件(くだん)のOさんは やや口元を歪めながら「礼状問題はどうなった?」と冷笑をかけながら私に。

区長経験者で識見もあるハズの人が、私の顔を見るなり この発言です。

新聞を熟読したうえでの発言なのかは知る由もなく、私の方も「記事をヨク読んでから言ってください。」と喉元まで出かかったところですが、そこは大人の対応「お騒がせしています。」と一礼して仲間の居る席に座りました。

「あ…これが世間の認識なんだ。」と心の中で嘆息しながら でしたが。

 

さて 本題。

この日メンバーが集まったのは、精神に障がいを抱えるAくん(20才代)から 予(かね)てよりの相談を受けている件についてです。

(この詳細については後日に譲ることとし、今回は概略のみとさせていただきます)

皆でドリンクバーの飲料を飲みながら…一見 穏やかなコミュニケーションの場に映りますが、その会話の中身は深刻といえるものでありました。

 

 

 

 

このAくん、市内の障がい者支援団体に身を置く中、昨年6月に農作業(草刈り)に従事していたところ 仲間の不注意で脚(ふくらはぎ)に大怪我を負わされてしったのです。

当然 これは重大な労働災害であり、当時の現場の状況や 就労環境(見守り・管理等)が問われる案件です。

さらに当然、Aくんに対しては 治療費などの医療費保障(補償)・さらに事故の被害者となってことで保険での補償などの手厚い措置が講じられるべきところであり、そのことについては 就労先が加入する保険会社等が直ちに受け持つ運びになるハズでありました。

ところが、です。

Aくんに対する保険保証の事務作業は遅々として進まず、無為に時間ばかりが経過することになってしまっているのです。

生活保護を受けているAくんには不安ばかりが募り「この先いったいどうなるのか…」と困り果てて「Gota」に相談を寄せているのでした。

Aくんの心配は3点に及んでいます。

1つは、自分の受けた被害について補償がされるかどうか。

2つめは、Aくんの〝生活の糧〟でもある「生活保護」は、事故の補償後も維持されるのかどうか。

3つめは、今後 就職して自活(自立)してゆけるかどうか。

このうち、1・3については 機微に触れる内容でもあるので後日に吟味のうえ詳細報告させていただきますが、今回は 2 について(関連して)見えてしまった〝行政体質〟について述懐するところです。

述べているとおり、障がいを抱えながら生きるAくんにとって「生活保護」は、まさに生きてゆくための いわば命綱であり、これが維持されるかどうかは 彼にとっての生命線となっています。

しかし今回、ケガを負わされて「補償」が匂わされることになったことで それ(補償)が収入とみなされ、もしかしたら生活保護が打ち切られるのではないかとの情報が伝えられ、Aくんの不安は増幅するばかりとなってしまいました。

Aくんにとっては、ケガの補償(金)は二の次の話し。とにかく生命線である生活保護が存続されるかどうかが全てなのです。

 

この、Aくんの他でもない心配を知るMキャプテンは 私に対し、このこと(補償されても生活保護は維持されるのか)との疑問(心配)について 議会(常任委員会)の場で確認して欲しいと言われ、私もそれに準(順)じて常任委員会(福祉環境委員会)の場(所管事項調査)で質問しました。

「生活保護制度を受けている障がい者さんが、同支援施設の就労の場で受傷し、保険(補償)の対象になった場合、生活保護は維持されるのか。」

それに対し 生活保護を所管する生活支援課々長は「一般論ですが」と前置きしながらも「たとえ保険(補償)の対象になったとしても、生活保護が打ち切りになることはありません。」と明確に答弁したのです。

 

ところが、です。

その後の「Gota」の調べ・また その後の所管の動きによると、どうやら 生活保護を受けている者が、保険や補償の対象になると それは収入とみなされ、生活保護の対象から外れることになってしまうことが判ったのです。

(この件に関するAくんを取り巻く顛末は やはり後日に譲ります)

結果、生活支援課々長の答弁は 事実(現状)と異なるものであることが判然してしまいました。

 

・・・・・。

今回のケースは、Aくんを案じ サポートしてくれる存在(Gota)が居てくれるから大過なく推移していますが、これが 天涯孤独の人が行政指導を頼みの綱として指導を乞(こ)うたとき、そのアドバイス(アンサー)が間違っていたとしたら。

その人は 行政を頼ったばっかりに誤(あやま)てる道を歩まされ、結果 不利益を被(こうむ)ることにもなりかねないところでありましょう。

 

同様の他のケース(行政(所管)による誤情報)を「Gota」のMキャプテンは指摘しています。

さきに調査に入った、障がい者就労支援施設「空風」に設置されている 高額(約100万円)の〝レトルト食品製造機械〟が置き晒(ざら)しになっている点について「設置費用に長野市の補助金が入っているんじゃないか」との(Mキャプテンの)問いに対し、対面した職員(障害支援課)は「補助金は入っていません。」と断答(だんとう)したのです。

しかし実際には、設備全体の中で相当額の補助金が入っていることが判り、結果 所管課職員の答えは間違っていることが判然しました(この「補助金が入っている・いない」は、機械の設置後に行政指導が行なえる(行なうべき)か否かの重要な分岐点になる点でした)。

 

 

「生半可」という言葉があります。

これは「十分(充分)でなく中途半端であること。いいかげんであること。また、そのさま」と解説されており、そのとおりと思います。

今回 市行政(担当)は、まさに生半可な情報のままに それを外に向けて発信(回答)し、それは状況によっては大きな〝市民不利益〟を招くことになりかねないものでありました。

補償の対象となっても生保はダイジョウブ・市の補助が入っていないから(市による)指導の対象では無い など、職員の持っている情報次第で大きく間違った方向に賽(さい)が投げられるところでありました。

しかも 二重の問題と言えるのではないかとされる点は、これらの生半可な対応が いわゆる社会的弱者である障がい者さんを適切に支援することを職務(職責)とする福祉担当の職員によって為(な)されていた(いる)という現実(実態)であります。

前述のとおり、たとえばAくんのような 生保を頼りに生きている障がい者さんは、何か分からないことや困ったときには 何はなくとも行政(職員)を頼り、適切な(正しい)アドバイスを受けたいと乞うところでありましょう。

その切実(悲痛)な声に対するファイナルアンサーが間違っていたとしたら…。

 

また、この Aくんの不安要因の(大きな)一つには、就労先である障がい者支援団体(担当者)の〝事務手続きの遅さ〟があると断ぜられます。

Aくんが受傷させられた。それは もしかしたら万(ばん)やむを得ないこととしながらも、問題は その後の対応の〝スピード感〟です。

もし、Aくんの受傷後ただちに雇用主(障がい者支援団体)が 治療費や補償の補填の事務手続きに入っていれば、Aくんの無用とも言える不安は生じることも無く推移し、その後の生保関連等の対応もスムーズに行なわれていたでしょう。

 

本来 社会で最も庇護(ひご)されるべき社会的弱者が、最もないがしろにされているとも言われかねない実態がある現実社会。

この現実を目にした以上は、これを看過することがいかにできるものでありましょうか。

 

立ち止まってはいられない。

改めて そう思わされる案件でありました。

23日の新聞報道 その後

令和5年長野市議会議員選挙から10日余が経過しました。

そして、私に関する唐突な新聞記事が掲載されてから6日余が経過しています。

あれから相当の時間が経過してしまいましたが、この間 周囲から寄せられてきた批判や激励がない交ぜになった多くの反響に基づく出稿元(記者)とのやり取り等に相当の時間を要し、ついぞ今日にまで至ることとなってしまいました。

 

この間、私自身 学ぶことがありました。

先ずは公職選挙法の難しさ。

後に確認すれば、出した側は真摯かつ単純な御礼のつもりであったとしても それが選挙中に出されたことで、公選法に須(すべから)く準拠していないとの指摘があれば、それは思慮が足りなかったと申せます。

ただ これはあくまで儀礼の範囲であり、私以外の陣営も一般的に行なっていることを側聞するとき、今後は私の陣営においては よりシビアに対応しなければならないことを思い及んだところでありました。

今後は、電話やメールで謝意を示すことが妥当ではないかと考えているところです。

 

そして これはやや心情的な面になりますが、私(私たち)が 心からなる謝意を示して出したささやかな礼状ハガキを 中身を熟読しないままマスコミに流した人の心理はいかばかりか ということを悩ましく受け止めました。

私(私たち)なりに示した誠意が 全く違う形で受け取られ(またはそこ(誠意)を分かっていたうえでのことかは知る由もありませんが)その対応として「当選御礼ではないか」と(マスコミに)持ち込んだ人は、それを遡(さかの)れば どういう気持ちで我が陣営に差し入れを持ってこられたのか…悩ましい限りであります。

 

そのうえで、今回の新聞記事の掲載内容であります。

みなさん既にご案内のとおり、あの記事の見出しは 私(倉野)が「当選御礼のハガキを出した」となっており、多くの(新聞)読者の方々は あたかも私が端(はな)から当選御礼のハガキを出したものと認識し、そのように印象づけられていることを知らされています。

そのことは ときに誹謗(ひぼう)からなる〝言葉の刃(やいば)〟として ときに私に直接向けられ、さらは 私を純粋に応援してくださった方々に対しても、いわば「からかいの言葉」として向けられていることを知ることで非常に残念に思い、また(私を応援してくださった方々に対し)申し訳なく思うばかりであります。

 

取材した記者に確認するなどしたところ、真相は下記のとおりのようです。

これまでも明らかになっているとおり(23日の記事の本文にあるとおり)私は、選挙の告示日以降にいただいた祝電・メッセージ・差し入れ等に対し、純粋な謝意をもって礼状ハガキを郵送しました。その差出し期間は 9月13日頃~15日までの間でありました。

この間 14日頃にも差し入れをいただいたことから、早急に御礼を申し上げなければとの思いから 15日の早朝(6時半頃)郵便局前ポストにおける第一回目の収函に間に合うように投函すれば その日の配達分に含まれると側聞して(早朝に)投函したのですが、残念ながらその日(15日)の配達分には含まれず 一部の礼状(15日投函分)は、土日休日を経て週明け(投開票日以降)に届いたようなのです。

で、その週明けの配達分の礼状ハガキが「当選の礼状ハガキではないか」との認識の下で新聞社に持ち込まれ、それが〝証拠〟として独り歩きを始めたようなのです。

 

記者は私に「ハガキを受け取った人が「当選御礼と思った」と言っている。」と話しました。

しかして記者は、その人の言葉を鵜呑みにして「これは当選御礼ハガキだ」と判断したのでしょうか。

しかしハガキの内容は 単に差し入れ等に対する御礼に過ぎず、配達された日にちは選挙後であっても その文中に「当選御礼」の表現は一切ありません。

また このハガキは あくまで特定な人に出された御礼ハガキであり、選挙期間中にみだりに文書図画を頒布するという行為でもなく、あの報道は過剰に過ぎたと思うところです。

 

そのうえで。

今回の新聞報道において 私(私たち)が、(これは私個人の問題に限らず)最も問題視せざるを得ないのが「記事のタイトルと本文(事実関係)の大きな相違」です。

記事を読み返していただければ判るとおり、記事のタイトルは「当選御礼ハガキを出した」ですが、本文は「祝電や陣中見舞い等への礼状を出した」に止(とど)まっています。

しかし 記事を熟読しない読者(有権者)は、記事のタイトルと本文の書き出しを見た(読んだ ではなく)瞬間に、私が端(はな)から当選御礼ハガキを出したんだ との半ば〝断定〟につながっている現実がそこにあるのです。

これは ひいては「印象操作」とも思われかねない表現方法であり、併せて 非常に恐ろしいことであると思います。

 

通報や情報提供による記者の取材。それらを積み上げたうえで文字(記事)にする作業。

そしてそこには、公(おおやけ)の場=紙面 に出来事を、いわば世間(社会)に晒(さら)すことへの責任が生じるハズです。

 

私の周辺におられる同紙の読者の中には、私のことも然(さ)ることながら、今回の報道において大きく矛盾した内容を平然と(読者さん曰く)掲載した同紙の姿勢そのものに大きな疑問(憂慮)を抱く方が少なからずおられることに気づかされます。

ある御仁は「これは あの「松本サリン事件」の初期報道と同じじゃないか。」と憤(いきどお)っておられました。

1994年に発生した「松本サリン事件」この際も 同紙は、十分な裏付けが無いままに第1通報者の河野義行さんを犯人視する報道をしていました。

いわば冤罪記事であります。

このことについては、同紙創刊150周年に際し 論説主幹が強い内省を込めて寄稿しています。 

 

 

 

寄稿文は「1994年夏 県警本部担当記者のリーダーだったとき「松本サリン事件」が勃発、その際に 150年の社史において目を背けることのできない重大な人権侵害をした。信濃毎日新聞は裏付けのないまま第1通報者の河野義行さんを犯人視する報道をしてしまった。取材力・判断力・人権を尊重する姿勢・報道記者としての自覚。すべて足りなかったと思う。」

「あの時、メディアは恐怖や不安をあおるように「早く真相を知りたい」という欲求を満たすように、真偽不明の情報に飛びついては 異様な熱を帯びて報道合戦を繰り広げていった。距離を置いていたつもりが、渦の中にいた。浅はかな思い込みが急所となった。悔やみきれない。」旨を述べています。

この後 初期の報道によって犯人に仕立て上げられた河野さんは、それが後に誤報道と判った後も「悪しきレッテル」を貼られ、誹謗中傷などの言葉に尽くせぬ社会的被害を受け続けることになったことは周知のことであります。

 

さらに御仁は「事(こと)の大小はあれど、今回の報道も似たようなケースだ。あんな失敗を犯しておきながら、この新聞社は報道の機微について何ら学習をしていないのか。」

「これは、単にアンタのことに止(とど)まらない。このような先走った報道が平気で行なわれ続ければ、われわれは何を信じて情報に接すればイイのか。」と強い憂慮を示しておられました。

 

 

あの記事の掲載後、私は数度に亘って出稿元(記者)と話しをしました。

記事の掲載に至った経緯を訊き、そのうえで事実誤認・解釈の相違点について胸襟を開いて話したうえで 記事のタイトルと本文との大きな相違について指摘し、さらに 多くの読者が憂慮する「マスコミによる報道の在り方」についても言及したうえで、改めて本件について追記事を掲載することを求め 記者もそれを真摯に捉え、掲載に向け 上(デスク)と相談すると前向きな様子で電話を切りました。

 

ところが、です。

その日(27日)の夜、私のスマホにSNSが。

掲載見送りの連絡でした。

 

 

 

この決定が どのような経過で下されたのは知る由もありませんが、同紙デスクは 追記事掲載の必要性を認めなかったということでありましょうか。

 

 

・・・・・・。

前掲のとおり、私にとって今回の一件は さまざまなことを学び、また さまざまなことを感じ入る機会となりました。

その学びの内容は 多くは苦行となるものでありましたが、せめてもの救いは「理解者」の存在であります。

さまざまな経過を踏まえたうえで「その全てを糧(かて)にして頑張れ!」と言ってくださる方々の存在。これは私にとって このうえなく心強いところです。

おそらくは、今後の人生行路の中で 茨(いばら)の道も待ち受けているかもしれませんが、私自身 多くの方々にお支えいただいていることを何よりの励みとし、これからも あまねく市民みなさんのために精進してまいる決意を新たにいたしたところであります。

 

何より 目前に横たわる諸課題は枚挙に暇も無く、おろおろと立ち止まっている場合ではありません。

これからも「滅私奉公」の意気で歩んでまいります。

 

今朝(23日)の信濃毎日新聞の報道について

今朝(23日)の主要地方紙に、さきの長野市議選における私の行為が掲載されました。

みなさまにおかれましては たいへんお騒がせすることとなり、改めまして心よりお詫び申し上げます。

 

 

 

但し、この記事のタイトルと記事内容には大きな違いがありますので いわゆる〝三分の理〟として述べさせていただきます。

当方は 選挙中の差し入れ等へ御礼を述べるハガキは出しましたが、当選を御礼する内容のハガキは出しておらず、その点(表現)について、記事のタイトルと記事の内容(実際のハガキの内容)が大きく異なっているのです。

賢明な読者は 記事を読み進めていただければお判りのとおり、(記事の)タイトルは「当選御礼ハガキを出した」ですが、私の発言(事実)を元にした本文では「あくまで陣中見舞いなどへの礼状ハガキを出した」こと(事実)だけが掲載されていることから、この記事自体 タイトルと本文の内容とが合っていないのです。

なぜ このような〝矛盾記事〟を掲載するに至ったのか、疑問に堪えません。

ただ (新聞の)一般読者の方々は、記事のタイトルを見た瞬間に第一印象を抱かれることから、私が端(はな)から当選御礼ハガキを出したように思われたことについては残念に思うばかりです。

 

こちらとすれば、いただいたものに対し 純粋な謝意をもって善意(儀礼)で出した礼状ハガキ~それも みだりに不特定多数の有権者に出したものではないもの~が、当方の儀礼を受け取ったハズの人の手によってマスコミに持ち込まれたという事実に少なからずショックを受けているところですが、一方で報道の後も多くの方々に励ましの言葉やメッセージをいただいていることに、今まで以上に感謝の念を新たにしているところであります。

 

いずれにしても、いくら期を重ねたとはいえ 公職選挙法に対する認識が甘かったことを改めて反省し、今後は二度とこのようなことの無いよう自戒してまいる所存であります。

 

以上、お詫びとご報告に代えさせていただきます。

今朝(23日)の信濃毎日新聞の報道について

今朝(23日)の主要地方紙に、さきの長野市議選における私の行為が掲載されました。

みなさまにおかれましては たいへんお騒がせすることとなり、改めまして心よりお詫び申し上げます。

 

 

 

但し、この記事のタイトルと記事内容には大きな違いがありますので いわゆる〝三分の理〟として述べさせていただきます。

当方は 選挙中の差し入れ等へ御礼を述べるハガキは出しましたが、当選を御礼する内容のハガキは出しておらず、その点(表現)について、記事のタイトルと実際のハガキの内容が大きく異なっているのです。

ただ 一般読者の方々は、記事のタイトルを見た瞬間に第一印象を抱かれることから、私が端(はな)から当選御礼ハガキを出したように思われたことについては残念に思うばかりです。

こちらとすれば、いただいたものに対し 単純な謝意をもって善意(儀礼)で出した礼状ハガキがマスコミに持ち込まれたという事実に少なからずショックを受けているところですが、一方で報道の後も多くの方々に励ましの言葉やメッセージをいただいていることに、今まで以上に感謝の念を新たにしているところであります。

 

いずれにしても、いくら期を重ねたとはいえ 公職選挙法・とりわけ文書図画に対する認識が甘かったことを改めて反省し、今後は二度とこのようなことの無いよう自戒してまいる所存であります。

 

以上、お詫びとご報告に代えさせていただきます。

障がい者支援の名の下(もと)での虐待

ニュース記事で、全国で障害者向けグループホームを運営する会社が 愛知県内で運営する施設で利用者から食材費を過大に徴収していたことが分かり、これが 厚生労働省が障害者虐待防止法で定める(禁止する)「経済的虐待」の疑いがあるとして、県が立ち入り監査を実施したことが報じられました。それを耳にした私は このような形でも障がい者への虐待が為(な)されていることを改めて知り、心を痛めたところでした。

 

 

 

 

関係者によると、愛知県内のグループホーム1カ所で 利用者から徴収した食料費の金額が、実際に使った材料の購入額よりも多いケースが発覚したとのこと。他のグループホームでも同様の状況が判明したとのことでありました。

利用者からの施設利用料の経費を定める「厚労省令」によると、グループホームの運営事業者は 利用者から食事の材料購入に際し必要な実費のみを徴収すると規定していますが、この施設(会社)の中には 実際の食材費は利用者1人当たり月約8千円なのに、約2万4千円もの多額を実費として徴収していたところもあったとのこと。

愛知県は、食材費の徴収方法を見直し 過大に徴収した分をさかのぼって返還するよう指導していますが、障がい者支援を逆手に取った虐待を 本来は障がい者支援に努めるべき施設(運営会社)が平然と行なっていたことに、今の障がい者支援の〝闇の部分〟を見た思いがしたところです。

 

改めて「障がい者への虐待」の行為について見ると、以下の5つに分類されています。
① 身体的虐待(叩く、殴る、蹴る、つねる、正当な理由がない身体拘束等)
② 放棄・放置(食事や排泄、入浴、洗濯等身辺の世話や介助をしない等)
③ 心理的虐待(脅し、侮辱、無視、嫌がらせ等で精神的に苦痛を与える等)
④ 性的虐待(性交、性器への接触、裸にする、わいせつな映像を見せる等)
⑤ 経済的虐待(本人の同意なしに年金・賃金・財産や預貯金を処分する等)

このうち、今回のケースは ⑤の「経済的虐待」に該当するということでしょう。

一般的に障がい者への虐待というと、①~④の 身体および精神に対する虐待が挙げられており、このことだけでも 今も施設のどこかで日常的に行なわれている実態があることに憂慮を禁じ得ないところです。

従前にも触れていますが、本来は主役であるハズの利用者(障がい者)さんを無碍(むげ)に「管理」するかの職員の〝勘違い〟は、やがて利用者(障がい者)さんへの虐待の温床となり、そのうえで厄介なのは それが当たり前のこと(行為)としてまかり通っていることです。

そのうえでの 今回の経済的虐待。

モノ言わぬ(反論できない)障がい者さんや 立場の弱い家族をいいことに、まるでボッタクリともいえる食材費の過大徴収は「取れるところから取れ」とばかりの、タチの悪い接客業のような振る舞いと思わされてしまいました。

一方で、かかる障がい者さんの収入(工賃)は 未だ低劣のまま留め置かれており、障害者年金はあるものの さしたる収入も無い障がい者さんから費用をむしり取る行為(それも逃げようの無い食材費から)は、低劣な収入にあえぐ障がい者さん(家族)から過大請求の、無慈悲ここに極まれりといったところでありましょうか。

 

「障害者ビジネス」という言葉があります。

これは、障がい者支援を逆手にとって ちゃっかり懐(ふところ)を潤す諸行のことを指すものですが、今回の食材費の過大徴収は いわば正規の施設運営の皮をかぶったあざとい手法…障がい者支援何でもアリの実態を見せられた感で、残念にならないところであります。

 

今回の報道を一つとして「障がい者支援」の名の下(もと)での実態を改めて検証する必要性を再認識させられたところでありました。

 

長野市議選 ~史上最低の投票率に思う~

〝激戦〟と言われた長野市議会議員選挙が終わりました。

が、私を含め 当事者(関係者)の力(りき)み具合とは裏腹に、その投票率は過去最低の37,32%に止まってしまいました。

実に6割以上の人(有権者)が選挙に行かなかったことになります。

 

私自身、この事実に嘆息したところですが、20日の主要地方紙の社説でも この点について触れられていました。

 

 

 

 

記事(社説)は「(有権者の)6割余が棄権したことをどう受け止めるべきなのか。県内で一番大きな市の自治の足腰が弱っている現れに見える。とりわけ当選した議員にとっては、自らの存在意義に関わる問題ともいえる。あらためて考えなければいけない数字だ。」と断じています。

一方、選挙そのものは激戦だったことは評しています。

定数36に対して51人が立候補、全国で議員のなり手不足が課題になっているさなか、今回より定数が3議席多かった前回選の52人に次いで多い候補者数であること、その中で、20代の無所属新人2人の当選・最大会派の会長や議長経験者の落選・日本維新の会の公認候補がトップで初の議席を得るなど「変化」が現れたものの、議員選択(選挙)に参加した市民はついに4割を切ったことを伝えています。

さらに記事は 過去の社説にも触れています。

「目を覆わんばかりの低投票率は何を物語るか」―と、本紙社説が書いたのは1995年の長野市議選で、この時の投票率は60,13%であったこと、当時は65%を下回れば〝低投票率〟と言われた時代…時代の趨勢を感じざるを得ないことを述べています。

記事はさらに「30年足らずの間に市の環境は大きく変わった。長野冬季五輪に向けた活況は急速に冷め、人口減少を背景に行われた平成の大合併で旧豊野町・戸隠村・鬼無里村・大岡村を編入。その後も少子高齢化は止まらない。あちこちで小中学校の統廃合が進み、地域のまとまりは解(ほど)けつつある。」としています。

また「並行して、議員が何をしているか見えない―との声をよく聞くようになった。」とも述べています。

このことについては「暮らし方、働き方もさまざまな市民との接点が限られてきているためだろう。人口が集中する市街地でより低く、中山間地域では高めに出る地区別の投票率を見ても明らかだ。」としたうえで「薄れる存在感は、議員報酬に見合う仕事をしているのか―との批判も生んでいる。その文脈で、定数削減を実績としてアピールする候補者もいた。」と分析しています。

そのうえで「民意が吸い上げられにくいと懸念される中山間地域を含め、全市的な課題には「地元」意識を超えて取り組みたい。地域課題の解決に関わる住民自治協議会や市民団体などとの連携をもっと深めることも必要だろう。議会活動をチェックしてもらう議会モニターや、議員の政策立案を補助する政策サポーターなど他議会の住民参加の取り組みも参考に、市民との距離を近づける工夫もさらに探りたい。」

で、記事は最後に「もちろん、課題を市議任せにしていいはずはない。低投票率に何を見るのか、主権者である市民は考えなければならない。」と まとめていました。

 

 

私自身は、これまで いち議員として、活動を怠りなく努めてきたつもりでありました。

日々「ブログ」を更新すると共に、市民の方々の要望やご意見などには須(すべから)く応えるなどしながら 活動の「見える化」を図ってきたつもりではありました。

しかし、実際には…全くダメと 自らを断じなければなりません。

今回選挙の最終投票率をみれば、私が地盤とされる川中島・更北地区は35,18%と 市内最低を記録。最も有権者が投票しなかったという〝ワースト地区〟となってしまいました。

 

[参考]長野市議会議員一般選挙 投票状況(結果)速報

            ↓

https://www.city.nagano.nagano.jp/documents/13332/05shigi20.pdf

 

 

で、私の支持者(Aさん)が、こんな〝笑えない笑い話し〟を。

投票日翌日の月曜日、Aさんが職場の同僚(70才代/男性)から「クラちゃん当選できて良かったね。」と声をかけられたとのと。そこまではよかったのですが、その人は会話の最後に「クラちゃんなら大丈夫と思ったから、オレは投票に行かなかったよ。」と涼しいカオで言い、Aさんは その場に固まってしまったそうです。

 

政治 とりわけ地方政治には多くの課題が内在しており、そんな中 行政サイドをチェックする議会の役割は、ますます大きくなっているハズであります。

その「チェック役」を選択する市議選の投票率がこの凋落ぶりとは…この現実を われわれ議員は真摯に受け止め、いわば本来の務め(チェック機能)を果たしたうえで、それを市民の方々にキチンと伝えてゆかなければならないことを改めて自覚すべきと思うばかりです。

 

私は 今回の選挙において「市(市長)に対し、迎合も対立もしない」を掲げてまいりました。

無為にスリ寄ることもしなければ、ただただ反発することもしない。政策本位、是々非々のうちにチェック機能を高めてゆくこととしております。

今、私が知るだけでも 市行政にはチェックすべき課題が山積しており、それも そのほとんどが、いわば〝古いメガネ〟で覗いただけでは見通せない案件であることが再認識されています。

 

私自身、選挙を通じ 再び立場を与えていただきました。

このうえは再び自分自身に喝(かつ)を入れ その職責に挺身すると同時に、その背中を見ていただくことで 市民の市議会を見る目をイイ意味で変えていただき、ひいては これからの投票率アップにつなげてゆきたいと思ったところでありました。

市議選を終えて

令和5年長野市議会議員選挙が終結し、各候補者の当落が確定しました。

私は 得票が前回並み、順位はやや上げて20位となりました。

 

 

 

 

言いようによっては 非常に厳しい結果とも申せ、自省の念を新たにするところであります。

選挙事情としては、私の地盤とされる地域において 私を支援するとした派が、突然に同じ地盤の他候補の支援に回るなどして いわば身内に足元から切り崩されるような展開となり、終盤にマイナス要素が大きく作用したこととなってしまいましたが、そんな中でも 私に対し多くの支持者が思いを寄せてくださいました。

従って 今回の選挙結果は、前回に比しても遜色なく さまざまにご厚情をいただいた感であり、改めて感謝の思いが募るところです。

また そんな外部からのマイナス要素とは別に、今回 私の場合は (私の)不徳の致すところにより、スタートの出遅れ・組織の刷新(若返り)等の未達など 足りないことばかりでありましたが、それを みなさんが寄ってたかってカバーしてくださり、成果につなげることができました。

本当にありがとうございました。

 

開票報告会の夜も、深夜にも拘わらず 女性部を中心に多くの方々にお集まりをいただきました。

私は〝まな板の上の鯉〟であったことから 別室で待機していましたが、その間 時間ごとに伝えられる得票を聞いては、一喜一憂されていたことを伺っています。

やがて「当確」が出て 報告会場に呼ばれると、それは大きな拍手に迎えていただきました。

 

 

 

バンザイの後には、みなさんから次々に花束を贈っていただき 何だか戸惑うほど。

 

 

 

 

一様に笑顔&笑顔。我がことのように喜んでいただき、冥利に尽きたところでありました。

その後は必勝だるまの両眼を開眼し、喜びを分かち合いました。

 

 

 

 

最後に、私の方から遊説隊(ウグイス嬢)に 改めて敬意を表させていただきました。

従前も触れましたが 私の選挙手法は、候補はクルマに乗りっ切りではなく 適宜に分離して票の掘り起こしに努めるべきと考える中、私の〝分身〟である遊説隊は 候補の分も(候補のことを)内外に広めていただくことになっており、そういう面では 実に良く気働きをしてくださいました。

 

 

 

閉会後にはINCの取材を受け、抱負の一端を述べさせていただきました。

 

 

 

 

 

新たな構成となった長野市議会。

一部で世代交代など議員の刷新もあり、新たな布陣で議会が運営されてゆくことになります。

これからの議会がどのような展開を辿るのか、私も含め 知る由はありませんが、一方 俯瞰(ふかん)で見れば、これまでの体制が変わることも想定され そういう面では興味深いところでもあります。

 

 

いずれにしても、諸課題は待った無しの状況にあります。

私の元(もと)にも、18日の朝イチから 祝意の言葉もそこそこに、さまざまな課題の投げかけが寄せられています。

「クラちゃん、当選おめでとう!さて、再び現職になったところで ○○について頼むよ」とばかりに、障がい者支援について・土地利用について・高齢者福祉について・公共交通について・スポーツ施設の課題について・犬の散歩 公園開放について・団体運営について 等々「待ってました!」とばかりに怒濤の如く宿題が押し寄せてくる感、ありがたいことであります。

 

選挙は終われど、止まっていることはできません。

市民益のため、直ちに走り出す(走り出している)ところです。

これからが勝負!と 自らを鼓舞しながら。

 

 

令和5年 長野市議会議員選挙 =みなさまに心からなる御礼=

令和5年長野市議会議員選挙の投開票が行なわれ、おかげさまで私は再選を果たすことができました。

この結果を真摯に受け止め、新たな決意をもって 改めて前へと進んでまいります。

取りも直さず、ご支援いただいたみなさまに心からなる御礼を申し上げます。

 

本当にありがとうございました。

 

 

令和5年 長野市議会議員選挙 =最終日=

10日に告示された 令和5年長野市議会議員選挙が、ついに最終日を迎えました。

(この枕詞(まくらことば)は 選挙終盤に共通して言えることなのですが)ついこの間 出陣式を執り行なったと思ったら、もう この日が最終最後の日となってしまいました。

期間中に どこまで私のことが浸透したかは分かりませんが、いずれにしても悔いだけは残らぬように 最後まで全力を尽くしてまいります。

 

 

最終日に先立ち 遊説の出発前に役員さんにご参集いただき、最後の出陣を前に 取りも直さず御礼の言葉を述べさせていただきました。

顧(かえり)みれば4年前「絶対無理だ」を言われた厳しい状況の中にも関わらず、無理を押して私を再び推挙してくださり、その後は多くのご支援をいただく中で再選を果たさせていただきました。

 

今 こうして令和5年の市議選に出馬できているのも、あのとき(4年前)に私を押し上げてくださったからこそのことであり、それを思うと感謝しか無く 最終日を迎えるにあたって万感の思いがこみ上げてきたところです。

そのうえで 最終日にあたり、私はさらに強い決意を胸にいたしました。

この突き上げるような感謝の思いをエネルギーに変え、最後の最後まで頑張ってゆこう。

そして、みなさんのご薫陶に応えるためにも「結果」を出すべく走り抜いてゆこう。

思いを強くし、最終日に臨んだところでありました。

 

 

 

 

 

この日(16日)は、主に遊説を中心に活動展開しました。

私の選挙戦に臨む考え方は、いかに合理的に票を集めるか、です。

人(陣営)によっては「候補者は とにかく遊説カーに乗るべし」とのお考えもあり、人によっては「候補者が(遊説カーに)乗っていないのはけしからん!」と言われることもあります。現に選挙事務所に「遊説カーが通ったけど本人が乗ってなかった!」とのお叱りの電話がかかってきたこともあったようですが、私とすれば いわば〝分身〟とも言える遊説隊を編成していただいているのだから、遊説活動自体は(遊説隊に)全幅の信頼をもってお任せし 私(候補者)はさらに別の場面で票の掘り起こしに奔走すべきとも思っています。

そういうスタンスで この選挙も臨んだところでありましたが、最終日については でき得る限り遊説カーに乗車し、主に地盤とされるエリアを回ることといたしました。

 

最終日の遊説には、2つの目的があると思います。

それは「最後のお願い」と「感謝」です。

選挙戦も最終日となれば「最後の最後までお願いします!」と割れんばかりの声を上げて懇願する遊説もあり それはそれで迫真のものがあるところですが、私は それ(絶叫型)はやや苦手とするところなのです。

私の場合は どちらかと言えば後段「感謝」の思いを伝えたいというところです。

前掲のとおり、これまで温かいご厚情をいただいたおかげさまで 今回も出馬することができた。

そのうえで 私の思いに耳を傾けていただき、さらなるご支援の声をいただけた。

これら 慈愛ともいえるみなさんの心には、感謝以外の何ものも無いと思うばかりであります。

したがって、最終日の遊説は 日頃お世話になっている方々のお住まいのエリアを中心に行脚し、伺った折には そちらの軒先をお借りするなどして、最後の訴えを重ねさせていただきました。

 

こちらのKさんは 優しさが服を着ているようなお人柄で、後援会活動でのお願いごとを いつも快く引き受けてくださっています。

 

 

 

 

こちらのUさんは、今回 体調不如意で(選挙に)参加していただくことは叶いませんでしたが、いつも私のことと気にかけてくださっています。

 

 

 

 

こちらのNさんは カラオケが上手で、(カラオケで)人が集まるときには常に電話をくださり 私に交流の場を提供してくださっています。

 

 

 

 

こちらのIさんは、改めて聞いてビックリ 齢(よわい)何と95才。

私の初出馬の頃から地域をまとめていただいており、矍鑠(かくしゃく)たる重鎮です。

 

 

 

 

こちらのSさん宅では、一家そろってお出ましいただきました。

 

 

 

実は今回、Sさんママには 無理をいって「ウグイス嬢」をお願いしているのです。

 

 

 

最初は「無理 ムリ!」とマイクから逃げていましたが(^^)イザやってみると、まんざらでもない様子でしたヨ。

 

 

 

 

 

地盤とされる地域内をくまなく巡航した後、この選挙で最後となる個人演説会を開いていただきました。

 

 

 

 

実はこの会場、4年前も同じように最終日に設営されたのです。

前回の選挙では、まさにどうなることか分からない 不安ばかりの選挙の中での個人演説会であり、あのときの心境を思い返すと 万感胸に迫るものがありました。

そのうえで 今回の選挙についても、自らの努力で定数削減を実現したものの 存外に多数多様な候補の乱立により厳しい状況が醸成されていることから、前回とはまた違った切迫感があるところです。

 

 

 

 

そんな状況下ではありますが、参加者の方々は 私の訴えに耳を傾けてくださり、有終のうちに最後の個人演説会を行なうことができたところであります。

 

 

 

 

退場する参加者のみなさんから 口々に「最後まで頑張れ!オレらも頑張るからな!」と激励をいただき、ここでも感謝 ゞ でありました。

 

 

 

 

最後の個人演説会を終えたのが19時15分頃。残された時間、最後の遊説を行ないました。

通常の選挙であれば、20時前に選挙事務所に戻り マイクを通じてご近所への御礼あいさつアナウンスなどを行なうところでありますが、今回の倉野選対は 営業中の割烹の一室をお借りしていることから、店先で騒ぐのは営業妨害になってしまいます。

そこで、選挙事務所まで あと500mの地点で(20時を迎え)マイクを収め、音無しで帰還したところです。

 

 

 

 

と、何とも盛り下がったままに選挙事務所に「ただ今 戻りました。」と入室すると、ウレシイびっくりが待っていました。

何と おそらく女性部を中心に用意してくださったのでしょう、パーティーなどで使う「クラッカー」がパンパンと鳴り響き「おつかれさまー!」の声と 盛大な拍手に迎えていただいたのです。

そのうえで、みんな 笑顔&笑顔です。

私だけじゃなく、みんなが達成感に満ちている風でした。

 

 

 

 

今回の選挙は、前例の無い〝インドア マイク収め〟となりました。

 

 

 

 

私の方からは、とにもかくにも御礼の言葉だけであります。

一方、今回メインでマイクを握ってくれた ウグイスリーダーのTさんは「いろんな選挙事務所に行ったけれど、こんなに雰囲気のイイ選挙事務所は初めてでした!」と言ってくださり、万雷の拍手を受けていました。

その後 私や各位は、電話をかけるなどして有るを尽くしたところですが、いずれにしても 表立った選挙運動は「これにて終了」となり、後は天命を待つばかりであります。

 

 

従前の表現(ブログ)を繰り返せば「アッという間の4年間」でありました。

その中で 私なりに精一杯に活動してきたつもりではありますが、その審判が 17日深夜に下されることになります。